金色の輝きと空 其の一
TOP金色の輝きと空

     

 すべては闇に始まる。

「声」を聞いた。
「声」を始めて聞いた。

 闇の中を手探りするような一筋の光に「声」という
ものを知る。
「三度目の命」だと知った。


 十六年が過ぎた。
 明日香あすかは予感がした。……今年中に、ということを。
 本当は双子だったのだ。だから、分かる。
 姉が、来る。きっと会う。
 ふと「風」の声を聞こえてきた。
《……明日香》
 明日香は「人に話しかける」のと同じように、言葉
を返した。
「何?」
《迎えが、来ますよ》
 風の柔らかい声に、女官まかたちかえでが探しに来たと知った。
またこんなところまで遠乗りなどと、お説教を受ける
ことになるのだろうと、明日香はぼんやり思った。
 だが明日香にとって人里を離れることは必要なこと
なのだ。
 濁りのない、透明な「風」を聞くために。
 明日香はここ山間やまあいの国の首長おびとで、霊力者みこだ。
 そして、この国のために風を「使う」。風は彼女に
霊力ちからを与える。明日香の一族うからは「民に生を捧ぐ一族」
として、近隣の国にまで知られていた。民のためにそ
の霊力を使い、生きる。どのようなときでも。
 己が、己のものではないことを彼女は知っていた。
それは風と民のものなのだ。
 だから時折は、己のための「風」を求めてこの丘に
来ていた。
 ……山に囲まれたこの国で唯一、わずかひとところ、
山の切れ目の「先」を見せる丘。遥か遠く瑠璃色の海
を望む丘。
 明日香は姉を待っていた。その訪れをいち早く風に
教えてもらえるように、ここ毎日、この丘に来ている。
 双子を忌み嫌い、生まれれば闇に天にと返す慣習ならいは、
どこにでもあるものだ。だが明日香は「風の霊力」を
宿す者として生きながらえた。だから、姉は殺される
はずだったのだ。
 生まれるとき母の胎内でそれを知った明日香は、己
の命を姉に与えた。「六度」の転生を繰り返す霊力者
である明日香は、残りの命から一度分の命を捨てて、
姉に与えたのだ。
 それは「民に生を捧ぐ一族」としては許されぬこと。
 そのために多くの霊力を失った。だから、今生で明
日香が「使う」ことができるのは「風」だけだ。
 早くに亡くなった双子の母、水姫みずきは、
「姉と一つになりなさい」
 最期にそう、言い残した。母もまた「民へ生を捧ぐ
一族」の霊力者として、明日香のなしたことに気付い
ていたのだ。
 その方法は二つしかない。
 ひとつの命を共有ともにすること。
 もうひとつは……どちらかが今生の命を失ったとき。
そのとき、残った者に霊力が宿る。
 遠くから呼び声が聞こえて、だんだんと大きくなる。
やはり楓だ。この丘は神殿かむどのの裏にあるから、民も郷士ごうし
も、来ることを避ける。それをわざわざ連れ戻しに来
る者は、楓のほかにあまりない。
 楓は丘にたたずむ白毛の馬と、風に舞う大袖おおそでの衣に
まっすぐ駆けた。
「……様。明日香様ぁーっ」
 だが明日香は動かない。駆ける人影が目の前に来て
から、やっと声をかける。
「何か、あったか? 楓」
「何かって。いい加減お戻りくださいまし。皆も探し
ております」
 くす、と少し笑った明日香は愛馬の白夜びゃくや促し、背に
跨る。
「楓も、乗ったほうが早いだろう?」
 息を切らした楓に言ってはみるが、恐れ多くも、と
言って楓が断るのも、承知なのだった。
						                        △

 山間の国の御宮みあらかの内には内門うちつもんがあり、垣が巡るその
内に、内宮うちつみやの画くなす神殿かむどのがある。
 この神殿が山間の国の首長の昼の御座ひのおましとなっている。
 御簾越しにわずかに見える人影に向かって、主紗かずさは
奏した。
「民が困っております」
「だろうな。……雨が降らぬ。当分、降らぬ」
 明日香はあつらえられている祭壇まつりのばに向かったまま、
振り向かずに言った。ふた月を超えて雨が降らぬなら、
困るのはしかるべきことである。
 それに、主紗も困った表情をしていることも、振り
向かずとも承知のことだった。
 主紗は筆頭いちの郷士である笙木しょうき嗣子むすこで、明日香のい
ちばん側近もとこにある従者ずさだ。
 日頃は御宮に仕える女官を取り仕切る役目を負って
いる。幼い頃は明日香の遊び相手を務めていたことも
あって、明日香にとっていちばん気心の知れている従
者だ。
 主紗も身分を考えぬような幼い頃から、ひとつ年下
の霊力者姫みこひめを妹のように大切に思ってきた。彼にとっ
ての「いちばん」は何につけても「明日香様」だった
から、同じ従者仲間や女官たちにも護り過ぎだとから
かわれていたりする。
 だから、その主紗が明日香を困らせるようなことを
するのは珍しかった。
 ため息をかろうじて飲み込んだ主紗は続けた。彼も、
どうしようもないことを分かっているのだ。
「明日香様は『雨』をお呼びできぬのか、という声も
ございます」
 明日香は顔をしかめた。
「……私には」
「存じております。しかし、母君の水姫さまを覚えて
おります者も多く」
 民も、それを束ねる郷士も、霊力者がどういったこ
とが成しうるのかを知っているわけではない。側近い
者ならともかく、……側近く仕えていても、霊力者で
ない者にとって、本当の意味で「知る」ことはできな
いことだ。
 そのためか霊力者はなんでもできるのだと思い込む
者もある。もちろんこの国を統べるにはその方がよい
ことも多い。
 霊力者が何を霊力の源としているのか、それはこの
山間の国の最大の秘事だった。たとえ郷士でも、限ら
れた者しか知る者はない。
 明日香の母、水姫は水のほか風も火も使った。だか
ら雨雲を呼ぶことができたのだ。
 しかし明日香が「今生」で自在にできるのは「風」
だけで、水や火は、風の霊力を使って感じ取ることが
できるだけなのだ。……せめて水を使うことができた
のなら、狭い範囲であれば、雨雲を起こすことができ
るが、それは明日香ひとりではできないことだ。
「このままでは……隣国の海辺の国の川を奪って水を
引く、などという声もあるのです」
「主紗? 私にどうしろと言う? 那智なちにも、雨雲は
呼べぬ」
 明日香の従妹にあたる那智は、今はその父の生国に
あたる奥津の国で暮らしている。水を使う霊力を持つ
が、その霊力はさほどのものではなく、雨雲を呼んだ
り、起こしたりすることはできない。
「……お二人の霊力を合わせますれば」
「無理だな。那智に命を落とせと命ずることになる」
 合わす霊力に差があれば、弱い者は耐えられないの
だという。これまでにも、一族には民のために霊力を
合わせて命を落としたものがあると伝えられている。
 一族すべてが、霊力を持って生まれるわけではない。
特に今は一族の者が少なく、霊力者みことして生まれたの
は、明日香のほか、那智だけだった。
「いざとなりますれば」
 それは、避けられないことなのだった。「民のため
に生を捧ぐ一族」の霊力者として生まれた限りは。
 明日香にもそれはわかっていた。……わかっていた
つもりでいたのだ。霊力者であり、この国の首長おびとであ
ることの、定めである。
「戦で民を失うことは避けられましょう」
 振り返り、痛そうな表情をした主紗をみて気付く。
彼女の側近もとこの従者は、好き好んで言うわけではない。
おそらく、ほかの郷士に説得を押し付けられたのだろ
う。
 それでも、明日香はきっぱりと言い切った。
「戦も、天空そらも、……私の決めることではない」
 その声は、主紗には、明日香が疲れているように感
じられた。
 それ以上の言葉をかけられなくなった山間の国の首
長の、側近の従者は御前を辞したのである。
						

