金色の輝きと空 其の六
TOP金色の輝きと空


 主紗かずさは足を止めた。そして見上げる。道が途切れて
いたから。
 正しくは途切れているのではなく、彼の身の丈ほど
に巌が重なり、小川は小ぶりの滝となって流れ落ちて
いる。その巌にはどこからか蔦綯った一縄が垂れて、
道は上方で続いているようだった。
 巌は苔なして滑りそうだし、足場も滝の雫に濡れて
良くない。何よりも、このいつからあるか知れぬ蔦縄
をどれほどあてにして身の目方をかけてもよいものか。
 平生、左足の痛むことのなければ、試してみるだろ
うが、今のこの身ではそれは適わない。回り道をする
のも良い策とは思えなかった。ここは慣れぬ隣国の林、
道を失って戻れなくなるかも知れぬ。
 考えを巡らせるために、彼は海辺の集落むらを出てから
初めて足を止めた。
 ちょうどこの林に入ってから初めて木々が途切れて、
空を見ることができた。日の傾きを見て、ひるをかなり
過ぎていることを知る。
 そしてやっと己の左足が熱を持って痛いのだと、思
い至った。痛みを感じてはいたが、一度考えの中にそ
のことを入れてしまうと、思いのほか無理をしたよう
だ。治りかけてて引いたはずの腫れがまた、ふくらん
でいる。
 そういえば腹も空いている。朝餉の前に水汲みを手
伝い、その途中で桶まで放り出してこの道に入ったの
だった。
 仕方なく主紗は滝成す巌を背にもたれて座った。そ
っと息を吐く。染み入るように滝の水落ちる音が耳に
響いた。その音が彼に冷静さを戻した。目に見えぬ焦
りを感じて、ひた進んできたのだ。一息つくのには、
いい頃合いだったかもしれない。
 腫れた己の左足を見て、ともかく冷やそうと思う。
腰下げた蓋付の籠に、手巾たなぐいを入れていたはずだと、数
日前に盛りに分け入ったときのことを思い巡らせた。
 小さな籠をのぞきこんだら、湿布はりくすりが入っていた。そ
して小さな丸い朱色の固まり。己が入れた覚えはない
から、……あの海辺の集落の誰かが、おそらく笠耶かさやが、
入れたのだろう。
 つまみあげて、それが浜梨はまなしの実だと分かった。早生はやなり
の実なのだろう。いや、それとも「季節の巡り」が狂
っているためなのかも知れないが、主紗にはどちらな
のか判じることはできなかった。山間の国には、この
浜梨の木はあまりないのだ。
 もう十年も前のこと、海辺の国から珍しい御調みつぎがあ
った。山間にはめったにない苗木で、美しい花が咲き、
実もなるのだと教えられた。
 使者つかい随従つかいひとが、内宮の垣内に整えられた内庭の御苑みその
に植えてくださったという。
 土壌つちが合わなかったのか、そのうちいくつかは枯れ
てしまったのだが、残った二本が根付いて、それを元
に増やしてきた。それでも珍物うづものの木には違いなく、成
った実はまず女首長のもの、客人のために宴の御膳御合あわせにするにも許しが要る。
 だが主紗は幾度か口にしたことがあった。彼の主、
女首長である明日香は、一国の首長だというのにその
あたりはくだけている。彼を連れて御苑をそぞろ歩い
たときなどに熟れた実を見つけると、手ずから摘んで
彼の口の中に放りいれたりするのだ。
 甘酸っぱい風味は他に例えようもない。だが主紗に
とっては、棘のある枝を気にせずに腕伸ばして摘んで
くださった主の気持ちの方が嬉しく、だからそれをた
しなめたことはない。
 生国を出てきたときに見た浜梨はまだ花を咲かせて
いた。赤く美しい花だ。これから夏の盛りに、実が太
っていくのだ。
 早生はやなりの実は格別に酸っぱかった。だが、疲れた身に
はそれが心地よく感じられた。少しだが力がわいてき
たように思う。量としては物足りないのかもしれない
が、それ以上に気力が出た。
 左の足首に、水の浸した手巾をのせて冷やす。つい
でに、皮革沓くつに入った砂を落とす。籠に入っていた湿
布を貼りかえて、その上から布を巻きなおした。沓紐
を括った。
 主紗は顔を上げた。
 今まで歩いてきた道だ。己が来た道。作った道でも
ある。
 立ち上がって伸びをする。気が楽になった。……ま
だ、歩いて行ける。
 滝の水で顔を洗って、喉を潤す。
 そうして、蔦縄に手を掛けて引いた時、「声」が頭
に響いた。
 聞いたことのない声。だが、どこかで似たような響
きを聞いたことが合ったような。
『およしなさい。足に悪い』
 辺りを見回しても、何者の姿もない。
『水葉に頼まれたのです。貴方は必ずここで立ち止ま
るからと』
「水葉様が? では、あなたは水か」
『主紗。貴方は水葉の「名」を知る者。だから私の声
が分かる』
 意思は名に由来する。名を知らぬ者に、霊力を持っ
て意思を伝えることができないことを、彼は己の主か
ら聞いて知っていた。
 思い起こせば、海辺の国で水の霊力者に会ったとき
には、名を名乗る霊力者に狼狽した。名を軽々しく呼
ぶことはできない。許しなくば、その名を口に出すこ
とさえも憚られる。
 だが、……水の霊力者が、自らの名を明かしたのは、
今ここに繋がっているのではないだろうか。こうして、
ここで立ち止まることを、あのときにすでに、予見し
ていた。
 今更ながら、主紗は己の浅はかさに、嗤いが漏れる。
あぁ、水葉様はなんと先を見越しておられたことか。
「では水よ、水葉様はなんと?」
『このまま道を行けば、海辺の関塞せきに出るのです。貴
方は旅旌たびふだがないのでしょうから、越えられまい、と』
 この道は国々を繋ぐ公路みちと関塞で交わっているとい
う。不正に国境くにさかいを超えた主紗は、旅旌を持って
いない。いや、そもそもが国外そとに出る職分ではないた
めに、ないのだ。
 旅旌がなければ関塞を越えられないし、調べられて
窺見うかみだとみなされる。騒ぎを起こしたくはない。
『私を、辿りなさい。森に入って、山間の関塞を目指
すのです』
「あなたを、辿る? どのように?」
『私は、どこにでもあるのです。本来ならば』
 足元を見ると、草の根の隙間からじわじわと水が湧
き出て、水たまりのようになった。
 その水は巌を避けるように、斜面を遡って移ってい
く。
 この「流れ」をしるべにせよ、ということかと得心のい
った主紗は、水を辿る前に、己の来た道を見やる。
 すでに海は見えず、ゆるやかに小川が曲線を作って
いた。
						

