瞳 色
TOPルネサンスの風

 私は「稲葉 葵」が好きだ。
 背がすごく高いわけではない。
 細身ですっきりとした立ち姿。だけど、少しもなよ
やかさは感じない。
 停学の常習者。
 煙草の香りとお酒。
 キレイなブリーチ。
 不良さん、と言えるかもしれない。
 学校にも滅多に来ない。
 それでも、不思議なあの人が好きです。


 昼休み。
 真上を少し過ぎた太陽の光と熱が安眠の邪魔を手伝
っている。あと5分、って朝に思うのと同じ心地を味
わう。
 ふいに騒々しくなる教室。遠くでまた眠りを妨げる
声が聞こえる。たぶん、どこかで聞いた声。
「……子。杏子。……か・わ・な・きょ・う・こッ」
「はいっ」
 声の主が友人の伊藤千夏だと気が付いて「よいこの
おへんじ」をしてみる。そして直立不動。
「なぁに? 何かあったの?」
「あったね。こんなときに寝てないで」
「焦らさないで、せっかく起きたんだから」
「あの人が、学校に来たらしい」
 あの人……が。さすがに、千夏は噂に強い。そして、
あの人も、噂になりやすい。
「今、指導室にいるって。今度は何かな」
 前回は無免許でバイクで登校しているのがバレたん
だと思う。その前は、ケンカの相手に重症を負わせた
らしくて、もっと前は、たぶんシンナー。
 何週間ぶりかで学校に来ても、生活指導の教諭に呼
び出されて、授業に出る暇もないのだろう。
「……教室に来るかな」
「来るわけない」
 千夏は素っ気なく言う。
「教室であの人、見たことある?」
「転入当初は来てたでしょう」
「数える程だけね」
 それにしてもよく転入試験に受かったよね、と千夏
は付け加えた。
						

 入学式の日にはクラスに「稲葉 葵」の名前はなか
った。その名前がクラスに加わったのは5月の中ごろ、
ちょうど大型連休の終わったころだったと思う。
 初めて教室に現れたその姿を見て、今の「稲葉 葵」
を想像できたクラスメイトはいたのだろうか。
 白いTシャツにジーンズ、パーカ。メーカーものの
バックを片肩にかけたその格好は、どこにでもいる、
フツーの高校生だった。
 休み時間には、気付くともう人に囲まれていた。早
くも打ち解けたのか笑顔だった。
 千夏が話しかけて来たのを覚えている。
「杏子。私、あの人のこと女の子だと思った」
「どう見ても、男子でしょう?」
「そうかな。どっちでも通用しそう。美形には変わり
ないけど」
 千夏の美意識はちょっと変わっている、と思うが、
そこは友人なので深く突っ込んではいけない。ときど
き、小説の世界と現実のギャップを狂わすから。
 そこはしっかり否定しないといけない。
「そんな人じゃないから、絶対」
「どうしてわかるわけぇ?」
「……なんとなく、なんとなくっ」
 付き合いの長い彼女だから、何か感づいたらしい。
「何か、隠してない?」
 す、するどい。でも、千夏に言うつもりはなかった。
なぜ、と聞かれてもわからないけれど、たぶんあの頃
はまだ、言葉にすることができなかったのだと思う。
						

 クラスメイトの誰よりも早く「稲葉 葵」を知った。
 5月のはじめ、大型連休の間の平日。その午前中に、
私は街中を歩いていた。
 特別な理由があったわけではない。入学して1ヶ月。
「高校生」という生活に少し慣れてきて、その1年前
まではしようとも思わなかったことができるようにな
ったような気がしていた。
 単に、サボりたかったといえばそうだけど、授業も
サボれないような優等生じゃないんだって、どこかで
思いたかった。
 だから、目的もなく歩いていた。
 その日は制服だった。私服も許されている高校だけ
ど、新入生は1ヶ月は制服で登校する人が多い。そろ
そろクラスにも、私服の子が増えてきていた。
 登校中に突然思い立ったから、私服を着ればよかっ
たと思い始めたころ。
「その制服、東高のものじゃないか?」
 後ろから声を掛けられた。一瞬、先生に見つかった
のかと思ったが、振り向いた先に目に映ったのは同年
代の男の子だった。
 ……ナンパしようっての?
 ジーンズにジャケット、スレンダーな体形と、すっ
きりした顔立ち。うん、まぁいいかな。……なのに、
「ちょっとカッコイイ」彼は期待に反してこう言った。
「東高ってどこ?」
 暇つぶしができたと思ったのに。転校生か。
 この街は初めて来た人には分かりにくいのかも知れ
ない。分かりやすく、道を教えてたつもりだった。
「……そうしたら、左手に校舎が見えます」
「全っ然わかんない。これから行くんだろ、連れてく
れよ」
 サボるつもりだったのに。一瞬迷ったのが、顔に出
たのだと思う。
「オレとは歩きたくないか?」
「そんなことないけどっ」
 そんなことまっすぐに聞かれたことがなかったから、
反射的に否定してしまった。なんだろう、このオンナ
ゴコロをコントロールされたような。
 ……登校しても、今は1時限の終りごろ。次はキラ
イなGrammraだけど、肩を並べて歩き出した。
 見慣れた道が、少しだけ違う。
 知らないヒトから、コイビトどうしに見えるかも、
と意味不明に緊張して一人で妙にどきどきした。
 中学は女学院で過ごした。男の子と二人きりなんて、
いつ以来だろう。こんなに意識したことがない。どう
したらいいのか、何か話をしたほうがいいのだろうか。
「おんなじ1年だな」
「え」
 思考回路が、うまくつながらなかった。即答不可。
「なんでわかるの」
「ばぁか。学年章だろ」
 初対面と思えない口調。でも親しみやすい。別に毒
はない。
「……転入試験、これから受けるの?」
「あー、メンドウ」
 緊張感のない。だから、自然に話ができた。
 2キロあるこの道がこんなにも短いと、そのとき初
めて気付いた。
 北国のこの街は、ちょうど新緑の季節。プラタナス
の街路樹が、青空に手を伸ばすみたいに葉を広げかけ
ている。駅から北に続くこの通りは、1時間ほど前な
ら周辺の学校に通う中高生から大学生でいっぱいだっ
ったはずだ。
 ただの、なんてことない通学路が少し違う。それは
特別なことだと思う。
 彼、「稲葉 葵」は少し離れた海沿いの町の高校に
進学したが、都合で転校することになったという。今
は親戚の厄介者なのだと言った。
「都合って?」
 会話が途切れるのがもったいなくて、なんとなく聞
いただけだったが、彼は答に窮した。
 並んで歩く、身長差のある顔を見上げた。
 少しの沈黙。暗い陰のある表情。瞳の目線が「ここ」
にないことだけがわかった。遠く、孤独な顔。
「どうでもいいんだ、そのことは」
 彼自身を納得させるように、そう言葉紡ぎだしたの
だと、後から思う。
 左手に校舎が見えてきた。
「東高だよ。前に来たことある?」
 重たくなりかけた雰囲気を変えたくて明るく言って
みたけれど、
「さんきゅ」
 彼は短く言って、職員玄関に走っていった。
 ……彼の後ろは、追えない。
 1時限目の終了を告げるチャイムが鳴った。
 彼にとっての「そのこと」とは何かわからない。
 それは彼にしかわからないことで、私にはわかって
あげられないことで。
 不思議な人。
 孤独に耐えるわけでもなく、ただ背負う。受け入れ
もしないで、納得もできないで。
 それが彼の印象。
 彼が、感情を表情に出してくれた、最初で最後の瞬
間だったのかも知れない。
 そのことに気付いて、忘れられない存在になった。
						