 転生をやめようか、と明日香は思った。
 残りの生、転生した先の世で使うはずの霊力を、今
のこの生で、今生きる民のために使い、雨雲を呼ぶ。
 できないことではない。だが、決してしてはならな
いことだ。
 井戸に湧く水は少しずつ細くなっている。
 このままでは田も畑も、作物が枯れてしまう。
 ……もともと、山間の国は水に恵まれた土地だ。北
の山からおこった水が川となり、国の西側を回り込む
ように流れる。三方を山に囲まれる国ではあるが、そ
の川がもたらす恵は少なくない。
 川から水を引き、田を作る。川に腰まで浸かって、
魚捕いおどりできる。水脈ながれに沿って井戸も掘れるし、土地その
ものが肥えている。
 だが、なぜか、井戸が細くなる前に川が水を流さな
くなってしまった。今、川の跡にはおおきな水溜りが
ところどころに残されているものの「流れ」にはなら
ない。
 たしかに火照りが続いていた。民も暑さに倒れる者
があるという。
 それでも、こんなに早く、川が水を流さなくなった
理由わけは分からない。
 明日香が「風」に尋ねてみても、「風」は答えない。
何も知らないわけではないはずなのに、決して教えて
くれない。……風は風であって、水ではないのだ。
 わずかでも水の霊力があれば。せめて雨雲を呼ぶこ
とができなくとも、水の声を聞けたなら。
 理由わけなく、成すすべももたず、天空そらの恵を待つので
は、明日香おのれはこの国の首長と言えない。霊力者である
とも。
 民はみな、細い井戸から水をくみ上げ、しのいでい
る。霊力者である明日香が、雨雲を呼ぶまでのことだ
から、と。
 この近隣の国では、もう水の流れる川があるのは、
隣国の海辺の国だけになったという。一日をかければ
おとなうことのできるかの国から、川が枯れてから幾度
か、水を購っている。
 海辺の国は丘の向こう、海のある国。丘を越える先
には、崖があって降りることができないから、崖を避
けて作られた山路みちを使う。それでも帰るその路は、坂
道を上り続ける。まして荷は水、往くときと違って、
二日ほどかかってしまう。
 水の値はどんどん上がっている。そして火照りはや
まない。……いつ、海辺の国が水を売らなくなるか、
わかったものではないのだ。
 明日香は、残り二度、転生を繰り返す。
 この転生をやめることは、一族の子孫すえから、二人の
霊力者が消えることになる。
 一族が霊力を持ち続けるのは、転生のためだ。今生
を終えた霊力者は、その霊力で時を越えて同じ一族の
子孫に生まれ変わる。
 時を越えるためには多くの霊力が必要で、何度も転
生できるわけではない。
 それでも、この転生のための霊力ならば、今は使え
ない「水」の霊力を使うことができるはずだった。
 ……明日香が生れ落ちるときに、双子の姉にその霊
力を与えたように。
 転生するよりも前の記憶はない。
 それでもこの生は、祖先さきの時を生きた霊力者が、民
のために明日香に与えたものであることは確かだ。
 明日香は、明日香自身のものではない。
 いつもの丘で、彼女は仰向けに転がっていた。少し
ずつ、丘は緑を失っている。背中がくすぐったく感じ
るのは、枯れ草が多くなっているためだろう。
 さわさわと、風が丘を通り抜けた。
 明日香の隣では、白夜が大人しく草をんでいる。
「白夜。お前は、私が私ではなかったら、どうする?」
 愛馬は困ったように顔を寄せた。白夜はほかの者に
は懐かない。明日香だけの馬だった。
 明日香の生は、明日香ではない者が、明日香ではな
い者のために用意したものだ。転生をやめるなら、そ
んな考えを持つ者が減る……。
 丘から両脇を山に切り取られたように、わずかに見
える海。海は多くの水を湛え、いくらでも水を岸辺に
寄せてくるのだという。
 なのに、その水は塩辛くて飲むことができないと聞
いていた。
 海は隣国のもので、首長である明日香がかんたんに
近付けるものではなかったから、話に聞いたことがあ
るだけだ。
 それでも、明日香は海を眺めるのが好きだった。
 そして、雨雲も海からやってくるという。
《まだ、雨雲は来ませんよ》
 風の声が、いつもと同じことを、言った。
						

 主紗かずさは弱ってしまった。
 また、その父、笙木しょうきもだ。
 祭事まつりごとが首長である明日香なら、政事まつりごとは郷士の会合で
決まった。
 その会合で、笙木や主紗がおそれていたことがとう
とう起きてしまったのだ。
 郷士のひとりが、もう水を買う余裕などないと言い
出した。海の幸で潤う隣国、海辺の国から購うばかり
では、いらぬ勢力ちからをつけさせると。
 海辺の国には、山間の国の明日香のような、はっき
りとした首長を持たない。だが郷士たちはよくまとま
り、その勢力は海から遠く山の中腹なかばにまで及んでいる。
 以前から山の幸と海の幸を交し合うはあったが、交易あきなり
海辺の国は熱心ではなかった。
 この近隣の国々は、山間の国の霊力者みこを敬い立てる
ことで平穏を保ってきた。山間の国は同盟ちぎり盟主国あるじな
のである。そうしたことで山間の国に礼をとる国が多
い中、海辺の国だけはあくまで同じ立場にあることを
望み、共に同盟ちぎりを支えてきた。
 だが、このところの日照りと水不足で、関係が今ま
でになく悪くなっていた。
 海があるのに、川のある山奥まで国を広げるのはお
かしい、海の幸で生きていけるのだから、山に生きる
我らに川を譲るのは当然だ、と言い出す郷士がいるの
である。……譲れとは聞こえのいい、戦で奪い取ると
いうことだ。
「明日香様は戦を好まない」
 主紗は側近の従者として末席から反論したが、
「ではなぜ、雨を呼んでくださらぬ。水姫様はもっと、
ご慈悲がございましたぞ」
 そのように返されては、何も言えなくなってしまう
のだ。
 霊力者がどんな霊力を使うか、何ができるか、そし
て転生のことも、一部のもののみが知る秘事である。
だから、いつかはそういうことを言い出す者たちが出
てくるだろうことは分かっていた。
 分かっていたが、どうすべきか、答がでないまま今
を向かえている。
 ひとりが匂わせることであっという間に膨れ上がっ
った「戦派」の郷士たちに押しきられ、場を取りまと
める筆頭郷士いちのごうしである笙木は、とにかく今、戦を仕掛け
てもよいものか、明日香様にお伺い立てる、というこ
とで会合を終わらせた。
 会合のあと、笙木は神殿に向かう主紗を呼びとめて、
明日香様に悟られるな、と言い含めた。
 会合で決めたことを報せる役目の者は別にいる。そ
ちらにはすでに嘘のない伏せ方を示しているのだろう。
そういうところについては、己の父は細やかに気を配
っていることを主紗は知っている。
 それよりも笙木は側近として傍らに仕える主紗を気
にしていた。
 笙木が私財たからを費やして水代にし、当面を乗り切るつ
もりでいることはすでに聞いている。
 笙木と別れた主紗が、神殿かむどののある内宮うちつみやに向かうと、
小内門こうちもんのあたりから女官まかたちの楓がやってくる。
 楓も主紗に気付いたらしく、ちょうどよかった、と
うような表情を作った。
「主紗どの。明日香様がお召しです」
 首を傾げた。ただの用事なら、楓やほかの女官でも
事足りる。会合のことなら、その役目の者が報せてい
る頃合だろう。
 考えながら、主紗は神殿へ向かった。
 いつもと同じように、御簾の外に控える。掖月わきづきに身
をもたれる明日香の影が見えた。
「主紗、参りました。急なお召しとか」
「……隠し事など、するものではないな」
 主紗は舌打ちしそうになった。それでも用心深く、
返してみる。
「そうおっしゃいますのは?」
「今の会合。笙木の気持ちはわかる。……戦でお前の
母を亡くしているから。先に参った報せの者はごまか
した。では、私の従者は嘘をつくつもりだったかと思
ったから」
 会合所は御簾も蔀も上げられていたから、風が吹き
込んでいたのだ。会合だけではなく、笙木との話も、
風に聞かれていたらしい。主紗は己の父に、心で悪態
をついた。
 もともと会合は郷士のものだから、首長である明日
香は臨まない。日頃はそのようなことはしないから忘
れがちになるが、霊力者ならばたとえ締め切っても、
風を中にすべり込ませることができる。
 仕方なく主紗は口を開いた。
「おそれながら。民の暮らしにも、限りというものが
ございましょう。そのときがきてからでは遅いかと」
 明日香はまったく違うことで返した。
「先刻、那智が来た」
 え、と主紗は顔を上げる。那智の暮らす奥津おきつの国は、
海辺の国と反対側にある隣国で、馬を急がせても一昼
夜はかかる。訪問おとないには先触れがあるものだが、会合所
にはそれを伝える者はなかった。それでも、主紗の役
目柄、それを知らぬとは大失態だ。
「あぁ、風に声を乗せてきただけだ。那智自ら来てい
るわけではない。……奥津の国も、水不足になってい
る。雨雲を呼びましょう、などと言ってきた」
 私にはできぬ、と明日香は言った。
「……奥津の国には、もとから川がないと聞いており
ます。いくつかある泉と池が、枯れたのでしょうか」
 主紗は生まれたこの方、いまだ山間の国を出たこと
がない。だから、たまに使者つかいの役目を負ってかの国に
向かったことのある者の話を聞くだけだ。そしてそれ
は明日香も同じで、言葉に出したことろで明日香には
何の意味もない。
「主紗、那智の方がしっかりしているな。私は……民
に生を捧ぐために、何をしてよいのかわからない」
 下がれ、と命じられた主紗は、ただ愚痴を言うため
に呼ばれたのではないことがわかった。
 それでも、主紗は霊力者でも首長でもないから、明
日香の言葉の深いところにある意味までも、分かるこ
とはできない。それがとても歯痒い。
 命じられたからには、下がるしかない。
 幼い頃共に遊んだ「御子姫みこひめ」が、とても遠く感じら
れた。
						