 ここは郷士さま方の林だから、集落むらの者は立ち入ら
ない。林を手入れする邑人むらひと奴人おやつこがたまに枝打ちする
くらいなものだ。
 笠耶は目に付いた幹にもたれて腰掛けていた。どの
くらい時が経ったのか、木洩れる日の光は眩しさを失
って薄く淡く地面に注ぐ。日の入りはさほど遠くない
ように思われた。
 この林は、集落近い林や巫女様の仮住まいなさる渡
殿の御館がある林とは違っていた。建材のためにたび
たび枝打ちするせいで止まり木に困るのか、小鳥のさ
えずりが少ない。蝉の声もまばらだった。小川も遠く、
水のささやきもない。静かなところだと思った。
 膝を抱えた彼女の耳に、地を踏みしめる音がある。
 声など掛けられまいと、身を固くして、行き過ぎる
のを待った。誰にも見つかりたくないのだ。
 だが足音は乱れず少しずつ近寄り、立ち尽くした。
動かぬ笠耶に根負けして、その名を呼ぶ。
「……笠耶。日の暮れぬ前に、夕餉を整えねばならぬ
のではないかな」
 その声は咎めるものではなかった。彼女がここにあ
るを知っていたようでもある。
 巫女様の身の回りのことは笠耶が引き受けていたか
ら、お困りかも知れない。だが、あの巫女様ならば、
無理にそれを求めないし、集落の皆もそうだろう。
 それは笠耶がもともと他国者よそものだからではない。笠耶
だからだ。
 この国に流れ着いてから彼女は集落内むらうちに住まうこと
はなく、渡殿の御館の側に苫宅いおをむすんで住処すみかとして
きた。
 彼女に声を掛けた男は、その隣に腰を下ろした。
「ここは……この国はお辛いか、姫」
 姫、と呼ばれた女は顔伏せたまま首を振った。
「揮尚きしょうのことか。……あれは父親似だな」
 風のように通り過ぎた客人まろうどに、笠耶はそんな名をつ
けた。この国では隣国の名を、今は気軽に呼べないの
だという口実により。
 彼女は男に声を掛けられてから初めて口を開いた。
笑いが込み上げてきたから男に同じ気持ちを味わって
もらいたくなったのだ。
「あれでも母親似のつもりだそうだ。本当に間の抜け
ている」
 ……そんなところまで、似ている。
 顔上げてそこにいるのは浦飾うらしきだ。浦飾は郷士の一人
で、ここは郷の林だから、ここにいてもおかしくはな
いのかもしれないが。
 随従つかいひとが笠耶がこの林に入ったのを見たのだと浦飾は
言った。なのにすぐに来ることなく、夕暮れ近くなる
まで待ったことには触れなかった。もちろん、笠耶に
とってはそのほうがよかった。
「忘れられぬか、姫?」
 頷いた。だが、すぐに首を振る。
「あたしは笠耶。そして、あなたは郷士。……そうし
てここで生きてきた」
 海辺の民は受け入れ見送る。この国に在る者は皆、
海辺の民だ。笠耶もそんな風に生きてきた。それは代
えられぬ事実まことだ。忘れた過去むかしもどこかにあっただろう
が、そんなことはこの国の誰にでもあって、それごと
海が皆を抱えてくれる。
 ……それでも、笠耶には、忘れ得ぬことがある。
 忘れぬということだけで、まだそれは彼女にとって
の過去むかしではないのだ。今も身の内に抱えて生きている。
 現実うつつ白昼夢ひるゆめの狭間を、生きている。
 夢を見た、と笠耶は呟いた。それが夢か現実か、判
じ得ぬのだと。浦飾は知っている。だがそれに答える
ことはない。そういう事柄ではないのだ。
「過去むかし現実いまに成すよしなど……誰も知らぬだろうな」
 それとも、と浦飾は聞いた。貴女は白昼夢ひるゆめの中に住
まうのか。
 女は眼をつむる。夢の景色を思い描こうとするが、
それは適わぬことだ。夢か現実うつつか判らぬうちは。すで
に彼女は醒めてしまっているから。
 浦飾は立ち上がった。これでも郷士だから、幾つも
役目を抱えている。首のあたりで玉の擦れる音がした。
紅の管玉くだたま瑠璃るりを幾つも重ねたものを二重の環にした
それは、形からして新しいものではない。銀糸いとだけは
取り替えているものの、いつも彼の首にあるため、曇
ってしまっていた。
 郷氏ならばそれなりのものを手に入れることができ
るし、それなりのものをしてしかるべきだが、浦飾は
気にする様子もなくいつも同じものをしている。
「……萱草色そのいろほうには合わないよ、それ」
 そうか、と浦飾は林を抜けていった。彼にとっては
慣れたところであるらしく、方角むきを気にすることはな
く。
 一人残された笠耶は勘ぐる。
 萱草わすれぐさの色。甘子こうじよりも梔子くちなしよりも明るい色味をした
その花は、物思いを忘れさせるという。
 笠耶に忘れろというつもりか、それとも彼自身が忘
れたいのか。そのためにわざわざ選って着たのか。
 浦飾の後ろ姿、その一纏めに布かぶせた後ろ髪が、
すっかり見えなくなってから笠耶は立ち上がった。
 日の入りの前、もうすぐ空が赤く染まる。
						