 転入してしばらくしてから、彼の足は校舎から少し
ずつ遠のいた。1週間も登校しないと、話題にもなる。
 茶髪の美人と歩いてたとか、地元で有名なグループ
の集会所に出入りしているとか、そんな噂。
 聞くのが少しずつ、つらくなった。


 その日は午前授業だった。午後から大会か何かがあ
って、関わりのない生徒は帰宅させられる。
 週末だから、私服で登校している人が多い。このま
ま街に遊びに行ける。千夏とお買い物の約束をしてい
た。もちろん教室に中身を置いてきたバックは軽い。
 セレクトショップやドラックストアの紙袋で両手が
いっぱいになって、歩きつかれた頃、ひと休みしよう
とカフェを探していたときだった。
 どこかで、見たことのある後姿。
 すっきりとして、スレンダーで、でもなよやかさが
なくて。
「杏子。あれ」
 千夏も気付いた。
 他校の学生服の2人組と向かい合っているのは、間
違いなく稲葉葵だった。
「いまどきカツアゲかよ。めずらしーな」
 3日ぶりに聞く、声。
「……んだてめぇ。ざけんな」
 意気込んだ一人を、もう一人が押さえて言った。
「聞いてるぜ『稲葉 葵』。俺等は平和に言ってるだ
けだ。ここは地元じゃない。いいのか?」
 その言葉を受けて、彼の表情が強張った。それも一
瞬のこと、無言で2人を睨み返す。強く鋭く。冷たい
瞳は、あのとき並んで歩いた彼のものではなかった。
 険悪な雰囲気に、千夏が慌てた。
「警察呼ぶ?」
「……まずいよ」
 それでは彼も悪いことになってしまう。
 そのとき、彼は相手の胸ぐらを掴んだ。
「うせろ」
 そのまま付き飛ばして、こちらを振り向く。歩き出
そうとするその肩を、もう一人が引いた。
「てめこのっ……」
 彼はまた、睨み返した。鋭く、静かに。見下すよう
に、威圧感のある視線を投げる。
 彼は自分の肩に置かれた手を払った。
 2人組は迫力に押されたのか、もう何も言わなかっ
た。
 それ見た彼はそのままこちらに向かって歩き出した。
 無表情だったその目が、一瞬だけ合った。
 ……その瞬間だけ、強い瞳が虚空を彷徨ったように
見えた。
 彼は何も言わずにすれ違って行った。私はといえば、
振り向くこともできなかった。
 千夏が真顔で言った。
「けっこー、コワイひとだったんだ……」
 そんなこと、ないと思う、でも言葉にして否定でき
なかった。彼の何を知っているわけでもないから。
 本当の彼は、そんな人じゃない。
 プラタナスの道を、いつもとは違う、特別に変える。
 親しみやすくて、ちょっと陰をかかえて、でも強が
ってそれを表情に出さない。
 そう、思いたい。
 もう一度、彼と話がしたい。誰にも見えない本当の
彼が分かるまで。
 すきとかきらいとか、正直分からないけど。
 でも気持ちが少しずつ変わっていったと思う。
						

 数日後の朝、教室に入るといつもと少しだけ雰囲気
が違った。窓側のひとりを、数人が囲んでいる。
 噂話だろうと思った。たぶん「稲葉 葵」の。
 彼の噂はもう、耳に入れない。何が本当か、彼に聞
くまで分からないから。だからその噂話の中身を知っ
たのは放課後。
 クラスの違う千夏に呼びとめられた時だった。
「杏子、聞いた?」
「ううん? 何の話?」
 わざととぼける。気乗りしないけど、千夏は誰かに
聞いてもらいたいだろうから。
「それがさぁ、私も聞いたばっかり」
 最初は聞き流していたけれど、話が進むうちに聞き
入っていく自分がいた。平然と聞くには難しい話。
「本当?」
 できるだけ、平静を装って聞き返す。
「間違いないって、いうんだけど……」
 千夏も眉根を寄せた。冗談なら、笑えるし、言う。
 でもなぜか冗談だと思えない。
 表情が強張る。


 稲葉 葵ガヒトヲ殺シタ。 

 前ノガッコウデ。


 嘘。
 信じない。
 外見で人を見る、誰かが。
 勝手に創った嘘に決まっている。


 繰り返し繰り返し、何度も何度も。
 否定しようとする。
 彼がそんなことをするはずがない。
 わかっている。

 何を?