 主紗の母、紗鳴さなるは、彼がひとつのときに亡くなった。
幼くて、その記憶はない。笙木は、
「殺しの報いだ」
と言っていたが、それは笙木が戦で人を殺したことと
は少し違っていることに、主紗はいつの間にか気付い
ていた。だが、訊くことができないままになっている。
 先ほど明日香に、母親のことを言われて、今さらな
がらそんなことを思う。
 主紗は山道を歩いていた。
 さらに正しく言うなら、明日香の愛馬を引っ張りな
がら歩いていた。
 この先の山道はほとんど獣道で、たどれば海辺の国
の国境くにざかいに行きつく。
 明日香のほかに懐かない暴れ馬の白夜を連れてここ
まで来たのには訳がある。
 白夜はきれいな白毛の馬だか、この日照りで乾いた
地を駆けるとすぐに埃にまみれて薄汚くなってしまう。
それでは乗る明日香までもが汚れてしまうのだ。
 毛並みを梳いて埃を落とすが、それでは間に合わな
い。なのに明日香は水不足のこともあり、白夜を水で
洗うのを許さない。どうせ己はみそぎするから、汚れても
いい、などと言う。
 しかし、しかしである。
 主紗は思った。
 明日香様は本当は白夜をきれいにしてあげたいはず、
なのである、と。白夜のあの白毛を、本当に愛しんで
おられるのだから。
 主紗にとっては明日香がいちばん、彼女の喜ぶのを
みることこそ至高である。
 だから主紗は、山奥の小川ならばみつかるまいと、
こっそり白夜を連れ出したのだ。厩番にも見つからな
いように、黙って出てきた。
 しかし、肝心の白夜が言うことをきかない。
 細い山道で、両側には木々が迫っている。こんな山
道はいやだと暴れて、暴れるからそこらの枝やら蔓や
らに体をぶつけてまた暴れる。
 なんとか白夜と足元を這う木の根に苦戦しながらも、
目指す小川にたどり着いた。
 邸宅やしきに出入りする流れの猟人さつおに聞いたことがあった
のを、覚えていたのだ。そちらの国か、定められない
ままとなった場所。そのような場所には諍いをさける
ため、普段は誰も立ちいらない。中でもここは、誰も
近づかないうちに、ほとんど忘れられていて、そこに
流れる小川は、海辺の国に続いているのだと。
 国でいちばんおおきな川はすでに干上がって水を流
さない。この川は丘の先の崖を滝となって落ち、その
まま海辺の国の大川を成して海にそそぐのだという。
 この川が流れていないならば、海辺の国も同じだ。
それでも、かの国には水の流れる川がまだあるという。
ならばそれはきっと、小川のことだ、と主紗は思った。
 もっともそのぶん、小川がどのあたりにあるか、本
当に流れているか何も確めないまま山に入った。
 だからこの小さな流れをみたときには、疲れを忘れ
た。手首までつかるほどの深さしかない流れで、幅も
ひとまたぎできるほど。それでも今の主紗には充分だ
った。
 近くの木に白夜を繋いで、涼やかな流れに手を浸し
すくう。飲むと心地よさがのどを伝った。白夜も首を
のばして水を飲み始める。はじめて大人しくなった今
のうちにと、さっそく白夜の毛を梳きはじめた。
 白夜は本当に頭のいい馬で、水浴びができることに
気付いて主紗の言うことをきく。
「ふーぅ。苦労したかいがあったかな……」
 久しぶりに白毛に戻った白夜の背は、木漏れ日のた
めに濡れてもすぐに乾くだろう。繋がれた縄をくいく
いと引っ張るので放してやると、白夜は体をぶるると
揺すった。そして流れに鼻先を近づける。
 主紗も喜ぶ明日香を思い描きながら足を流れに浸し、
仰向けになって背中を地につけた。のびをする。
 この辺りの森はまだ日照りも水不足も感じさせない。
さらさらと流れる音、どこかでさえずる鳥、白夜は草
を食み始めた。
 いろんな音があるのに、主紗はそれを静かだと思っ
た。静かで、優しい音だと。
 が、その静けさをやぶったのは白夜だ。突然なにか
の気配に反応したように、首をあげた。辺りを警戒す
るような態度に見える。
「どうしたんだ?」
 白夜は賢い。何かある。
 隣国の者に見つかったかと、主紗は急いで、だが、
そっと水の流れから足を抜く。音を立てないためと、
水中の砂をかきたてて人のいた痕を残さないために。
 周りの気配をさぐってみるが、主紗にはわからない。
兵士や衛士や、他国に入り込り様子を探る窺見うかみらと違
って、そのようなことにはあいにくと物慣れないのだ。
 首長の従者としてひととおり身に付けたが、人より
秀でているというほどではない。それで主紗は白夜が
警戒する方向と反対の木陰に隠れて息を潜めた。
 見つかったのが白夜だけなら、まだいい。逃げた馬
が隣国に入り込んだので、などと正使を立てて連れ戻
すことができる。
 だが主紗が見つかれば、ことは複雑になる。窺見と
断じられれば、それでなくとも両国の関係が微妙な今、
一気に関係が悪化して戦の因になりかねない。
 今は、窺見は何処の国も放ってはならない約定きまりがあ
るのだ。……白夜を繋いでおかず、助かった。
 やがて、草を分け踏む音がした。獣のそれではない。
主紗は体を小さくして様子を窺う。
 あの白夜が、微動だにしないのが見えた。熟練の兵
士だろうか。
 だが、姿を現したのは、ひとりの少女だった。主紗
といくらも違わない。
 白い大袖の衣。薄紅うす裳裾もすそを手でたくしあげている
のは、道なき草むらを来たからか。首からさげている
のは翡翠の勾玉、どうやら巫女のようだった。
 姿形のあと、主紗はその巫女の顔を見て己の目を疑
った。
 ……明日香様っ!?
 声を出しそうになったのを飲み込んだのはさすが、
側近の従者だ、と己で思う。違う、明日香様ではない。
 いくら忍んで御宮を抜け出すことを好む明日香様で
も、白夜なしで出歩くことはないし、装飾かざりを身に付け
るのは祭事のときだけ、日頃はいくら進呈されても、
嫌がるのだ。
 そして、明日香様のほかに懐かない白夜が警戒を解
かないままだ。
 主紗はそれをよく分かっていたのだ。だがそれでも、
驚いていた。
 白夜も、後退りする。
 そう、顔だけではない。そのまとう空気が、物腰や
しぐさがまでもが。……どこか似ている。
 まっすぐに白夜に歩み寄った巫女は、手を伸ばして
その頬に触れる。
「お馬がひとりで……どうしたの? ずいぶんと怯え
て。こちらにいらっしゃいな」
 警戒を解かない白夜。たてがみをなでられるままに、
動かない。
「どうしたの。……あぁ、どこでしょう……」
 巫女は辺りを見回した。主紗は血の気が引くような
心地がした。まさか、気付かれたか。
 そしで同時になぜ、という思いがわき起こる。明日
香さまであったなら、風にでもお聞きになるだろう。
 だが、彼女は明日香様ではない。霊力者だとも思え
ない。姿形から巫女のようだが、巫女は、霊力者のよ
うには、易々と声を聞くことができるはずがない。
 主紗は木に登らなかったことを後悔した。巫女が迷
いのない足取りでこちらに向かってくるから。
 こちらから姿を現して、道に迷ったと事訳ことわけて口止め
しようか、主紗にはそのくらいしか思い浮かばなかっ
た。それとも、このまま逃げるか……。
 頭を忙しく回転させ、振り返ったときにはすでに目
の前に巫女がいた。
「隠れても、分かる。お馬の方がお利口みたい」
「……道に迷って森に入り込んでしまった。ほかの者
には言わないでほしい。国境はどちらだ?」
「知っているのに、聞くの?」
 その言葉とともに、巫女の顔つきが変わる。それは
不敵な笑み。愛らしさなどない。冴えた笑みを湛えた
が目が主紗を鋭く射抜いた。
 主紗は悟った。この巫女は明日香様とは違う。己の
仕える霊力者には決してできない笑みを、この巫女は
たやすく表情に浮かべることができるのだから。
 主紗はわずかに後退った。そして急に辺りが暗くな
るのに気付いた。見れば、木立の隙間にのぞく空が、
低く雲を垂れこめている。まさか……!
 驚く主紗を、巫女は笑みを湛えたまま見やる。雨が、
降り始めた。主紗の体を、その場に在る者を、地を、
草木を。雨の滴が激しく叩いた。
 二ヶ月以上も見ていない、雨。それが、今、天空か
ら降りそそぐ……!
 だが、歓喜の感情はわき起こることなく、ただ呆然
と雨に打たれた。
「不思議かしら?」
 巫女のその言葉が、主紗の感情を、戦慄に変えた。
この巫女が、呼んだのか、雨を。明日香様にも呼べぬ
雨を! それほどの霊力を……!
 主紗が唐突に分かったことがある。今、降りしきる
この雨は「ここ」にしか降っていないのだ。この森の、
この場所にだけ、幻のように雨雲が重くのしかかって
いる。
 主紗は己がこの巫女の霊力を畏れたのか、それとも
打たれる雨よりも凍てる巫女の眼差しと笑みに恐れた
のか、分からなかった。
 ただ、今体を動かすには、自らを奮い立たせなくて
はならないことが分かっていた。
 振り絞るように主紗は動いた。巫女の横をすり抜け、
白夜の元へ駆け寄る。くつわをとって山間の国の内へと。
今は白夜も言うことを聞く。
 しかし慣れぬ山道。足元には木の根が這い、湿った
草が駆ける足に絡み付く。道は打たれる雨にぬかるみ
はじめていた。
 来た道をたどっているつもりでいた。だがその道は
もとからあってないような獣道。いつ迷ってもおかし
くはない。
「!」
 気が付いたときには、崖沿いを駆けていた。山間の
国にこのような場所を聞いたことも見たこともない。
本当に迷って、海辺の国の奥深く入り込んだのか。
 逃げるように駆ける主紗には崖下を覗き込むような
余裕はない。だが……高い、崖。足元も、ぬかる。
「うあっ!」
 主紗は踏み出した方足に体を引かれて崖から滑り落
ちた。白夜の嘶きが、最後の記憶。
						