 使い込んだ櫨弓ゆみを肩掛けた男がある。若い。靫負て
はいるが、その腰にある佩物はきものは不相応に短い。太刀は
彼の華奢な体に重いが、それでも兵士ならば身に具す
はずのもの。だが短剣かたなの他に刀剣の類はない。彼は己
の弓射るその実力ちからに自信があった。その矢継ぎ早に射
る己の技を越えて目前に迫られるようなことを考えて
いない。
 弓というものは射ることよりも射られぬことのほう
が数段大切なのだと、彼は師である伯父君おじぎみに教わった。
そのようなことがあったとき、組討ちのため徒手むての技
も磨いた。徒手では太刀は邪魔になるばかり、最期
に己の首を掻き切る短剣かたなさえあればそれでいい。
 山間と海辺を繋ぐみち、山間の関塞せきには大きな栃木とちが
ある。いつからあるのか、その史書しょもつを紐解いても判ら
ず、古老も語り部も憶えのない。だがその古来ふるきの大木
は、旅人に山間の国の始まりとはたてを告げてきた。
 男はその大栃とちに真向かうように槻木つきにもたれていた。
 なでつけるように後ろに垂れさせて括った総髪。わ
ずかな隙も見逃さぬような切れ長の瞳は、今は閉じら
れている。見れば眉根が寄って眉間にしわがある。
 彼は決して陽気とは言えない性質ではあったが、悩
みを抱え込む人物でもなかった。皆怪訝には思うもの
の声を掛けることはない。ただ一人を除いては。
 見楢みははそである。彼を己の弟分と見定めていて、なにか
と世話を焼きたがる。他の者から見るとそれだけのこ
とだが、それなりに理由はあるのかも知れぬ。それで
も見楢自身にとってもその理由は身に差し迫った事態こと
ではなかったから、声を掛けた理由としては弟分の様
子が常ならぬを感じたためだ。
「采斗さいと。喜ぶといい。夕餉はお前の気に入りの、生姜はじかみ
の汁粥だというぞ」
 見楢は他には大豆と野蒜のびるあつもの索餅さくべい、枇杷に茱萸ぐみも
あった、と付け加えた。ここ数日はいお楚割すわやりに干瓜や
ら豆乳だいずせんやら、乾飯かれいいが少し、といった御膳おもの御合あわせが続い
ていたから、干物のない飯食めしだと知れて、皆浮かれて
いるのだ。
 采斗と呼ばれた男は瞳を開いて、ゆるりと見楢を目
だけで見やる。他愛のない話題のために話掛けたよう
な表情が相手にないのを見て取って、それからもたれ
た背を起こした。
 もちろん彼の好物が生姜の汁粥だというのは本当だ
し、だからといってその鉱物に国を揺るがす謀略はかりごとが隠
れているなどとは思っていない。かすかたゆたう匂い
に、塩やひしおの加減を好みに合うように仕上げてくれる
よう願うばかりである。
「……うまく言えんが、少しばかり気になることがあ
る」
 話し掛けた応えではないことを承知の見楢である。
先を促すように頷いた。
「長雨もないのに、蝉が鳴き出した。枇杷も茱萸も少
しばかり早い。雨がないのに果実みのりが早いというのはお
かしい」 
 そもそも井戸が枯れぬのに、大川が枯れているのが
おかしな話なのだ。
「女首長殿は、何故、さきの御方のようになさらぬ?」
 前の御方、とは女首長あすかの母のことである。亡くなっ
て六年ほどが経つ。今尚慕われる、水を名受けし風と
火をも使った稀代の霊力者。
「主紗のやつは、かたわらに在りながら、何をしている」
 なるほど側近もとこ従者ずさが、何の進言もしていないので
はないかと訝しんでいるということか。黙したまま聞
いていた見楢は、采斗の眉根が寄っていた因を見出し、
口を開いた。
「お前の郷の総領このかみひめ様にも、同じことを言うといい。
もっとも、女従者めのずさ殿はそれどころではなかろうがな」
 なんのことだ、と聞き返した采斗に、見楢は意外な
表情をして見せた。報せを受けていないのか、遠隣国とおきとなり客人まろうどが御越しだというのに。
 采斗は那智が王使つかいとして入国しているのを、ここで
知った。
 奥津の国の路はこの関塞を通らない。関塞に詰める
兵士たちは、国の最前ではあるが、御宮や領内くにうちのこと
がつぶさには伝わらないものなのだ。
 御宮の公の報告しらせが届くものの、それは必ずしも彼等
にとって必要な、知りたいと願うものとは言い難い。
また、正式な手続きを経て届く報告には時がかかる。
 関塞の兵士の多くは、郷士やその伴人たちだ。彼等
の求める報せは己の郷おのがさとの様子であり、動きだ。政事まつりごと局面かどで、郷はどのように動いているか、そして己はど
のように動くべきか。
 ために絶えず郷とやり取りがあり、己の郷の邑人や
邸宅やしき奴人おやつこらを関塞内に端下者はしたものとして抱えて、雑用の
合間に報せを運ばせるのだ。
 だから、采斗はまず己の奴人や伴人が報せを運んで
いないことに腹を立てた。だが表情には出さない。
 そのような大事を見楢に教えられたことを詰るので
は、己の至らなさを露わにするだけのことだ。己が郷
の様子をもう少し気に掛けていたなら、皆もそのよう
にこまめに郷の報せを持ってきていただろう。
 那智の出自は「形式上かたちのうえ」では采斗の郷である。その
郷の総領媛たる楓は、采斗とは従姉弟いとこという血縁つながりがあ
る。那智の帰国は郷国も同じ、楓の忙しさも分かる。
だが、今のこの情勢なりゆきで、関塞にある己への報せがない
のは解せない。
 采斗の郷の総領このかみ稲佐いなさ、今は「戦派」の真先に立つ、
楓の父だ。那智の姫君の御越しも稲佐の駆け引きなの
か、それとも。
 戦を厭う女首長殿の策略はかりごとか。
 考えを巡らせ、黙り込んだ采斗に、見楢はこっそり
と笑んだ。少なくとも、彼の意図したとおりに、采斗
の「気がかり」は当初とは別のものとなった。
「どうにもならぬことを考えるよりはいいだろう、こ
れからもっと、面倒なことになる」
 己の頭の中でつぶやいたはずが、声に漏れていたら
しい。采斗が絡んできた。
「面倒事だと? なんだそれは。……戦でも起きると、
いうのか」
「お前がそう思うなら、そうかも知れないがな。だが
戦よりも面倒なことはいくらでもあるぞ」
 見楢は考え過ぎて、生姜の汁粥を食い逃すな、大栃
から落ちる因になっては困る、と言い置いて背を向け
た。采斗は今夜は不寝番ねずのみはりだ。見楢は大栃の枝に敷いた
狙撃台たかやぐらから采斗が落ちては、賭けに負けてしまうのだ。
 残された采斗はまた眉根にしわを寄せた。
 夕餉の匂い。鳶の高鳴き。蝉の夕鳴き。
 己の奴人を呼ぼうかとも思ったが、やめた。五感は
思考を和らげる。
 交代で夕餉を取るため不寝番ねずのみはりの采斗は後の組である。
それまでにすべき彼の役目がいくつかある。
 関塞の四脚門よつあしのもんを閉めて篝火かがりの仕度をさせる。これは
民から選んだ衛士たちだけに任せてはならぬ決まりだ。
 じきに山端やまのはに入り日がかかる。
						