 誰も彼を知らない。
 本当の彼を知らない。

 私も。
 
 知らないから、信じる自信がない。
 知らないのに、信じてあげたい。

 ……ただ彼と、話がしたい。
						


 中2の頃の話だって。
 隣町の中学にいた頃のことで。
 すごく目立ってたって。
 イトコがさぁ、中学時代に「稲葉 葵」とクラスメ
イトだったんだよね。
 それで聞いたの。
 女が絡んで、殴り合ったって。
 ナイフとか持ち歩いてたから。
 相手を刺したって。
 そのときは相手は助かったみたいだけど。
 結局、傷が原因らしいって。 


 噂話は翌日も続いていた。
 罪のない彼女たちは、休み時間はその話で持ちきり
だった。
 チームを抜けようとして。
 頭ともめて。
 一度女をとられて、それで殴り合って。
 相手が死んだ後に女とよりが戻って。
 たぶんこの前一緒にいた茶髪の美人のことで。


 もう、いい。
 知りたくなるのが、怖くなるから。
 聞きたくないのに。
 なのに、一度気になった話題というものは、自然と
耳に入ってくるようなものらしく。
 耳を塞ぎたいのに、塞ぎたくなくてぐずぐずしてい
たときに、ちょうど。
 3日間、停学になったって聞いた。
 逆に、ほっとした。
 それから数週間。彼は登校していない。
						

 相変わらず真上を少し過ぎた太陽の光と熱が左の頬
を照りつけている。
 もうすぐチャイムが鳴りそうだ。
「杏子?」
 黙りこんだ私を心配してくれる千夏の声。
 教室のざわめき。クラスメイトの笑い声。グラウン
ドに運動部の声が響いている。
 教室の戸が開く音。
 一瞬、教室が静まった。
 そこに、彼がいた。
 横目で視線を送るクラスメイトの間をすり抜けて、
窓側のいちばん後ろの席に腰を下ろす。
 ここ数週間、誰も座ることのなかった、彼の席。
 金色の髪をかきあげる。
 今に限ったことじゃない、そんな風に。
 隣の席の机とは、スキマがあいているのを、知って
いる。
 少しずつ、教室にざわめきが戻った。
 昼休みの一風景を無視するように、何も知らないチ
ャイムが鳴り響いた。
						

 出欠をとる教師。人のよい若い古典の女教師で、こ
のクラスの副担任でもある。
 出席簿を見ながら嬉しそうにしている。
「今日はみんなそろったね」
 きっと彼にとっては余計な一言に違いない。
 聞いているのかいないのか、彼は遠い窓の外を眺め
ている。
 小鳥がさえずる声がする。
 妙な雰囲気を感じるのは、意識過剰に鳴っているせ
いだろうか。
 授業が始まっている。教科書を読み上げる声。ペー
ジがめくられる音。チョークが黒板をたたく音。
 不意に、エンジン音がけたたましく響いた。
 バイクの音。
 誰かが無言で立ち上がる音。
 横目で誰かに視線を送るクラスメイト。
 声を掛けようとする女教師。
 戸が開く音。廊下に響く足音。
 ……一音ごとに、胸に突き刺さる。
 彼は、「稲葉 葵」は、走り去っていった。
 ざわめく教室。女教師がため息をついた。その光景
を、反応を見て。
 私は彼にならった。
 違うのはクラスメイトの反応。
 廊下を走る。彼の後姿を求めて。彼の姿はもう、廊
下にはない。靴をつっかけて、玄関を飛び出した。
 バイクが校舎前に数台、彼を囲んでいる。ライダー
のひとりがメットを外していた。
 茶髪の……美人。
 彼は渡されたメットを被って、彼女のバイクの後ろ
に無言で乗った。
「待っ……」
 私に彼を止める権利があるのか。迷いが、言葉をさ
えぎって最後まで言えない。
 振り向く、彼。
 だけど。
 彼はやっぱり無言で発進を促した。
 エンジン音を残して、バイクは去っていった。
 振り向いた彼の瞳は、メットのせいでわからなかっ
た。
						

 教室には戻れなかった。戻りたくなかった。
 目的もなく、歩いていた。
 あの時と同じように。プラタナスの街路樹がある、
通学路を。
 今はそれを、逆にたどる。
 どこへ行くのだろう。
 戻るところを失うことはない。
 通学路を逆にたどれば、家につくだけのことだ。
 ……彼は、戻る場所があるのだろうか。
 少なくとも教室は戻る場所じゃない。それを彼に差
し出しているのは、あのバイクの茶髪美人だ。
 リビングでくつろぐ母親に、早退して来たとだけ言
って、部屋に引きこもる。
 大丈夫? とだけ確めて、深く追求してこない母親
親の態度に、今は感謝した。
 ベッドに身を投げ出す。
 あ、バック置いてきた。
 そんな現実的なことを思い付く。
 とりとめもなく、どうでもいいこと。
 そう、バックは登校すれば教室にある。教室に帰っ
たら、きっと誰かがロッカーに納めておいてくれてい
る。……私にとっては、教室も、居場所だから。
《……どうでもいいんだ、そのことは》
 初めて会ったときの、彼の言葉。
 何も知らなかった。
 彼が背負っていたのは「過去」。
 逃げ出すこともできないで、受け入れることもでき
ないで。
 ただ、孤独を埋めるように、居場所を探す。
 ……戻る場所が他にないのは、それはたぶん、切な
すぎる。
						