 主紗の記憶の続きは、見慣れぬ天井で始まる。茅葺かやぶき
である。彼は板間に寝ていた。真菰まこも五重いつつえに重ねたむしろ牀榻ねだい代わりにして、衾麻ふすまをかぶっていたのである。
 重いまぶたを押し開けると、見慣れた……いや、見
慣れぬ顔が彼を覗き込んでいるのが、茅葺を後ろにし
て見えた。
 そのことは、彼にこのような事態に陥れた因と思い
出させるに至らなかった。ただ、明日香様ではないと
分かるだけなのだ。
 そっと息を吐いた声がいくぶん柔らかく落ちてくる。
「気付いたようね?」
 だが、主紗の体はまぶたよりも重いらしく、動かす
ことはできなかった。
「崖から落ちて、体を打ったの。無理に動かないほう
がいい」
 主紗はなんとかその巫女の言葉をかみくだいた。
「ここは」
「海辺の国。勝手に運んだの」
 そのとき彼女の後ろから違う女の声が聞こえてきた。
「巫女様、何か温かいものでもお持ちしましょうか」
「そうね、お願い」
 日頃「よくできた従者」であるはずの主紗だが、今
はまったく頭の働きが鈍くなっていた。
 ここは。海辺の国で。
 それは。隣国の国の名前で。
 そして。助けられたらしくて。
 体も、動かなくて。
 やっと、それだけが分かる。
 「日頃の主紗」ならばかなり危うい事態であるとい
う考えが浮かぶ。だが今は彼の体も思考も、動かない。
やっかいなことに、ぼんやりと「まずい気がする」と、
勘のようなものが働くのは、日頃「よくできた従者」
であるせいで、そのあたりは彼は己の失態をいち早く
把握する能力は失っていないようだった。
 婢女まかたちだろうか。ひとりの女が、湯気の立ったもいを運
んできた。
「体、起こしましょう」
 巫女が主紗の体を起こすのを手伝った。それでやっ
っと主紗は、己の体が、何処が傷むのかがわからない
ほど、青あざがあることを知った。
 手渡された器に満たされたあつものをすすると、少しだけ
頭が動き出したようだ。温かさがのどをつたって、体
と気持ちを落ち着かせていく。
 羹から、いや、辺りから潮の香りがする。
 山間の国で時折、風が気の向いたように乗せてくる
ほのかなものではない。ずっと強く、確かな香りだ。
 だが、雨が降ったあとのじんわりした土や緑の香り
がない。
 雨に打たれたはずだった。苧麻からむしほうも、その下に身
に付けた粗衣あらぎぬの衣も、すっかり濡れてしまうくらいに。
 それは夢だったのか。幻を見たというのか。
 それとも、海辺の国では雨のあとの香りは、潮の香
りに負けてしまうものなのだろうか。……長い間、気
を失っていたためかもしれない。
 そう考えてから、はたと気付く。己は誰にも何も言
わずに出て来たのだ。
「私は……どのくらい気を失っていた?」
 問われた巫女は事も無げに答えた。
「まだ日は沈んでいない。焦らずとも、海辺の国のほ
かの者には知られていない。お馬は外に繋いであるけ
ど」
 当然ながら白夜が大人しくしているはずもないのだ
が、そのことに主紗は思い至らない。
 日は沈んでいないのならこれから夕刻になるはずで、
それほど時が経っていないのだとぼんやり思った。
 明日香様は白夜さまがいないことで遠乗りできずに
困っておられるだろうか。女官まかたちの楓どのは、うまく皆
を滞りなく動かしているだろうか。
 厩番は落ち込んでいるかも知れない。白夜の行方が
分からないのだから。明日香様に問いただされても、
何も答えられまい。
 それとも、明日香様はもう「風」に聞いておられる
だろうか。
 この巫女のことも。雨のことも。
 風は何かを知っているのか……。
 主紗はすぐにでも、山間の国に戻らなくてはならな
かった。難しい理屈はともかく、国境くにざかいを越えてしまっ
たのだから。
 彼は己が寝床としている五重の莚の傍らの巫女を見
返した。
 あのとき、凍てつくような笑みをどこに隠している
のか表情に乏しいまま、主紗を見る巫女。
 彼女は主紗が山間の国の者だとはっきりと知ってい
る。流れの猟人さつおが使う獣道のような山路を来た。迷人まよいびと
かも知れないとは考えず、まるでなにもかも事情ことを知
っているように。
 その上で、主紗を匿っているようだ。
 どちらが、彼女の本当の姿なのか。
 明日香様に似た巫女。そして雨。
 なぜか主紗はあの雨は今己の目の前にいる巫女が呼
んだものだと感じていた。雨を呼び、あの森だけを降
らせていたものだと。
 器を両手で包み、主紗は巫女に向き直った。
「助けていただいてすまない、ありがとう存じる。…
…貴女はこの国の巫女か? 急ぎ戻りたいのだ。満足
に礼のできぬが」
 表情の乏しい巫女の瞳が揺れて、主紗を「見た」。
「聞かないの?」
 その巫女の問いに、主紗はどきり、とした。
 それは主紗の気持ちを言い当てたものであったから。
「……巫女ではあるけれど、この国の者ではないの。
国を持たぬ旅の巫女。ここにはもうふた月になる」
 そんなことより、と彼女は言葉を区切った。
 振り返れば、それほど大きくはない小館内たちうちには、ま
だ先ほど羹の器を運んだ女が控えていた。女を下がら
せて、気配のなくなってから巫女は主紗を見やった。
「……巫女様」
「名前でお呼びなさい。水葉みなはという」
 巫女は主紗の呼びかけを遮って名を明かした。
 そのことが、せっかく動き出し始めた主紗の思考を
固まらせた。そのようなことができるはずもない。
 軽々しく、巫女の……霊力者みこの名を呼ぶことなど、
できない。
 見開いた目で彼女を見つめた。このような場合の、
礼節はどのように振舞えばよいのだろう?
 主紗や笙木、楓が「明日香の名」を口にできるのは
特に許しがあってのことである。
 名は、己を現すもの。
 それは「意思」を示すのも同然のこと。名は「意思」
の霊力なのだ。
 霊力者は「意思」を知りその霊力ちからを使う。
 だから霊力者の名は、その霊力を顕すために必要な
のである。
 山間の国の首長おびとである「明日香」は、首長を継ぐと
きに、風から「名受け」した。
 彼女の幼い頃の名は、風香音分得姫かざかねわけうるひめ。
 「通り名」は、そこから「風音かざね」。
 名受けは霊力者と霊力者の源を結ぶ。名受けがなく
てはたとえ「民に生を捧ぐ一族」の者であっても、そ
れを自在にできない。明日香も、幼い頃は風を使うの
に難儀していたのを、主紗は覚えている。
 霊力者の名は容易に汚してはならない。
 明日香の名を呼ぶことができるのは、風がそれを認
めているからだ。風がそれをよしとしないと、明日香
は荒ぶる風を押さえることができなくなるだろう。
 それは巫女も同じことだ。
 巫女は霊力を使わずとも、声を聞く。己の存在を忘
我し、すべてとひとつになり、声を引き寄せる。
 本当の名をほかの者に知られては、声を聞くことが
できなくなるというから、巫女となれば生きるうちは
名を明かさない。
 だが、と主紗はわずかに思案した。この巫女の場合
はどうなのだろうか。彼女は、主紗の目の前で霊力を
使って見せた。霊力者ならば、必ず「受け名」がある。
今名乗ったそれが、彼女の「受け名」なのだろうか。
 その困惑を見て取って、巫女は付け加えた。
「私は旅の巫女にすぎない。……霊力者様とは違う。
『通り名』のほかに名を持たないし、こだわることは
ないの」
 それよりも、と彼女はまっすぐに主紗を見た。
「聞かないの?」
 抑揚のない声で、繰り返し主紗に問うた。
「なぜ貴方が小川にいたのを知っていたのか。他国よその
者だと知りながら助けて匿ったこと。そして、雨のこ
と。……聞きたい、のではないの?」
 そうだ、と主紗は思った。聞きたいのだ。聞いて、
知りたい。
 貴女は、明日香様をご存知か、と。よく似ておられ
ることも。
 ただ、それを尋ねるのは躊躇われるのだ。聞いては
ならないことなのではないかというわずかな予感。聞
いてしまえば、知ってしまえば、それをきっかけにし
てすべてが変わっていき、最後に崩れてしまうような。
 なぜそのように思うのか、今の主紗には分からない。
だが、予感というものは、そういうものに違いない。
 彼女は……水葉と名乗った巫女は、主紗が何も問え
ないうちに、話を変えた。
「少し体を治さないと、山路は行けない。そうね……
あのお馬はとても賢そうだこと。ひとりぼっちでも、
帰れるくらいに。いかが?」
 水葉は主紗が誰にも行き先を告げずに来たことまで
も知っているような口ぶりで言った。
 問われた主紗は、やはりぼんやりする頭で考えたが、
白夜をどうすればよいかくらいは、考えられる。
 主紗はまだ動けないのだ。だが、白夜は明日香様の
愛馬だ。
 主紗の代わりは、楓やほかの従者が務めるだろう。
白夜の代わりがいないのとは、違う。
 わずかの逡巡と、淋しさがよぎるが、主紗は側近の
従者としての言葉を選ぶよりないのである。
「……白夜を、あの小川へ連れていただけまいか。あ
とは、戻れる」
「承りましょう。貴方も数日もすれば、動けるでしょ
う。大きな怪我はない。身の回りのことは先ほどの者
に頼んである。ここは集落むらと離れた林の入り口でにあ
って、行宮かりみやだから、ほかの者は近づかない。気にせず、
体を治しなさい」
 それだけを言って、水葉は立ち上がった。衣擦れの
音も滑らかに。衝立ついたての向こうに見えるとばりをかきあげて
出て行った。
 主紗は何も聞くことができなかった。
 かすかに御簾や帳の隙間から入る光は、すでに夕日
のようだった。しばらくして、先ほど羹を運んだ女が、
夕餉を折敷おしきに並べて運んできた。羹は本当は夕餉のう
ちの一品だったらしい。
 夕餉は美味しく感じられた。山間の国ではめったに
手に入ることのない、海の幸を使っている。
 主紗にとってはごちそうだが、見た目も味も質素で、
だからきっと集落の者たちが口にする、特別なもので
はないのかも知れなかった。
 夕餉は美味しかったものの、これからのことを考え
るには、主紗の体も頭も、疲れすぎていた。
 まるで課せられたように臓腑に夕餉を送り込むと、
 小館内たちうちが少しずつ暗くなっていくのにつれて、眠気
が出てきた。女が燭台しょくだいに火を付けようとしたが、それ
を断って、そうそうに夜具にもぐりこみ、眠りに落ち
てしまった。
						