 梟が低く闇に溶ける声を上げている。木々の枝葉の
隙間から木漏れる月影は下弦の月。それはこれから少
しずつやせ細る付で、月の出が居座って待つような宵
になるために居待いまちの月と呼ばれるのだ。その光が降り
注ぎ、足元にはわずかばかりの影を作っているからに
は、月は昇りきってしまい、宵も更けているのに違い
なかった。
 主紗は森を歩き続けていた。足元には緩やかな斜面、
それを這い上る水が「流れている」。
 水の霊力者たる水葉の意思か水の意思か、主紗には
わからない。本来なら下方へ流れるはずの水は、彼の
道行みちゆきしるべとなって、斜面を登っているのだ。
 森の中の道なき木々の根元を、じわじわと這うよう
に水たまりが作られていく。振り返ってもその水の流
れは、彼が歩いた後ろから、幾層にも重なって積もっ
た枯葉の中へと染み込んでいくために、主紗には、己
がどのように歩いてきたのかさえも捉えられずにいた。
 この水の標を失うことは闇に取り残されることだ。
それは森に迷うことに繋がる。ここはどこだ。足元の
標のみが頼りである。わずかな月影を照り返す流れを、
そろそろと追いかけるばかりである。
 ときに水の標が流れることを止めてしまうことがあ
る。元は水葉の霊力が及ばぬところか、とも思ったが、
しばらく経つとまた流れ始める。幾度か繰り返される
うちに、己が休めるようにしてくれているのだと気付
いた。
 だから、あれから一度も水は話し掛けてくるような
ことがなとも、主紗は一人で歩いているとは思わなか
った。この水の標を辿って進むことは、水葉の意思に
適うことなのだと感じられた。
 暗闇を一人、手探りでさ迷い歩くような、心細さは
なかった。己がここに在ることを知る、誰かが在る。
それが彼には心強く感じられるのだ。
 きっとまだ、己にできることがあるのだと、信じら
れるほどに。
 いずれ水が流れなくなり、水が雨を降らす意思を持
たぬとしても。季節の巡りが狂い、大地が生きようと
せぬとしても。
 月影は少しずつ闇夜を渡っていく。日の沈んでから
どれほど歩いただろう。すでに頃合いは夜半のはず。
 水が、ある地点で、「立ち止まった」。
 そして柔らかい声で主紗に言う。
『私はこの先には行きません』
 その意図を掴みかねて、聞き返した。だが水は行か
ぬと繰り返した。唐突に、森の中で標を失い、何故、
とも問えぬ。
 だが。
 その瞬きの時、闇が一筋の何かに裂かれた。
 頬を掠めて、背後の……おそらくは木に当たり、音
立てる。
 水が枯葉に染み入るように、消えた。
						

 月見上げていた采斗が、眼下の者に声をかけた。
 何か異変はないかと訊ねられて、やぐらの楯に肘掛けた
同輩の兵士たちは皆、首を振った。彼等にとってはい
つもと変わらぬ不寝番ねずのみはり、もちろん、采斗にとっても同
じことである。
 不寝番は四、五日に一度ほど、関塞にある三月ほど
の間に二十日は割り当てられる。采斗にとっては今宵
は二日続けてのこと、さらに不本意ながら五日間続け
ることになっていた。
 采斗が「いつもと異なっている」ことを感じたのは、
彼が寝不足であるとか夢を見ていたとか腹を空かせて
いるというような理由はまったくなかった。
 ただそのように感じただけで、言うなれば「勘」で
ある。
 気持ちのざわつくものを感じて、月を見上げた。宵
も過ぎて夜半になりかけた頃合いに、山端から飛び出
すように昇った明るい影は、下弦の居待月である。
 関塞内に焚いた篝火かがりが、鉄籠まがねのかごの中でぱこんと軽く弾
けた。ゆらゆらとたゆたう火群ほむらが、怪しげに皆の足元
に影を揺らしている。
 大栃の狙台そだいでいつものように腰掛けていた采斗だが、
引き上げてあった縄梯はしごに手を掛けた。それは常ならぬ
こと、この狙台に上がって、彼は夜が明けるまで降り
たことがない。
 それを見て取った一人が、どうした、と聞いたが、
采斗自身にもそれを説明ことわけできるほど、何かを感じてい
たわけではない。それで、小用だと答えた。相手はそ
の言葉通りに捉えて、だからそれ以上の追及はない。
 だが采斗は用を足すはずの小館たちいおとは逆に向かい、
林に分け入った。月影と、土地勘を頼りに、その奥の
森へ。そのように行く先を決めたのにも理由はなかっ
た。だが、縄梯を下りた時にはもう心に向かう先があ
ったように思う。吸い込まれるようにその森に惹かれ
たのだ。
 の入ったゆぎを負い直す。彼のそれには五十もの箭
が上差してある。柳葉やないばやじりは彼が好んで使うもの、皆
の選ぶ槙葉まきのはよりも細いが、それでも三十もの鉄鏃やじりは重
い。並の兵士ならば二十、それも青銅あおかねのものを使うだ
ろう。狩猟かりならば七、八がせいぜいだ。
 櫨弓はじゆみを肩掛けて、腰には短剣かたな、もちろんのこと皮甲よろい
を身に付けて、脛当すねあてに、手甲こう。
 森のどこかで窺見うかみと相対したとしても、徒手や短剣
で応じ得るように、常に鍛練している。先に見つけた
なら仕掛けられるよりも先に箭をつがえて射放つ自信
もある。その自信を持つだけの体力ちから技巧わざもある。
 だが否応なしに高鳴る鼓動が彼の緊張を高めていく。
何故、己はこんなにも張り詰めている。今宵も、いつもと
変わらぬ夜半。月影は生きるすべてに同じく降り注ぎ、
そして生気を昂ぶらせるだろう。だが平生にあるなら
ば、張り詰めて過ごすことは却って己を損なうものだ。
……その恐ろしさを知っているはずの己が、何故これ
ほどまでに、何を恐れている。
 森には夜に動き出す生き物がある。猪、貂、狸、狐。
梟の声が低く耳を打つ。
 采斗は特にあてもなく、いつ落ちたとも知れぬ枯葉
の重なった土を踏みしめていく。関塞のある路からは
外れたこのあたりには、いくつか栗木があるのを憶え
ていた。
 気配はできるだけ殺している。それは張り詰めてい
る己のため。だが早鐘を打つこの胸音ばかりは隠せぬ
ように感じられた。せめて足音ばかりは立てるまい。
 月影に、木々ではない、何かを見た。
 よく鍛練された彼の身体からだは、いつものように動いた。そ
れは確めずともよく、また意識もしない動き。それま
で星の数ほど繰り返した動作を音もなく流れるように。
 箭を二本抜き一つを弓つがえて矯め一つは副矢そわつや、放
つ。呆れるほどに、例の如く。
 狙いは逸れぬ。采斗が狙って射ったがために。
						