 翌日は快晴。
 母親は早々に仕事に出掛けた。
 看護士の母親に仮病は通じないから「ガッコウ休み
たい」とだけ、言った。ダメで元々、言ってみるもの。
 少しは心配してよ、と思ったものの、きっと心配し
たから、何も言わずに休みの連絡を入れてくれたこと
も分かっている。
 もう10時を回ってるけど、正直何もすることがな
い。
 パジャマを着替えて、外出の準備をする。
 ……朝の街を歩こう。いつかは、結局登校したから、
歩けなかった分。
 そんな風に思いながらも、どこか心の中では何処か
でまた、会えないかなんて期待している。
 期待に応えてくれたことなんて一度もないのに、そ
んな自分に呆れる。
 朝の街は通学通勤の行き来が一段落して落ち着いて
いた。夕方と違ってのんびりしているのが、珍しい。 
 駅に向かって歩いた。あの、プラタナスの街路樹の
ある通学路。この道で出会った。
 ナンパならOKとか、ちょっと一瞬考えた。
 後ろから声を掛けられたのを思い出す。
 肩に手が置かれる。呼び止められた。
 まさか。
 でも、振り向いた目に入ったのは。
 煙草の煙と、スリムなブラックジーンズ。流れる、
長い茶色い髪は艶やかで。
 昨日の、バイクの茶髪美人。
 そんな、人生うまくいくはずもない。心の中で苦笑
したつもりが表情に出たらしく、茶髪美人は不満そう
に顔をしかめた。
「あんた、葵探してんの?」
 否定できない。
 彼女はため息まじりに言った。
「これ以上葵に近づかないで」
 親しげに彼の名前を呼ぶのが羨ましかった。だから、
彼女の言葉に反応するのが少し遅れた。
 近づいたこと……なんかない。断言。
 彼のことを何も知らないのに、近づくこともできな
いのに。
 そんなことを言われたくない。
「あいつはつらい想い抱えてる。ヒドイことばっかり、
あいつにふりかかる。……初めて会ったときに比べた
ら、落ち着いたけど」
 あぁ、彼女は私の知らない彼を知っているんだ。
そしてそれを、私に言いたいんだ。
「あんた見てると、葵がまたつらい顔する。だから、
もうガッコウなんてやめろって言ったんだ」
 彼女の顔がつらそうだ。彼のために、こんな表情の
できる人。
 彼をわかってあげている人。
 だから彼は彼女のところへ戻っていくのだろうか。
 ……彼には、戻っていく場所があるんだ。
「このまま、あいつと会わないで。帰りな」
 出る幕はない。言外にそう言っている。
 迷う。彼女に言うべき言葉を、今の私は持っていな
いから。
 ただ会いたいだけ。会ってどうする? 彼女の言う
とおりに、彼はつらい表情をする?
 私のために、そんな表情してくれるはずもないのに。
						

 沈黙が流れた。プラタナスの道を、誰も乗らないバ
スが風を置いて過ぎ去った。
 彼女が口を開いた。
「あいつから、あんたのこと聞いたことある」
 理解不能。どうして? たった一度、話しただけ。
「クラスでも、フツーに話せるって。他の連中とどう
違うって聞いても答えない」
 彼のことを誰も知らない。それは、私も同じなのに。
「少しわかる。だから、もう葵に関わらないで」
 それは懇願だった。たぶんすごくイヤなんだと思う。
 彼を想う気持ちは同じなんだと思った。
 でも、やっと彼女に言うべき言葉が見つかった。
 彼を知る彼女。でもそれは彼の抱えるものから切り
離せない。私は知らない。でも、知らないから言える。
 どうでもいいわけがない、って言ってあげられる。
「あの人に会わせてください」
 彼女は目を見開いて、それから盛大に美しい顔をし
かめた。
「あんたほんと分かってないよ、葵は!」
 1台のバイクの音が、そこに割って入ってきた。
 ジーンズにTシャツ、ブルゾンを羽織ったライダー
は、エンジンをつけたまま2人の前に止まった。
 メットを脱いだその顔は、稲葉葵のものだった。
「……なつき」
 不機嫌そうに、彼女の名前をそう呼んだ。
「こいつに、何した」
「何も」
「本当だな?」
 念を押して確める彼に、なつきさんは哀しい表情を
見せた。ぼんやりと美人はどんな表情でも美人だと、
思った。
 あんなに会いたかった彼が今、目の前にいる。
 ただ立ち尽くす。2人の間に入れないのが分かって
いた。
「昨日から変だよ、葵。この女がなんなの、私にも言
えないわけ?」
 弾かれたように、彼は突き放した口調で。
「関係ねーから!」
 そして。
 彼は。
 私にメットを投げて。
 後ろに乗るようにしぐさで促して。
 思考回路は完全停止。
 たぶん私は、後ろにまたがった。
「葵ーッ!」
 なつきさんの声が後ろから聞こえてきたけど、エン
ジンの音にすぐに掻き消された。
 バイクは赤信号に変わろうという信号を半ば、つき
抜けた。
 風は初秋。北国の季節のうつろいは早い。初めて会
ったのはまだ、春のこと。
 姿を見たのは、ほんの数えるほど。
 話をしたのも1度。
 でも、今同じバイクで同じ場所に向かっている。
 バイクはどこに向かうのだろう。
 しがみつきながら、ぼんやりそんなこと考える。
 なぜ、私をバイクに乗せてくれたんだろう。
 何も分からない。
 でも、分からないままでいい。
 今、彼の傍にいる。
 それ以上分かりたくはない……!
						