 だから、主紗の翌日はやはり隣国から始まる。
 長年の習慣ならいは目覚める国が違っても変わらないから、
いつものように、彼は目覚めた。
 小館内にわずかに入る光はまだ朝日のそれにはなら
ず、ただぼんやりと影を薄く作っている。
 主紗の邸宅やしき御宮みあらかから山間の国の集落むらを挟んだ向こ
う側で、少しばかり遠い。
 側近として仕える彼は役目柄どうしても内宮うちつみやへの参
るのは早くなくてはならない。そして何よりも、早く
から明日香様の傍らにあるのが彼の喜びであり、務め
であり、明日香様の御為であると、固く信じている。
 いつものように目覚めた彼は、体を起こそうとして
痛みを感じ、それで「いつもの朝」ではないことを思
い出したのだ。
「……そうか、隣国か」
 己の主の元へと参られぬことを思い、焦りと虚しさ
に襲われる。主の元にあらねば、何もすることがない
のだ。
 体の痛みのために、何もできないというものが、本
当のところであったから、彼は崖から落ちたことを激
しく悔やんだ。
 隣国にあるから傍らに参られぬのではない。たとえ
この隣国よりも遠くにあっても、体が動くのであれば
必ず参じてみせるというのに。
 何もできない彼は、とりあえず動く首をめぐらせて、
小館内の様子を探った。近くに人の気配は感じない。
そっとため息にも似た息をはいた。
 耳を澄ませば鳥が鳴いている。それは山間の国でも
たびたび耳にするさえずりだった。
 海辺の国は海のほか、林や森に囲まれているという。
おそらく海よりも、山にほど近い所にこの小館はある
のだと推し量った。
 淡い明かりは板壁や妻戸つまどの隙間から光となってもた
らされている。その光を頼りに小館内のしつらいに目
を向けた。
 主紗は日頃山間の国の首長おびとである明日香に仕えてい
るし、郷士身分でもあったから、それなりに良い品物
には見慣れているが、ここにあるものはどれもさほど
のものはない。
 衝立ついたてには華美な図案はなく、とばりも粗絹のもの、燭台
にも塗りはなく、敷かれたむしろはどれも真菰まこもで、上等と
というほどではない。屋内の二方は板壁で残りは壁代かべしろ垂布たれぎぬがかかるが、これは御簾がないためのようだ。
 その垂布の向こうにしとみが布越しに見える。廂間ひさしのまに
なっているのだろう。
 もう片方の布越しに次間つぎのまが見えるが目立ったものは
何もなく、間取りはこの二つだけ、どうやら行宮かりみやとい
うのは嘘ではなさそうだった。
 寝起きとはいえ、昨夜よりもはるかに主紗の頭は働
きがいい。少なくとも、落ち着きをいくぶん取戻し、
失念していたことを思い起こすことができている。
 たとえば己の父、笙木しょうきのこと。
明日香様の側近の従者たる主紗が、一日傍らにないと
いう失態を責められるのではないか。その時機を逃す
ような悠長な情勢なりゆきに今はない。
 白夜はすでに放されただろうか。一晩、あの気難し
い白馬が大人しく過ごすとも思えない。
 雨のこと。それはまだたった前日のこと。幻のよう
に、あの巫女、水葉様は確かに雨を降らせた。
 明日香様は、すでに風にお聞きになっておられるだ
ろうか。傍らに仕えることのできぬことを、どうか許
してほしい……。
 体さえ動くのならば、戻る道は山路がいい。国同士
を結ぶ山路は、交易路あきなりのみちでもあり、連絡路つなぎのみちでもある。山
間の国と海辺の国を結ぶ山路は、行き来に一日ほどし
かかからない。
 だが、その山路をそのまま辿るわけにはいかない。
山路には、それぞれの国がその入り口に関塞せきを置く。
兵士や衛士らがその国の通行いききを司り、防人さきもりを務めてい
る。
 関塞を超えるには、旅旌たびふだがなくてはならないのだが、
あいにく主紗は、旅旌がない。もともと国外くにそとに出る役
目はないから、持っていないのだ。
 次々と思い起こすうちに、ふと思い当たる。
 己は、山間の国を出たのはこれがはじめてのことな
のだと。
 疲れのせいか、なぜかそのことに今の今まで思い至
らなかった。一度気付いてしまうと、急に胸音が高鳴
るような心地がした。
 旅の巫女と名乗った水葉が、日頃仕える明日香に似
ているためなのかも知れなかったが、彼はそういう意
識が薄れていた。
 山間の国には、近隣の国々から明日香の謁見するた
めの客人まろうどが訪れる。そういった他国の使者つかい饗応もてなしも彼
の役目で、そのために他国の者と接したことがないわ
けではない。他国から交易あきなりのために、山間の国に来る
者もある。
 だが、他国の者の平生くらしを見たことなどまったくなか
った。そう、旅の巫女だという水葉様はともかく、あ
の従婢まかたちらしい女は、間違いなく他国の者だ。
 他国の「平生」とはどういうものなのだろう。
 ひどく気に掛かって、胸が早鐘はやがねを打つ。
 何を纏い、何を食べて、どんないお住居すまいしている。
 どのような祭事まつりごとを行って、どのように政事まつりごとを定める。
 それは若者らしい関心ではあったが、幼い頃から御
宮に仕え、今は首長の傍らに側近の従者である主紗の
思考は急に萎んでいく。
 ……他国の者とこのような形で接すれば、この先の
こと、情勢なりゆきの次第を思えば、どう転ぶか分かったもの
ではないのだ。
 胸の高鳴る心地の良さには心残りがあったが、それ
は今「そうであってはならない」ことだった。
 己の性分は、冷静に事を見定めて役目を務めること
ではなかったか。それを思い起こして、主紗は戸惑っ
た。
 よくできた従者ずさだと言われているし、己もそのつも
りでいる。
 首長である明日香の傍らに離れず、忘れず、仕えて
きたのだから、その己に頼むところはある。
 少しばかり、ひとつ年下の首長である明日香の我侭
に応えすぎるから、甘い、行き過ぎてる、などと女官まかたち
らに言われてしまっているのも、知っている。
 それでも、日頃からそれなりに思慮を身に付けて役
目には冷静でいたつもりだったのだ。
 ……そうではなかったことに、主紗は気付いた。
 あまりに、幼い頃から傍らに在りすぎた。
 だから、他のこと、明日香の関わらないことを考え
ることがこれまでなかった。
 それは主紗にとっては新しい出来事で、新しい発見
だった。
 明日香から見た今と明日香から見た主紗が、それま
で、彼にとってのすべてだった。
 だから、主紗が己で見定めて、己だけの考えで、今、
感じているすべてのものごとに、戸惑いと高揚を得て
いる。
 いつかの、言葉を思い出した。
 それは、明日香の母、水姫の言葉。
 母のない主紗にとっても、水姫は母のような存在だ
った。
 ……風や水や火が、すべてを知っているわけではな
いの。彼らが見たことを私が感じ取って、思って、そ
うしてはじめて「知る」の。
 見て感じて、考えるのは、いつも私。それはとても、
難しいことなのだけど。
 何を「知る」か、それを見定めるには、己の内から
問いかけるしかない……。
 主紗は、少し悔いた。
 彼には、水姫様と約束していたことがある。
「風音姫」を護り助けるのだと。
 風音様は、明日香様となって、今首長として山間の
国に在る。
 その山間の国の霊力者みことして生きる己の主を、本当
の意味で助けてこられたかと。
 川に落ちた風音姫を助けて、蛇に驚く風音姫を護っ
た。だが、今の明日香様を護り助けることと、それは
違う。
 何も知らぬ、それに気付かぬままでいた己に、それ
ができていただろうか。
 そのことに思い至って、主紗はかつてなく落ち込ん
だ。
 落ち込んで、深く考え込むこともできなくなった彼
に、差し込む柔らかい光が再び眠気を誘った。
 落ち込んだ主紗に、眠気に逆らう理由も今はなく、
彼は意識を眠気に任せた。
						