 それが、何者かによって射られた箭であることに気
付くのに数瞬を要した。
 小気味よい音が背後の木から響いて空気を震わせて
から、少しずつ静まっていく。突き刺さった箭の揺れ
が収まってきたのだろう。
 右の頬が熱い。箭が掠めたことを理解した。その一
瞬に顔を動かせば、死に至っただろうことを悟る。
 そのために、痺れたように動けない。熟練てだれの者が脅
しのためにそのように射ったのか、未熟いたらぬ者が身の最中さなか
を狙って外したのかがわからない。
 頬から何かが伝っていく。血が滲み出たのだろう。
 主紗は辺りの気配を感じようとした。箭の刺さった
栗木を後ろにして背面せなかをつけた。こうすれば少なくと
も横合いか正面てまえからの襲撃しかない。
 周囲に目を配りながら、射られた箭を確める。箭は、
的箭まとやでも狩箭かりやでもない。戦に使う征箭そや正規まともな兵士の
用いるものだ。矢羽は本白もとしろで、ものはよいのが月明か
りで分かった。それは流れの猟人さつおが誤って射たのでは
ないということを示していた。
 ここはどこだ。まだ、海辺の国を出ていないのか。
ならば、事態ことは深刻、海辺の兵士に射られたならば、
数日前のようにはいかない。海辺の関塞に送られて身
元を問い質されるだろう。
 張り詰めたものが闇を支配し、梟だけが声を上げて
いる。
 どれだけの時が経ったのか、ほんの瞬きほどの間の
ことであったかも知れぬ。月が夜空を渡るのがわかる
ほどの間のことであったかも知れぬ。
 枯葉をわずかに踏みしめる音がした。それはわざと
立てたもの。その方向むきに気を逸らせて動けば、背を射
られるだろう。だから、主紗はますます身を堅くする。
 やがて箭を己の最中さなかに矯めつがえたまま現れた兵士
がある。木々の隙間から木漏れる月影に浮かぶその表
情は強張っていた。だがそれは紛れもなく、見知った
もの。
「……采斗!」
 主紗は彼の名を呼んだ。そしてここはすでに山間の
国で、関塞の周りだと気付いた。数少ない己の友は、
一月ほど前から関塞に赴いたままなのだから。
 だが、友はそれに応えず、箭をつがえたまま声を上
げた。
「何者だ」
 主紗は采斗の性質を思い出す。仮にも幼い頃からの
友に向かってその言葉を吐くとは。声音が震えている
のは、……怒りが滲んでいるためだろう。
 山間の国ではここ数日、己が国を空けていることを
どのように扱っていたのだろう。ただ漠然と己の帰る
場所で、己の在るべき居場所に、海辺の国を出て歩み
を進めてきた、ただそれだけのことだと捉えるには、
己の浅見にすぎよう。
 筆頭郷士いちのごうしたる己の父は、どのように処分しただろう。
郷氏は戦派が形成されて、二分している。戦派が父を
責めるには充分な出来事だ。女首長の側近もとこ従者ずさが役
目を放り出して、行方を報せぬまま数日国を空けてい
るのだ。
 そして采斗の父が戦派の一人だ。
 采斗自身は政事まつりごとと己の役目を混同するような性格で
はない。この情勢なりゆきの中で御宮に詰めることもできず、
国のはたてを衛る関塞へと下ったというのに、その関塞を
騒がせたのが御宮で女首長を助けているはずの友だ、
というのなら、それは怒りに震えもするだろう。
 それに得心はいくものの、主紗には言い訳もできな
い。
 采斗低く、抑えた声で告げた。
「俺の友は、この大事の最中に御宮を抜け出して関塞
を悩ますような間抜けではない。何者だ」
 ……近頃はすっかり間抜け扱いされることに抗いを
感じぬようになってしまっていたから、この旧来の友
の言いように、ほろりとくる主紗である。
 誰かが、間抜けだと思うならば、確かに己はそうな
のだろう。迂闊に過ぎる。
 だが、国を、己の主を裏切ることだけはない。誓っ
て言える。
 采斗の征箭そやは未だ主紗を捉えたままである。
「残念だが、お前の友だ。私は真を見極めずに箭を放
つ友を持った憶えはないな」
「真は俺がこの目で見極める。お前が関塞にある由に
は必ずどこかに偽りがある。それを否定するつもりな
ら、旅旌たびふだを見せてみろ」
 主紗は言葉に詰まった。旅旌は身の証となるもの。
国外くにそとに向かうならば必ず携える。だが彼は役目柄、
それを必要としたことがない。持たぬものを見せるこ
となどできはしない。
「ならば俺はこの箭を放つ。俺に誤りがあるならば、
いずれ女首長殿から処罰ばつを授かろう。目をつむれ!」
 まずい。この至近距離ちかさ弓射ゆみの名手である采斗から
逃れられるはずもない。
 采斗という男は一途で強情で生真面目で、柔軟な考
えというものはとにかく生まれるときに母御の腹に忘
れてきたような奴なのだ。役目であれば、友であろう
と、本当に射る。
 主紗は言われたままになるわけではないが、目をつ
むった。しかしいつまで経っても射られるはずの征箭
が飛んでこない。痛みも感じない。
 代わりに、鈍い音を聞いた。ぶつかり合う音。征箭
の放たれた気配。だたそれは主紗を射たものではない。
彼は目を開いて、凝らした。
 薄闇に見えるのは影ばかり、だが采斗が何者かに組
伏せられていた。月光を背にしているためにその者の
顔を判じることができない。彼の友は徒手で戦えぬよ
うな者ではないというのに。
 采斗を抑えつけながら、その何者かが声を出した。
「……黙って見てりゃぁ、お前ら。気が短いにもほど
があるぜ」
「放せ、見楢! ふぬけの肩を持つのか。俺は……!」
「役目を棄てるような友はいない、ってか? 悪いが
俺はお前らの兄分でな」
 その声と二人のやり取りで、見楢が助けてくれたの
だと分かった。どうやら見楢は成り行きを見て聞き耳
立てていたようだ。身の気配を隠すのは彼の得意とす
るところ、また采斗も適わぬ徒手の技にも得心のいく。
 采斗はまだ見楢の下でもがいていたが、背に膝を押
しあてられて片腕を後ろ手に捕らえられてしまい、ど
うしようもないらしいことが近付いて分かった。
「見楢、すまない。騒がせた。ここは関塞の近くだな」
「よぅ。総領このかみ殿の継御子つぎのみこどのじゃないか。夜更けにお
遊びは感心しないな」
 そういうことではなく、と言いかけたのだがそれを
制された。采斗を抑えているのとは違う手で、何かを
差し出された。
 片手で握るほどの小さな木札。その縁には照合する
ために刀子とうすで刺した傷が三つあり、国主御名朱印くにぬしのおんなのしるしが押
印されている。裏返せば、紗郷さのさとを出自とする書が墨走
り、持ち主の名が記されている。紛れもなく、己の名
が記されていた。
「嗣御子殿の旅旌だ。これで文句はないだろう?」
 見楢が問いかけた相手は采斗、だが彼はまだどこか
不服を残しているらしく、ごまかさせんぞ、と呻いた。
だが見楢は改まった声でしゃあしゃあと述べる。
「これは筆頭いちの郷士殿の密使つかいによくお出でなされた。
本来ならば御館にお入りいただくところではあります
が、ご内密のことと承り、目立たぬ粗宅あらいおにお運びいた
だきましょう」
 主紗は父の笙木の手の回っていることを知り、調子
を合わせた。見楢の母の出自は紗郷と呼ばれる笙木が
統べる郷で、伴部とものべひめ、主紗の母である紗鳴さなるとは従姉
妹の関係つながりがある。友族ともがらである生郷うのさとの郷氏に妻問を受け
て御妻みめとなって生まれたのが見楢である。
 生郷の大兄おおえ君子きみでだというのに、母が正妻きさいではな
いから嗣子あとつぎとはされていない。だから時折、主紗の事
を「総領の嗣御子殿」といって茶化すのだった。
「それでは先導あない申し受けましょう、悟らるることまか
りなりませぬほどに、よしなに」
 そういった「形式かたち」を整えられてしまうと、采斗は
弱い。さすが「兄分」は弟分の扱いを心得ている。
 見楢が力を抜くと、采斗は主紗の前に膝をついて礼
をとった。
「随身ずいしん、務めることを許可おゆるしいただく。御密使みつかい殿」
 つまりは護衛と称して張り付くつもりだろう。自身
の目で真実まこと虚実いつわりも見極めるために。
 よし、と答えた主紗の腹が、夜半の森に響いた。