 何度目かの角を曲がってから、スピードが少しだけ
落ちた。見慣れない場所だけど、たぶん方向は駅の裏
側だと思う。
 バイクの音に電車の音が重なる。
 少しだけ余裕がでてきた。そしてふと疑問に思う。
 ……ウエスト細いなー。
 男の子にしがみついたことなんてないから、ちょっ
と不思議。かなり羨ましい。
 バイクは人気のない、高速道路下に止まった。
 高架下の柱は、隙間なくラクガキかアートか区別の
つかないスプレーペイントでカラフルに染まっている。
「降りろよ」
 しがみついたままの私に、抑揚のない声を掛ける彼。
 初めて会ったときとは、別人みたいだと思った。
 降りてみると少し足元がふらつく。思えばバイクに
乗るのなんて初めてだった。メットって苦しいし、髪
もからまるものなんだとか、ちょっと思う。
「気にするな」
 なつきさんのことだろうか。それなら気にするのは、
彼女の方だと思う。
「……昼間は誰もいない。夜は煩いけど」
 相変わらず、期待に応えてくれない。
 でも、その言葉は気遣うものであっても、声に感情
の抑揚がない。彼が何を考えているのだろう。
 それを聞くのが、ためらわれる。
 言いたいことも聞きたいことも知りたいことも、た
くさんあるのに。
 せっかく2人きり。いくらでも時間があるのに。
 真上の高速道路を、大型トラックがクラクションを
鳴らして行き来している。
 高速道路の高架は川を渡って、彼が住んでいたとい
う隣町に続いている。
 川べりには雑草が生えているけど、この柱の下はあ
まり茂っていない。きっと人が集まるからだろう。
 虫の声がときどきどこかから聞こえてくる。
「……昼と夜の顔がある場所。昼間はいいな。ラクだ。
人間と同じで」
 彼が呟いた。たぶん、わかる。
 心の奥で想う本当の気持ちは見ることができない。
「人って冷たいから」
 そう、返した私に、彼は意外そうな顔をした。
 そしてあのときみたいに、親しみやすい笑顔を向け
てくれた。イタズラが見つかった子供みたいに。
「そうだよなー」
 視線が重なる。その距離にいる。同じ時間を過ごし
ている。
 だから、何も知らなくてもいいのかも知れない。
 彼が、私に話そうとしてくれていることが分かる。
一歩だけ近づいた気分になって、でも、本当に分かっ
てあげられるのか自信がない。
「なぁ、そんな顔すんなよ」
 不意打ちをくらった。かなりイヤな顔していたこと
に気付く。
 彼は河原に降りていく。
 小石を拾う。
 川面を小石が滑っていく。5回、6回。
 水中に吸い込まれる。
 何事もなかったように、流れる川。
 見ているだけの私。
 振り返った彼が、私を見据えて言った。
「そんなツラした奴が、いたんだ」
						

 何か言いたいことがあるような顔をする。
 そのくせ、何も言わない。
 だから、何を信じていいのか分からない。
 不安を覚えて、何を信じても、あいつの傍ではため
らうことしかできなかった。
 でも、離れられなかった。
 失いたくなかった。
 人は簡単に人を裏切ることができる。
 それをずっと忘れていた。
 忘れさせていたのはあいつだった。
 ……存在がなくなる。いなくなる。
 そんなことあるわけがなかった。傍にいるから。
 どんなに信じていても「絶対」なんてないのに。
 失った時から、立ち止まったまま。
 また、会える気がして。
 振り切らない。振り返らない。そのまま。
 過去も未来もいらないから、傍にいることに意味
があるから。
 そう思っていた。「永遠」ってそういうことだと。
						

 金色の髪をかきあげる。
 気付いていた。それが、癖なんだと。
 河原に2人で並んで、流れを見ていた。
 彼の瞳に映る川面は乾いていた。流れの音が、耳に
痛い。遠く、ただ対岸を眺めいている。
 陰のある、背中。
 たぶん、私には何もできない。
 立ち止まって、動きたくないのは、彼の方だ。
「過去」にとどまっていたいから、受け入れることが
できないから。
「中2の秋かな。ちょうど今くらい。……今でも不思
議なんだ。あいつがいないってことが」
 それだけ信じていた奴がいた。
 矢島。あいつの名前。
 もう2度と、会えない。
「知ってるだろ、噂。信じるなよ」
 言われなくても、信じたくない。
 噂がホントウかどうかなんて、誰も知らない。
 不意に、彼が笑い出した。
「お前、ポーカー下手だろ?」
「えぇ?」
「意外と顔に出るんだよなぁ。何も言わないクセに」
 少しだけわかった。彼は、私に「矢島」という人を
重ねている。
 大事にして大事にして、それでも失ってしまった誰
かのこと。
 でも、私の中に「矢島」はいないし、私は「矢島」
になれない。
 それは少しだけ……だいぶん、ショックだ。
 いない人に勝てない。なつきさんよりも強敵。
「矢島はさー、ホント下手だったな。そのクセ賭けた
がる。まぁ、他のギャンブルやらねぇ奴だったから」
 手のかかる奴だった。
 だから、あいつの『右腕』として『男』として助け
てやろうって思っていた。
「なりきれなかった。あいつの右腕に」
 チームで中坊は自分だけ。
 いくら背伸びしても、かなわない。
 抜けた、と思われているけど、抜けられるなら入ら
ない。中途半端に関わるわけにはいかない。なのに。
						