 山間の国にも朝が来ていた。
 明日香は「風」の声で目を覚ました。
《明日香。ほら……》
《嘶きが。白夜の声が》
 優しい声は、明日香が昨夜頼んだことを忘れずに告
げた。白夜の声があった時には、いちばんに起こして
ほしいと。
 まだ現実うつつの朝と眠りの中に彷徨う頭で風の声を聞い
た明日香は、その言葉を飲みこめなかった。
 嘶きが。
 白夜の嘶きが。
 どこに……。
 遠いの……?
《ほら、聞こえるでしょう?》
 風の運んだ白夜の「声」は、確かに、明日香に届い
た。
「白夜!」
 飛び起きた明日香は、単衣ひとえのまま神殿かむどのを抜け出した。
 風の教えたその場所はそれほど遠くない、あの丘。
 白々と明らむ中を小走りに。女官に見つからないよ
うに。
 御宮の裏手の小門には、衛士がいる。明日香はそっ
と崩れて直しかけの垣を超えた。
 丘を目指して駆ける。朝の涼しさが、肌に触れる。
 風は嘘をつかない。
「白夜ぁっ」
 明日香は丘にたたずんだ愛馬にしがみついた。白夜
はいつものように馬首を明日香の頬に寄せてきた。
 いったいどこへ行っていたのか。たった一日でも、
懐かしく、その帰還が嬉しい。
「お帰り……。心配した」
 着けられたままの鞍に、明日香は身軽く乗った。
 白夜の体が、毛並み美しく梳かれて汚れた埃も落と
されていることに気付く。
 迷子になった先で世話されたか、それとも盗人が売
るために整えたか。でも、どちらにしても白夜がおと
なしく言うことを聞くとは思えないのだ。
 明日香は数日前の、己の側近もとこ従者ずさの言葉を思い出
した。
 ……明日香様まで汚れてしまいます。
 白夜の手入れに、水洗いをやめさせて、鞍も埃をは
らい落とすだけにとどめるように厩番に言いつけた。
 それを聞いて、主紗はふくれ面をしていたのだ。せ
っかく明日香様を乗せるのであれば、白夜とて美しく
ありたいでしょうに、と。
 どうせみそぎで水を使い、体も汚れを落とす。だからい
いのだ、と言ったのだが、主紗は不平をたてていた。
 白夜の白毛が、明日香様にかすんでしまいます、ど
うしても、というのであれば私が水を購いますから、
と……。
 昨日、主紗は珍しく早くに御宮を辞したのだと聞い
て、どうしたつもりかと思ったものだが、きっと気付
かれぬうちに、とでも考えたのだろうか。
 明日香はその光景を思い巡らせて笑ってしまった。
この白夜が、おとなしく主紗の言うことなど聞くはず
がないのだ。まさかそれで時がかかったのだろうか。
そして夜遅くなり、邸宅やしきに留め置いたのかもしれない。
 では、白夜はこの朝方に、逃げ出してきたのだろう
か。だとしたら、今頃主紗は大慌てで御宮みあらかに向かって
いるだろう。白夜は帰り道を覚えない馬ではない。
 その主紗をどうやってやりこめようか、と思いなが
ら明日香は手綱をとった。
 ……そのとき、「風」がざわめいた。
 枯れ始めた丘の草原をざわざわと吹き抜けて、そし
て木の葉も乱す。
 その様子に、小鳥や虫たちまで声をひそめた。
 山の端から日の光がのぞいたばかりの清々しさが、
風に撥ね退けられたように。
「……何? みんな、草も木も小鳥も。どうして?」
《違う声が、聞こえたから。私とは違う、声。明日香、
貴女にも感じられるはず》
「違う、声……?」
 白夜が少し怯えた表情をみせた。それに気付いて、
明日香は大丈夫、とたてがみをなでた。その時。
 これは……まさか。
「白夜、どこへ行っていたの、知りたい、教えて、白
夜っ」
 驚きと不安が、己の声に混じっているのが分かる。
 白夜は主紗と一緒にいたのだと思う。
 だけど、確かに、「違う声」が、気配があるのだ。
「ねぇ、白夜……」
 こんなに気持ちを通わせていても、やはり白夜は言
葉を知らない。気まずそうに美しい馬首を背けるだけ
なのだ。
 だから明日香は「風」に聞くよりないのだ。
「風よ、何かを知っているのなら、隠さずに。白夜は、
誰に会っていたの? この……雨の匂いは」
《明日香。貴女が及ばないところのことをつたえるの
はとても難しいこと……。それは、感じなくては。い
つも、言っているように》
 ああ、そうだ。
 風が伝えてくれることが分からないのは、風のせい
ではないのだ。
 風は見たものを運んでくれるけれど、運んでくれた
ことのうちで、何を見て感じるかは、明日香の霊力で
聞き分けなくては。
 風を聞き分けられないのは、己の乱れだ。
 注いだ霊力がいいかげんなせいなのだ。
 明日香は落ち着こうと、息を吐いた。霊力を使う者
として、いちばん大切なことだ。
 そして、白夜からおりて、舞った。白い単衣のまま。
 舞うことは、風を呼ぶことだ。
 自ら風を起こし、風に「入る」。
 ……体中で風を「知る」ために。
 風を使うことは、風とひとつになること。風を忘れ
ずに、残らずに、すべてに入る。
 ……風が、明日香におりてくる。優しく包まれたよ
うに感じて、そうして見えたのは、白夜と主紗。
 ここは、国の境。そこから先が、見えない。何かに、
拒まれたように。
 分かるのは……これは、潮の香り?
 明日香は舞い続けていた。
 予感がしていた。
 己は、このために霊力者みこであったのだ。
 そうだ、ずっと待っていた。
 この大切な「予感」は、必ず成る……。
 違う声。違う声が、拒んでいる。
 それは「水」だ。水が何かを護っていた。
 水が護るものは……「巫女」? その水に拒まれて、
主紗は戻れずにいるのだろうか。
 巫女が、白夜にささやいている。水は失うと大切に
なるのだ、と。
 明日香は、霊力が抜けていくのが分かった。舞うの
をやめて、倒れるように仰向けに転がった。
 息が乱れている。これ以上「風」を使うことはでき
ない。
 体の内に風をとどめる間は、風のすべてを止めてし
まうから、あまり長い間そうしていては、明日香の体
から出られない風が暴れてしまうのだ。
 明日香はそれでも、己の「予感」が成ったことを知
ったのだ。
 なのに、哀しみがこみ上げてきた。
 明日香は、拒まれてしまったのだ。
 風と水が拒みあって、ひとつになれない……。
 何故? 否、理由などない。風が明日香を護るよう
に、水には、水の護るものがあるだけのことだ。
 巫女の名を、明日香は知っている。
 水葉。明日香の、双子の姉。
 ……風が、やっと明日香から世界に戻った。そして
丘に吹き渡り、草を木々を揺らし始める。
 明日香が己の頬をなでる風が、いつもよりも哀しく
感じられるのは、彼女の頬を伝う滴のためなのだ。
						