						
 見楢が主紗を連れたのは、関塞の築地ついじ逆茂木さかもぎの内
でも、外れにある小さな草壁の粗宅だった。壁なす草
はさほど古いものではないから、打ち捨てられたよう
なものではないのだろう。
 中で待っていたらしい奴人おやつこは見楢の手下てからしく、少
ない言葉を交わすと軽く頭を下げて出ていった。
「爺はここの炊屋かしきや膳夫かしわでだ。何か見繕ってくる。ま、
とにかく座れ」
 見楢の乳母人おちのひとの父だという。
 ここは長く関塞で膳夫をしているために下された
粗宅で、他に縁人よりひともないため、気にするなと事訳ことわけた。
 中に促されたが、采斗は葦簀よしずの入口に立った。堅
苦しくも随身の役目を果たそうというのだろう。
 ……むしろ当てつけのように感じないでもなかった。
人気のないこの粗宅に衛りがついているようでは却っ
て目立つ。密使がここにいると言ってるようなものだ。
 筆頭の郷士の密使といえば公使でなくともそれに近
い大事だ。
 だが、主紗と見楢の郷は互いに近しい友族で、采斗
の郷はどちらにも与しない。確かに慮るのが筋なのだ。
己が逆の立場にあっても、同席せずに控えるだろう。
そして一言漏らさず聞き耳を立てて一つの間違いもな
く憶え、それから己の成すべきことを見極めるだろう。
 安穏とした海辺の集落で過ごした数日は確かに彼に
得難いものを教えたのだ。だが彼はそこから再び、張
り詰めた「平生」に戻ってきた。
 彼はそのように生きてきたし、変わらぬ平生にあっ
ったはずだった。己の知らぬものを知った。
 ならば、それは戻った、ということにはならないの
だろう。己が変わればまた、その平生も変わり行くの
に違いない。
 見楢が主紗に円座わろうだを敷いた。そして隅にあるかめやら
壺やらを勝手知ったる様子であけて何やら用意してい
る。手渡された土器かわらけに口付けると、仄かに甘い。そし
てすう、と心地よい涼しげな香りがする。わずかな辛
味も疲れを軽くするように感じられた。
「木苺の蜂蜜煮を水に溶かして、薄荷油めぐさあぶらを垂らした。
お前のには酒は入ってないから、安心して飲め」
 見楢のものには酒が入っているのだろう。采斗のも
のも作ったようだが、采斗はもちろん固辞している。
 向かい合うように座り、で、と促される。見楢はも
ちろん笙木の意を承知しているが、先に主紗の話を聞
こうという腹である。
 主紗は悩んだ。これまではただただ歩いて、生国に
向かえばよかった。己の見聞きしたことをまず、主で
ある明日香にすべて伝えようと思って足を動かしてき
たのだ。
 雨は降らない。小川もいづれ流れなくなり、大地は
死に逝く。
 それを、……霊力者ではない見楢や他の誰かに、ど
う伝えるのがよいのだろう。
 まだ確めなくてはならないこともある。御宮の、そ
れぞの郷士たちの情勢なりゆきのことも。
 今ここで見楢に伝えてよいものか。もちろん見楢は
信用のできる伴部だ。だからこそ父は見楢に旅旌を預
けたのだ。だが、それでも慎重にしたい。
 先に、と主紗は問いかけた。ああ、急速に感覚が戻
っていく。
「……父上の密使が来たな? それを聞く」
 葦簀の影にいる友にも聞こえるようなはっきりとし
た声。その声高に、見楢はわずかに眉をひそめたが、
懐から細竹筒を取り出した。
 丸められた文を広げ、主紗は素早くその大意を掴ん
でいく。速読はやよみは彼の得手、文書ふみには形式があるから、
己の求める内容の書かれた所は文の調子でおよその見
当のつくものである。
 手癖や好む文体にもよるが、日々の雑務や役目の中
で身に付けたこと。まして己の父の文ならば、毎日の
ように見てきた。だから両手を広げたよりも長く巻か
れた文ではあっが、読み終えるのにいくらも時はかか
らなかった。
 那智様が御越しになっていること。それも交易の関
わりで、急ぎの王書を携えて。それから。
 笙木は、主紗が国外に出たのを察している様子だ。
そのために旅旌を密使に持たせた。
 要点よく国内の政事の流れと郷の様子、気にかける
べき事柄がまとめられていた。初めから主紗が速読す
ることを考えて書かれていた。
 これで国を離れた数日を埋めることができる。いく
つかわかりにくい所もあるが急ぎのことではあるまい。
 父は己を侮っていないし、軽く見ることもない。そ
れを感じて己に頼むところのある、平生を取り戻した
と思う。さんざん抜けていると言われたあの数日は、
もう過ぎて行ってしまったたこと。
 しばらく刻むのを忘れていた時量ときはかりの水が一気に溢れ
ていく。時の狭間に残したひとときがある。再び逢う
ことを約した女がいる。だがそれはその時まで、誰に
も知られぬ狭間に偲ばせるのだ。
「密使は……櫨丈はじたけだな。戻っているのか」
 向かい合った男は。目を伏せた。あまり戸口に声を
届かせたくないのだ。それはわかる。だが。
「見楢。事態ことは大きく動くぞ。属派を気にするどころ
ではない。私はそれを見てきた」
「何を、だ」
「今はまだ言えぬ。明日香様に伝えぬうちは、他の誰
にも。時が惜しい。馬は使えるか」
「……だぁーかーらっ。そう気短くなるなっての。
何を焦る? 何を見て知った? 落ち着け。今は休ん
だほうがいい。歩き通しに来たんだろうが。飯食めしもじ
きに来る」
 飯食、の言葉に腹がまたきゅるる、と情けない音を
たてた。見楢が笑い含みに続ける。
「お前の都合は知らん。俺は総領殿によろしくあたる
よう、託された。だからお前はまずは腹を満たせ」
 文にそういった内容は確かにあって、見楢は主紗の
都合よりも笙木の命じたものを先にすませなくてはな
らない立場なのは分かる。だが主紗は唇を噛んだ。こ
こから御宮まで、馬を駆ってどのくらいかかるか、や
ったことがなくても知っている。
 主紗の勢いが萎えるのを見て取ると、見楢はここぞ
とばかりに続ける。
「姫巫女様の許に何をおいても、って駆けつけようと
するのもいいけどな。お前、今は暇をもらって邸宅に
いることになってる。駆け込む先は御宮じゃあない。
紗郷の邸宅だ、わかるよな?」
 何に先駆けても、まずは父の元へ来るようにと文に
あった。関塞で飯食に時を取られようとも、邸宅で笙
木に足止めを受けたくない。
「主紗。急いてコトを運ぶよりも、お前の性分も役目
も、策を練ることだ。らしくもないぞ。事態なんても
のは何もなくとも転がり出す。それをお前は今、己の
手で無理にでも転がそうとしているだろう。違うか?
向かぬことを急いてやろうとするな。……仕損じても
知らんぞ、俺は」
 主紗はぐっと、詰まってしまった。焦っているのは
確かなのだ。水に限りがある。今、こうしている間に
も、水は消え行こうとする。
 水が消えて大地の巡りが狂う、その始まりと終り、
限界はたてが遠からず、やってくる。
 主紗は事態を動かさなくてはならない。そのために、
生国に急ぎ戻った。だが、その限界にあるものを思い
描くことができない。描く未来さきもなくあてもなく、動
かすものとはなんだ。何を動かせばいい。
 何もしなくとも、水は無くなる。大地は狂う。
 それはすでに決まり切ってしまった「物事」だ。で
は己が動かすものは。
 国と、そのことわり。
 政事まつりごとと、祭事まつりごと。
 ここに生きる「ひと」の意思。
 見楢の言うとおり、本当の事態などというものは、
すでに主紗に関わりのなく動き始めてしまっている
のだ。できることなどいくらもない。
 限りの在ることならば、策を練り、知恵を絞るほど
の余地にも限りがあるということだ。
 主紗に今できることは、この二人の友を動かすこと
だった。少なくとも、それができねば、何も動かせな
いのに違いない。
 限界は誰にも気付かれることのなく、じわじわと忍
び寄っている。気付いたときには水はなく、大地は死
に至っているはずだったのだ。
 主紗にそれを教えた霊力者は……己の他の誰にも教
えなかった。
 限界はたてを教えるということ。
 それは、事態を動かす発端はじまりになるということ。
 そして始まるものは、……人々の、民の惑いだ。
 ここに至ってようやく、その張り詰めた弦を裁つ手
を己の内に抱えていることに思い知る。
 あぁ、最悪の事態がもし起こるとしても、その始ま
りを引き起こすのは己のこの手だ……。
 見楢に言われなければ、深く慮ることのないまま、
その発端はじまりの弦を裁ち切り、できたはずのことまででき
ぬようなことになってしまっていたかもしれない。
 見楢は采斗だけではなく、総領殿の嗣御子の扱いに
も長けているのである。
「……わかった。たしかに私は焦っていて、らしくな
いのだろう。だから、まずはおとなしく飯食をちょう
だいする」
 向かい合った男は、戸口に声を掛けた。爺が盆を下
げ持って、待っていたのだ。