 ……ひとつずつ区切るように話す彼。
 それをただ、聞いていた。
 聞いて欲しいと思って話しくれるのなら、それだけ
しかできなくても許される。
 なつきさんの言葉がよぎる。
《あんた見てると、葵がまたつらい顔する》
 話すことで傷を増やすなら、私は知らないままだっ
ていいのに。
「……お前、あのとき何か言いたそうだった。目がそ
ういうカンジだった」
「あのとき?」
「会ったろ、街で」
 午前授業だったあの日。千夏と一緒に、すれ違った。
 彼と、目が合ったのだ。
「あのとき、お前の視線に気付いてなかったら、また
同じことやってたな」
 2人組に絡まれていた。
 矢島のことを言われて、それで、ついカッとなった。
適当に流してしまえばよかったのに、相手をしてしま
ったから、あとでしつこく付きまとわれた。
「夏休みいっぱい、つきまとわれて、苦労した」
 縁を切ろうと、呼び出してケンカ。それで停学にな
った。でもあの日、目が合ってなかったら。
「ばっかみてーにつるんで、繰り返してた、きっと」
「……私が矢島って人と同じだから?」
「たぶん。その代わり、目が合った瞬間思い出した。
忘れたかった、本当は」
						

 矢島が、チームを抜けるように言った。
 暴走族の連中との抗争が少しずつ複雑になって激しく
なってきていた。
 お前を巻き込むと面倒だ。
 あいつはそう言い捨てた。
 絶対に傍にいられると簡単に信じていた、幼さを呪
った。オレが信じていたほど、信頼を得ていなかった。
 結局悪いのはオレだった。
 矢島に切り捨てられたら、チームにはいられない。
 いる価値もないし、意味もない。
 でもチームの奴等にとってはそうでもない。
 準構成員とはいえ、本格的に争うというこの時期、
チームから抜けるなど見ようによっては仲間割れを思
わせる。 
 マイナス要素は少ない方がいいのだ。
 矢島の舎弟とケンカになった。
 大勢でよってたかって。
 落とし前がつけられればいい。
 最後にその「役」くらいは演じてやってもいい。
 だけどやられた。容赦なく。矢島の傍にいた分の、
嫉妬が混ざっていたのだと思う。
《こいつどーする》
《2度と顔向けできないようにしてやる》
 目の前にナイフがちらつく。体に力が入らない。壁
に寄りかかっているのがやっとだった。
 ……殺サレル。
 血の赤い色が目に入った。
 痛みを感じて倒れそうになったそのとき。
 誰かが前かがみに、膝から崩れ落ちるのを見た。
 感じたのは、矢島の痛みだった。
 ……矢島ぁッ!
〈矢島さんっ! なんでっ〉
 血塗れたナイフが、こぼれて地面で音をたてた。
《ばっかやろ。俺のセリフだ。何してやがる》
 ……オレのために。
《違う。仲間殺るよーな馬鹿を舎弟に持ちたくねー》
〈誰か、救急車呼べ、早く!〉
《葵。お前こんなとこいちゃいけねー。もう関わるな、
俺らに》
 ……でも、オレは!
《言うな、分かってる、から。お前も分かってる、だ
ろ?》
〈矢島さん、すいません、すいませんっ〉
《誰の、せいでもない。しゃべらすな、痛ぇから……》
 遠く、救急車の音がかすんで聞こえてきた。少しず
つ音が大きくなる。
 何人かの舎弟が病院についていった。オレも乗るよ
うに言われたが、行かなかった。
 それきり、会っていない。矢島にも、チームの奴等
にも。
 ただ、その時は矢島は生きてるって聞いてたし、そ
う信じていた。
						

 その後のことだ。
 なんとか殴られた傷も、痛みも引いて来た頃。
 いつものように、登校しないで通りの裏で煙草を吸
っていたところに話しかけてきた奴がいた。
 同じ学年で一時期つるんでいたが、矢島に会ってか
らはあまり行動を共にするようなことがなくなってい
た。
 そいつは一通り顔を眺めた。怪我の跡が消えていな
いから、やっぱり目立つか。
「久しぶりだな、問題児」
「てめぇだろ、問題児は。生きていたか」
 そいつは少し怯んだような顔をした。疑問に感じた
が、久々のせいだと思って気にしなかった。
「……変わんねぇな。お前」
「そー簡単に変わってたまるか」
「いや、あの矢島のとこにいるって聞いたから」
 まだ、抜けたことが伝わっていないのかも知れない。
ここは曖昧にしておくか。
「なんて聞いてる?」
「それがさぁ。今朝聞いたばかりだ。……よかったぜ、
全然、噂だけなんだろ?」
「? 何がだ」
「お前が。矢島殺ったって」
「はぁ?」
 なんだそれは。なにがどうしたら、そうなる?
「そんな顔するな。噂だ」
「……詳しく聞かせろ」
						

 1週間ほど前、矢島のチームが仲間割れしたとかし
ないとかいう話を小耳にはさんだ。たいして気にもと
めていなかった。所詮、庶民にはそんな話関わること
はない。
 葵が矢島のチームにいることを思い出したが、それ
でもまだ中坊だし、そんな上層部に絡みそうな話に関
わっているとは思えない。
 巻き込まれていないかそれでも一応噂に注意しては
みたものの、そんな話は出てこなかった。
 矢島が刺されたと聞いたが、命は無事らしい。
 この近辺は矢島とその舎弟が仕切っている。そのあ
たりの族と争っていようが、矢島の後ろには本職がつ
いているという話だ。
 うん、これ以上関わらないのに限る。
 そう考えていた矢先のこと。今朝のことだ。
『矢島が死んだらしい』
 話を聞いたのはパチンコ屋のオヤジ。ここに出入り
する連中はこの街でたいがいあまり素行のよくない奴
ばかりで、オヤジはその手の噂話がめっぽう早い。
『直前にチーム解散を言い渡したらしい。殺ったのは
稲葉葵だ』