 さて、笙木は今日も会合で困り果てていた。
 今、山間の国の郷士たちは「戦派」とその反対派で
ある「笙木派」に分かれている。
 戦派の者たちは筆頭いちの郷士である笙木が頷かなくば、
首長おびとの明日香を説得できないこと分かっていた。
 彼らは決して戦を好んでいるわけではない。国の大
事を憂いているのは、誰もが同じだった。
 会合の場には、探り合いと駆け引きと、危うい言動
が飛び交っていた。それでもなんとか、両者の歩み寄
りがなされようかというところまで詰められていたの
だが。
 笙木の思わぬ落ち度をつかれて、またも話し合いが
こじれてしまったのだ。
「……笙木どの。それではいかがなさる?」
「先刻も申したとおり。海辺の国に水のあたいを下げられ
ぬものか訊ね、話し合いの場を作る」
「応じられぬときには? かの隣国が、山間の勢力ちからを
削ぐこの機会を逃すと思えぬ」
「……明日香様も自らこのひでりのために、ご節制されて
おられるのだ。我らばかり、不平を言えまい」
「えぇい、そなたらは笙木どのの『話し合い』とやら
を当てにしすぎている。いくら笙木どのが海辺の郷士
らと旧知とはいえ、その結果が今のこの不利な『約定』
ではないか。海辺の国とて我らばかりに水を売るので
はあるまい。話し合いだけでことが収まるはずもない。
多少の脅しは要るものだ」
「うむ。笙木どのはあまりに易く言っておられるよう
だ。……ときに笙木どの、此度のことはどういうこと
か?」
 飛び交う言葉に少しばかり静観していた笙木だった
が、その戦派のひとりの言葉に、まずい、と思った。
 思ったが、そのことを言われては、笙木は何も言え
ない。何しろまったくわからないことばかりなのだ。
「なにやら嗣子たるは首長どのの従者の役目を忘れた
か、行方が知れぬとか。どういうつもりか知らぬが、
そのような者が首長どのを語るとは。まずは御身を節
制されよ」
 笙木とて、主紗の姿が何ゆえ見えぬかさっぱりわか
らないのだ。あの主紗が、明日香様を忘れて出歩くこ
とはまずない。明日香様が何かあれに命じたかとも思
ったが、それもわからない。
 内宮も神殿も、とかく人を拒む場所なのだ。霊力者みこ
たる首長の昼の御座ひのおましであるから、限られた者だけがそ
の参上を許される。
 その取次は主紗の役目だから、いくら笙木でも、主
紗がいなければ、明日香の御前に参るのが憚られるの
だ。
 女官の楓にそれとなく様子を訊ねてはみたが、さす
がに楓は口が堅い。
「……此度のことは言い逃れるつもりはない。己の不
届きであった。主紗かずさにも戻ったときにはよくよく言い
聞かせよう。だが、このことと、明日香様のお考えは
別のことだ。明日香様はすでに戦は見合わせると決め
ておられる。例年ならば、雨季も近い。それまでを、
凌ぐことのできる国のはずなのだ。ここは……しばし
様子をみてはくれまいか」
「それでは遅い。この様子では、雨季に本当に雨が来
るとは」
 その戦派の郷士は途中で言葉を止めた。
 この御館みたちは会合所と呼ばれる。その棟奥むなおくは御簾で区
切られて、五重のむしろが整えられている。
 その御簾の向こうに、気配が入ってくるのに気付い
いたのだ。
 長引く会合に座を崩していた郷士たちは座を正して
明日香に礼をとる。
「構わぬ。続けよ」
 日頃持ち慣れぬさしはで口元を覆いながら、命じた。
 山間の国では政事まつりごとは郷士のもので、いくら首長でも、
霊力者はその会合に直に口を挟むことはない。
 今、明日香がこの場に現れたことは、めったにない
ことである。
 笙木すら、明日香が現れたその意図を掴みかねた。
 続けよと命じられたところで、首長をなきものとし
て会合を進められるはずがない。
 場をまとめるのはやはり筆頭郷士の務めとなった。
「本日は何ゆえ。明日香様におかれては、このような
所へのご臨席はたびたびあることではございますまい」
「報告しらせばかりでは様子が分からぬ。近頃は特に。皆の
考えを直に聞くゆえ、楽に続けよ」
 その言葉に、戦派の者たちが次々と申し出た。
「この近隣の国々の中では、水の流れる川のあるのは
すでに海辺の国のみだとか。このままかの国が勢力ちからを
つけては、向こうから攻めて来るやも知れぬ」
「海辺の国はもともと、山間の地を狙っております。
備えは要るものかと。このままでは民を逃す余裕も
なく、兵糧かても確かな分を集められませぬ」
「雨を待つばかり、手をこまねいていては、この地を
我らに残した国祖おやに、なんと申し開けばよいのです」
 明日香はこの場に来るまで戦派がこれほど多いとは
感じていなかった。
 会合の様子は軽々しくたびたび風に聞いていいよう
なものではないから、大方は報告に来る役目の者から
聞くだけだった。
 今その役目を負っているのはもともとは笙木の家人けにん
だった者で、ここのところ、歯切れが悪いのだ。
「……笙木。いかがか。そなたの考えを聞く」
「は。海辺の国にはまだそのような余裕はありますま
いかと。かの国は、そも人の少ない。くにの広さに見合
っただけの民がいないのです。山の中腹なかばまで領を持つ
のは海に迫られて、安らぐ地がないだけのこと。この
山間の国の地を求めているわけではありませぬ。かの
国の動きに踊らされるよりも、今は山間の国領くにうちを保た
ねばなりませぬ」
「しかし笙木どの。国領は今、雨が降らねばどうしよ
うもないのだ」
 笙木が言い切らぬうちに戦派の郷士から声が飛んだ
のを、明日香が制した。
「続けよ、笙木」
「……わずかに残った井戸の争いを避けるように、見
張りを置かねばなりませぬ。ほかに、食糧かてを集めるよ
うに、進めております」
 笙木が出した策を聞いて、明日香はまだ少しだけ刻
が残されているものと捉えた。それはわずかばかりの
ことかも知れぬ。それでも、笙木は戦を避けるために
次々と手を打っていくだろう。
 だから、明日香は息を吸った。
 己がこの場に現れた、その理由わけのために。
 たったひとつ、言葉を紡ぐだけですべてが動き出し
ていくだろう。
 大切な「予感」は成る。
 だから、そのために成さねば成らぬことを、果たす
のだ。
 ざわめきが収まるのを待って、明日香は告げた。
「……皆よ。おそらく『水』は近づいている。今しば
らく、堪えよ。民にもよくしてほしい」 
 山間の国の霊力者たる首長の、その言葉に、会合の
場は再びざわめいたのだ。
「雨が近づいているのですか!」
「いったいいつ頃に?」
 慣れぬ翳を持つ手で、明日香は手を打ち鳴らした。
それを合図に場は静まる。
 御簾ごしとは言っても、その内からは様子が見える
ものだ。皆が己の言葉を待っているのを見て取って、
明日香は顔を上げて翳を置いた。
 明日香は『雨』、とは言わなかった。それは正しく
ない。
 偽りではない。
 隣国には、水葉がいるのだ。間違いなく、己の片割
れとなった双子の姉が。
 白夜に触れて、風を使って、そして分かったのだ。
 ……白夜は、雨に打たれた。水葉の操る雨に。
「姉と一つになりなさい」
 母の言葉。それは、どちらかが、その片割れを失う
ということだ。
 だが、もし水葉が使う霊力が「水」ならば、霊力を
合わせて雨を広く降らせるはずだ。
 水葉が水を使い雨として、己が風を使い降らせる。
 雨雲を呼んで、広く広く、この近隣に降らせること
ができたなら。
 何も壊さずに、すべてがうまくいく。
 戦で、笙木のように大切な人を失うこともない。
 そうだ、笙木を助けるいちばんの方法が、水が近く
に来ていると皆に伝えることなのだ。
 ……明日香はそんなことを考えながらも、本当は己
が怯えていることに気付いていた。
 水葉は、近づいているのに、この国に戻らない。
 戻らぬ理由。戻れぬ理由。……これほど近くにいる
というのに。
 その「理由わけ」を与えたのは、この山間の国。
 そして、明日香自身だ。
 水葉はどのように受け止めているだろう。
 憎しみか悲しみか。それとも?
 ほかの何が、明日香の「風」を拒んだのだろう?
 水葉が、この山間の国をどのように見ているのか、
明日香にはわからなかった。
 姉を追いやることでしか救えなかった。その己が、
首長として在るこの国を。
 戦になれば、何も分かり合えないまま取り返せぬ
哀しみが残るだろう。明日香はそのことに怯えてい
るのだ。……それだけは、できない。
 偽りではなくても、嘘になるかも知れない言葉だ
った。それでも、笙木が戦派を抑える拠り所にはな
るだろう。
「今一度言う。戦はならぬ。ほかに何かあるか」
 笙木が進み出て申し出た。この場で聞き、ほかの
郷士に聞かせるのが、いちばんいいことだと筆頭の
郷士は判じたのだ。
「主紗のことは、いかほどに」
 明日香は己が揺れたのが分かった。それでもそれ
を抑え付けて、平生と同じに努めた。
「……何か変わりあるか? 主紗には日頃からたま
にはゆるりと体を休めるように言い渡してあった。
ようよう休む気持ちになったようだな、違うか、笙
木?」
「……は。そのようで」
「後の報告しらせは笙木に、申し付ける」
 明日香は己の決意を果たしきった。
 衣擦れの音も微かに、退出する。
 再びみたび、会合の御館はざわめき出した。
 						