						
 爺が急ぎ用意したのは、野蒜のびるあつものに湯がいた索餅さくべい
を浸し、くたかけの卵を溶いて流し込み、半熟なまにえに固めたも
の。麦縄汁まろぎのなわもどきのようなものだった。それに塩漬け
の瓜が副菜あわせだった。とは言っても主紗はこれは何だ、
と問いかけて教えてくれた爺の作り方の半ばもわから
なかったのだが。ともかくもそれを腹に入れて、人心
地のついたのだった。
「久方に、満足に食った……」
 飯食めしは己らしさを取り戻すのに必要だとかなりまじ
めに思った。確かに見えるはずのものが、見えぬよう
になっていたのだ。
 膳を置き、主紗は父の文をもう一度読み直した。そ
して文の様子から、明日香の意向がないことを確信す
る。父はどのようにして己が隣国に出たことを知った
のか。……明日香さまならば、風に聞いておられたか
もしれないと思っていたのだが。
 いや、それはないかと己の考えを否定した。
 水の霊力者、水葉の意思を受けた水は、山間の関塞
近付いたところでその歩みを止めた。それは「すみわ
け」のようなものではないだろうか。生きる者たちが
他の者を拒むことで自らを保つのに似ている。
 どちらかが拒むのか。それとも互いが拒むのか。人
の身である主紗にはわからない。
 この文から読み取れることは、明日香様は己が隣国
に出たことを承知していること、そしてそれを父に伝
えたこと。この旅旌を見楢に預けたのは父の考えで、
明日香様はご存知ではなかろう。
 那智様が御越しであるというのに、楓殿が暇をとっ
ているということが気にかかる。名目は王使であると
いう。
 国を出る前のことを思い出す。那智は風に声を乗せ
て明日香に呼び掛けていたという。
 それぞれの「意思」が複雑に絡み合う。その中で、
己がどのように立ち回るか……。
 身震いがする。面白い。
 そうだ、それが己の得手とするところ。それをすべ
て明日香様を守ることにつながっていくだろう。否、
つなげてみせる。
 見楢の姿は今この粗宅にない。ふと気付けばずっと
葦簀の影にあったはずの采斗の気配もない。もっとも
采斗が主紗に気配を悟られぬようにするのは難しいこ
とではない。それでも随身する、と言ったからにはあ
の友のことならば気配を消さず、主紗にわかるように
して付き従うものと思っていた。
 戸口から顔を出して覗いてみたのだが、やはり采斗
の姿はない。物事を途中で投げ出すような男ではない
のだが。
 この辺りは関塞の造作の際に木々が抜かれてならさ
れたと見えて、大木がいくつかあるだけである。他の
御館みたち小館たち臥宅ふしいお苫屋とまからも離れている。篝火かがりの明
かりは届かないから、慣れぬ主紗には周りの様子はわ
からない。
 森の中の道を一人で歩いてきたが、一度誰かに関わ
ってしまうと独りで取り残されると居心地悪い。それ
でこちらに向かってくる松明まつを見つけた時には訝しむ
よりも関わりのない者に見つかることを恐れるよりも、
安堵を覚えて、慌てて気持ちを引き締める。
 危ぶむ意識が低いようでは、まるで御宮に、己のあ
るべき居場所に戻ることを躊躇っているようではない
か。
 松明の持ち手は爺だった。見楢に言いつけられたの
だという。
 主紗は飯食の礼を言った。膳夫の朝は早いというの
に夜更かしさせてしまった。いえいえ残り物しかござ
いませんで却って申し訳ないことで、などと言いなが
ら立ち並ぶ御館の裏側目立たないところを選びながら、
主紗を連れていく。
「厩か」
 爺はおじぎをしながら去っていく。中から見楢が顔
を出した。
「その足では歩きは無理だろう。こいつで行くといい。
……真刀まとという」
 漆黒の毛並みも美しく、暗闇に浮かびあがった馬体
は引き締まり力を感じさせる。身丈も高く、瞳は苛立
ちも怯えもなく静かだ。
「こいつは……お前の郷でも壱弐、とかいう名馬だろ
う? 聞いているぞ。いいのか、連れて行っても」
 すでに鞍置かれた真刀の手綱を引いて厩の外に連れ
ながら見楢はいう。
「構うな。真刀は俺が親父殿から下されたが、気性が
大人しい。俺は兵士だから、戦場いくさばに連れることもあり
得る。……お前は馬の扱いが上手いだろう。真刀、大
事にしてもらうんだぞ」
 真刀は美しい馬首を見楢に寄せた。いいのか、と聞
いているように見えた。彼がうなずき、軽くたたくと、
小さく鼻をならしてから、主紗に向き直る。
「きっと、大事にしよう。必ず」
 見楢は主紗と真刀をこっそりと関塞の門から離れた
逆茂木へと連れた。関塞の者たちにすらあまり知られ
ぬ隠された門があるというのだ。
 主紗は真刀の鐙に足かけて飛ぶように跨る。左の足
首は、怪我に慣れている見楢に診てもらって薬を塗り
かえて堅布で巻き直してもらっていた。
 真刀の首を頼む、というように撫でて、手綱を取る。
「見楢、面倒を掛けた。この借りは必ず返す」
「あてにはしないさ。それに俺は総領殿に従った。お
前には関わりない。……面倒事の主はさっさと行け」
 わずかに踏み分けられた獣道が続くからそれを辿れ
ば路に出る、と見楢は小さな門を閉じた。そして少し
だけ、息を吐く。
 主紗は、少し変わった。いい顔つきになった。
 さて、あの子離れできぬ総領殿はそれを見てなんと
言うだろうか。思い巡らせて、見楢は誰もいないとこ
ろで一人、口の端を吊り上げた。
 月影を見上げた。俺はなんていい奴なんだ、と一人
ごちる。真刀のような良馬、望んでもそうは得られる
ものではない。ただ、今、己の手元に他の馬がいなか
ったのだ。
 これはもう、それがもったいなかった、と後から思
うようなことだけはしてくれるなよ、と願うよりほか
にどうにもならないではないか。
「面倒事はもう……起きねーよなぁ……?」
 心の奥底から願わずには居られない。こんな役回り、
技芸人わざひと小説げきにだってそうはない。これまでに幾度引
き受けてきた役柄だろう。
「俳優わざおぎにでも、なるか……?」
 現実うつつでないだけ、ましである。
 だが、彼の願いは虚しく、きっと面倒事は起こるに
違いない。
 歩揺かんざしを手に入れ損ねた。仕方がない、母上への贈り
物は市で見繕うとしよう。傷ものではなく。
 済んだことを思い煩うのは「見楢おのれ」らしくないこと
だ。だから彼は敢えて考え込むようなことはしない。
皆から見た「見楢」をなぞらえるために。
 俳優わざおぎというものは始まればその小説を降りることが
できないものだ。物語が終わる、その時まで。だから
彼はこの「見楢」という役柄を生まれ落ちたそのとき
から生きている。
 「見楢」を生きる。物語が……終わるまで。
 戻る道で彼は篝火かがりの側を通った。松明の代わりに、
薪をひとつ引き抜いた。折悪しく、あまり燃えていな
い。
 だが彼はその薪を掲げた。それだけで。
 火勢いきおいが……強まっていく。
 燻っていただけの、薪。
 それが、「何もしないのに」炎を上げていく。
 炎は彼の足もとに、彼自身の影を作った。その炎に
揺らめく影を、彼は数瞬……見つめた。
 櫓に向かって歩き出す。もともと不寝番ねずのみはりが割り当て
られていたのだ。
 仲間の兵士や衛士をの顔を見つけて、悔しいが賭け
に負けたと陽気に笑って見せる。
 それが「いつも」の見楢だった。
						