「すぐに信じられなくてさぁ、実は探してうろうろし
てた」
 コイツはたぶんいい奴で、素直に心配したのだろう
が、今はそれどころじゃない。
 誰だそんな噂を流したのは。矢島が死んだ? 冗談
だろ?
「……ただの噂だろ。本当なら今頃警察が動いてら」
 なんとか言い繕って、追い払いにかかる。
「そーだな。少年院が待ってるってかぁ? シャレに
なんねぇな、お前なら」
 要らぬ心配を付け加えて、でも少しだけ安心した顔
でそいつは去っていった。オマケに煙草まで持ってい
きやがる。
 それでも、貴重な情報を入れてくれた。
 矢島が死んだ? 否定できない。
 すぐに救急車はきたものの、その後のことはまった
く知らなかった。
 本職がついてるとかなんとか、そんなのも初耳だ。
一度も聞いたことがない。そんな素振りすら見せたこ
とがない。……相手を牽制するにはカッコウのネタだ
というのに。
 問題は、オレが矢島を殺ったことになっていること
だ。仮にそうでも、なんの利益もないのに。
 その話を聞いて喜ぶのは、族のヤツラくらいなもの
だろう……。
 ……ある予想を巡らせて、自分自身で愕然とする。
 まさか。
 確かに、チームは崩れ掛けていた。あのまま、結束
しなおすのはいくら矢島でも時間がかかる。
 もともと矢島の舎弟は少ない。チームは寄せ集めで、
だからこそ、オレは舎弟を無視して矢島の傍にいた。
 予想が当たっているなら、チームの奴等はオレを探
している。噂は今朝から流れているのだ。
 この噂を流したのが、チームの奴等だとしたら。
 矢島が生きていても、傷は癒えていないだろう。族
の連中につけ込まれて、……殺られてしまったなら。
 チームが仲間割れした話を利用してしまえば。
 今までと同じように、状況を変えずにすむんじゃな
いだろうか?
						

 図式はこうだ。
 オレがチームを抜けようとしたとする。
 矢島なら、チームが今後、仲間意識を保つための策
を巡らすはずだ。
 ならば、敢えて仲間割れの話を広めるだろう。
 チームにとっては面子に関わるから、あまり知られ
たくない。不穏分子を増やすことになりかねない。
 抜ける前にオレを潰す話が浮上する。それをきっか
けに、チームをもう一度まとめあげる。
 矢島は殺られそうになったオレすぐに助けに出きた。
たぶん、知っていて、どこかで見ていた。
 自分で舎弟連中の動きを見越していたから。
 そこまでならいい。矢島がそう「仕掛けた」のなら。
 ……だけど。
 弾みで矢島が殺られたとしたら。
 オレの手によって……? 
 いや、その時に命を落とさなくても構わない。その
後の族との争いで死んだとしてもいい。
 直接か間接はともかく、原因はオレだということに
なるのだろう。
 そうすれば仕返しをするために、チームを動かす実
権を誰かが手に入れればいい。
 その誰かは、矢島がいなくなったのを機に浮き足立
って離れようとするヤツラをあぶりだして削る。
 矢島がいなくなれば族の風当たりも減る。
 後は本職とのつながりを保てばいい……。
 矢島の策を、途中から都合よく仕立て直すことで、
誰かがチームを手中に納める。
 そんなことが可能なのか? 
 誰かが、矢島を利用した? 
 あの嘘みたいに頭のいい矢島が誰かに踊らされた?
 まさか!
 ……それでも、誰かが本当に動いたなら、本気で矢
島を殺らなくてはならない。
 そうでなくてはあの寄せ集めのチームを手に入れら
れない。おさまりがきかない、ただの馬鹿の集団だ。
 矢島だからまとめられた。矢島だけでまとまってい
たチームだ。
 矢島が中途半端に生きていては、チームの建て直し
もやりなおしも作り直しも気かない。
 それとも。
 本職がついている……。矢島の後ろに? 
 それが本当なら、なぜそれをオレが知らない。あれ
だけ傍にいたのに。
 矢島はその素振りすら見せていない。
 接触はあったかもしれない。
 だとしても、きっと矢島の本意じゃない。
 ……勧誘? あいつはそれを断ったのか?
 それで本職のヤツラは矢島を切りにかかったのか?
そして舎弟の奴等か、族のヤツラにでもついたのか?
 ……全部、自分の予想だった。
 ただのあて推量でしかない。
 でも、矢島が本当に死ななければ、何も動かない。
矢島が死んでから、コトが動く。
 弾くように走り出した。
 確めなければ……!
						 