 神殿かむどのへの戻るための内門うちつもんに向かいながら、朝方か
ら考え続けていることを、また囚われるように思い
返していた。
 主紗は……「水」に拒まれたから、戻れずにいる。
 明日香に分かるのは、やっとそれだけ。
 水葉の霊力ちからは、風を拒むことができるほどの「想
い」があるから。だから、これほどまでに、何も分
からないのだ。
 拒んでいるのは、生まれたこの山間の国だけでは
ない。だとしたら、憎まれているのは、明日香自身
だけではない。
 そう考えることは、明日香を少しだけ安心させた。
 己のこの国を憎まれていると考えるよりも、己だ
けが憎まれているわけではないのかもしれないと考
える、そのことが首長おびととして申し分けなくて、だけ
どそう思わなくてはつら過ぎて。
 だから明日香は主紗を咎める気にはなれない。
 本当はすべてが「建前」なのかもしれなかった。
 戦派を抑えるためといのも、主紗のことも、国も
民も。
 みんなすべて忘れてしまえば。
 水葉に、会いに行ける。
 霊力など、失ってしまえば……。
 だけど、すべてを忘れて、失ってしまったなら、
この生はどこへ行くのだろう? 己のための生など
持たない明日香の生は。
 幼い頃、手に乗せた土砂が指からすり抜けて風に
舞い落ちるのを見て、「風音かざね」は風に聞いた。
 どうして持っていってしまうの、と。
 まだ霊力をうまくつかうことができずにいた頃、
風音という名のあった頃。
 風がいつも傍にいてくれるとは限らなかったから、 
何度も同じことを繰り返し聞いたのだ。
《あなたのものではないからですよ》
 風は、たまに気が向いたように。気まぐれのよう
に。
 そうやって「風音」に教えた。
 すべては、すべてのものだから、と。
 ……握った土砂が指からするすると零れ落ちるよ
うに。
 いくら霊力などあっても、先のことなど掴めはし
ない。


 何も失わずにすむように。
 定まった命運は、掴めない土砂と同じだから。
 すべてが零れ落ちるのは、まだ先のこと。
 手に入らないものなど、要らないのだ。
 せめて、両手に包むことのできるだけでいい。

 すべてを狂わせてしまったのだとしても。
 己の及ぶところのことならば。

 何も、失いたくはない……。


『姉と、一つになりなさい』



 どちらの運命も、……それは、二人が出会った時。








                  【 続 】