 真刀を並足で走らせ、小道を抜ける。しばらく進む
と教えられた通りに、幅広く築固められた「路」に出
た。
 月明かりのために、思いのほか明るい。見楢が真刀
に負わせた荷には松明もあったが、使わずにすむだろ
う。
 路の先に、闇深く影がある。馬体がこちらを待ちう
けているのだ。
「……采斗。どうした。関塞に在るのがお前の務めだ
ろう」
 言われた友は、ふん、とひとつ鼻を鳴らす。
「密使つかい殿に随身の許可ゆるしを得たからだ」
 まだそれを引きずっていたのか。己の友らしく、笑
うよりない。
 それに、と采斗は続けた。ひとつ借りがある。戸口
まで聞こえるように声高に話した。それを借りたまま
にしておくのは居心地の悪い。
「お前は、……旅旌なく国境を越えた。否応なく、考
えもなく、そのような手抜かりをお前はしないだろう。
だがもしも、その越えた先でお前が知り得たこと為し
たことが、女首長殿を悩ますようならば、俺はこのま
まお前を行かせられぬ」
 つまりは、監視みはりする、ということか。
 主紗は、わかった、と短く言って真刀の腹を蹴った。
長く友をしていれば、わかる。なんだかんだと言い訳
をするが、采斗は主紗の左の足首が腫れているのを知
って、ついてくる気になったのだろう。
 采斗は己の馬に真刀の後を追わせた。栃栗毛の彼の
駆る馬もまた良馬。その名を木凜きりんという。
 主紗が早駆けすることを見越し、木凜の負担を思い、
采斗は皮甲よろいをはずし小具足姿だ。だが靫負ゆげいたまま、征
箭の数は減らしているが、重いことには変わりない。
弓は櫨弓はじゆみから騎射のりうちのための合弓、竹を貼り合わせしな
りを増し、いくぶん小さくても長距離へだたりのたけの飛ぶ物を肩か
けている。
 その合わせて荷の重みは真刀のものとは比べものに
ならない。だが木凜は早駆る真刀を追い、采斗と息を
合わせ駆けを崩さない。
 その柔らかい乗り心地、辛抱強さもあること、息切
れせずに長く駆けることのできることも含めて、戦場
に連れるために生まれた、兵士のための良馬だと、采
斗は木凜を可愛がっていた。
 前を行く主紗がわずかに振り返った。己を後ろに友
があることを確めるために。
 それは「道」を一人きりで作り上げた未来さきも、こう
であるかのように。
 続く誰かのために切り開き、人は進んでいく。
 友が前を向け、慣れぬ夜道はたやすくはないと叫ん
だ。己の騎乗うまのり技巧わざを知らぬ友ではないだけに、気持
ちを知る。
 
 この路は、続いている。
 己の在るべき居場所へと続いている。

 その路の未来さきに、彼等の為すべきことがある。
 苦難くるしみを伴うとしても。


 ……何に代えても、護る人がいる。

 限りを越えるための哀惜かなしみが。



 たとえその身に余ることだとしても、
 待ち受けている。






                  【 続 】