 ほかの連中の青描写はどうでもいい。あんなチーム、
矢島がいなければなんの価値もない。
 あいつが死ぬわけがない!
 オレをおいて死ぬはずがない!
《お前も分かってる、だろ?》
 分かってる。だから言ってくれ。
 言葉にしてくれ。
 ……たった一言でいいから。
 いつからだ。もう思い出せない。いつからポーカー
フェイスになった、矢島!
 出会った頃は違った。考えていることが手に取るよ
うに分かった。何も言わない。でも目をみればよかっ
た。あいつの目だけを信じていた。あの瞳だけを。
 嘘をついても、だまされてやった。どんなに不安で
も、信じているだけでよかった。 
 なのに、いつからかその瞳は語ることをやめた。
《……分かるだろ》
 分からない。何も語らない瞳でその言葉を言う。
 言って欲しい、たった一言の言葉があった。それを
求めても得られない、唯一の言葉。
						

 バイクがあれば早い。
 ここから集会所は近い。平日の昼。それでも一台く
らいはあるだろう。族の連中のバイクが。
 ほんの少ししの間、無言で拝借しても構わないだろ
う?
 一見、うまい方法にみえた。実際、うまく拝借でき
たつもりだった。
 矢島が運ばれた病院なんて知らない。でもそれほど
大きな町ではないから、総合病院は限られる。
 舎弟の奴等に見咎められたら、また殴りあうだろう。
この前の傷はまだ癒えてない。
 ……本当は奴等に聞くのがいちばん手っ取り早いし、
事と次第によっては、奴等の目論見を外して狂わして
やることだってできるはずだった。
 なのに。
《もう関わるな、俺らに》
 ……矢島の言葉が、ジャマをする。こんな時にまで。
 当たり前だが、族のヤツのバイクは当然のようにマ
フラーがないいから煩い。おまけに改造がほどこして
あるのか、妙に軽い。
 どのくらい速度が出ているのか。
 一瞬だけそんな考えがよぎったが、わからない。
 暴走もいいところ、周りが後ろへふっとんでいく。
 信号なんて見えやしない。
 耳障りな車のブレーキ音が後ろからわずかに聞こえ
てくる。サツのサイレンも重なった。
 ……どこかにぶつかったらどうなる?
《分かってる、だろ?》
 分からない。分かるわけがない。
 教えろよ、誰か。……矢島!
 見覚えのある角を見たような気がした。
 瞬間、いつものように右折した。
 最後に見えたのは、ガードレール。
 ……事故ったのか…………?
 曲がりきれなかったのか?
 体が痛い。何処、なんて分からない。
 やけに、騒音が身近に聞こえる。耳障りで仕方ない。
 だから、意識を手放した。
 矢島。また傍に行けるだろうか。
 今度は、言ってくれ。
 お前は、オレが求めている言葉をちゃんと知ってた
はずだから。
						

「正面から突っ込んだらしい。見た目より酷くなくて、
入院も1ヶ月ですんだ」
 盗んだバイクで事故ったことが、学校に伝わった。
 矢島のチームは警察からも目を付けられていたから、
教師たちにも素行調査が入っただろう。
 これまで警察の厄介にならなかったほうが、実はお
かしいくらいだったから、別に気にならない。
 一通り、世の未成年がやる悪行っていうものは試し
たことがあるし、ケンカも盗みも常習。素行の悪い自
信だけはある。
「家裁の調査官にはだいぶん世話になった。今、ホゴ
カンサツってヤツ」
 彼の瞳に映る、川面が潤っているように見えた。今
の彼には、過去をあざける余裕がある。そのことに、
安心した。
 これまではどこか緊張して尖っているところしか、
見たことがなかったから。
「たぶん、あの頃まだガキだったから、気付かなかっ
ただけだ。分からないことまで分かろうとしていた。
あいつのこと、分かってるって信じたかった」
 矢島はあまり素顔でいるところを人に見せなかった。
だから、オレに見せていた「素顔」はオレのものだけ
だって信じたかった。それを失うのが怖くて、本当は
いちばん信じ切れなかったのかも知れなかった。
 言葉に出して伝える感情は脆くて危ういものだけど。
「それでも言わないと分かんないだろ。言わない分だ
け不安になる。そのくせ『分かってるだろ』とか言う
んだ」
 分かっているつもりにもなる。分からなければ、傍
にいられない。失うのが怖くて、すがりついた。
 すがりつくことのできる存在が、嬉しかった。
「ガキってのは、すがれればなんでもいーんだ」
 確かな存在を求めて、掴みどころのないものを嫌う。
見えているものだけを追う。
「失うまで、分からないんだ」
 求めるだけで何もしていなかったことに。
 矢島が本職と接触をしなかったのは、たぶん自分が
いたから。もしあそこでチームを抜けていなかったら、
本職とつながりができていたら、保護観察とかではす
んでない。
 舎弟の奴等の動きを見て、チームを抜けろと言った。
その時点で、矢島は奴等の駆け引きに半ば負けていた。
それでも、言ってくれた。
 全部、自分のためだったのに、気付かなかった。分
かろうとしなかった。 
 ずっと川の対岸を見つめていた彼が、私を向き直っ
た。涙でぐしゃぐしゃな顔を見られたくなかったけれ
ど、拭う気にならなかった。
「その人があなたをやめさせようとしたのは、巻き込
みたくなかったからだったんだ。やさしい、人じゃな
い? ねぇ、その人のこと、どうでもいい、なんて言
わないでよ。……どうでもよくなんかないじゃない、
全っ然」
 面倒だ、なんて言ったのは嘘で、きっとお互いに失
いたくなかったんだと思う。その気持ちは互いに分か
っているはずだって、どちらも甘えていた。
「……オレはあいつの役に立ちたかったんだ」
 たぶん、2人はお互いのやさしさを間違えたんだ。
そして傷つけあった。
 その気持ちが苦しい。
 不器用で失って、器用すぎて傷ついて、そんな絆。
 誰も立ち入ることのできないもの。
 なんだか無性に悔しい。
 彼を想ってもその絆には敵わない。なつきさんどこ
ろじゃないじゃないか。
 彼の求めているのは「矢島」で、私は「矢島」にな
れないし、代わりになるつもりもない。
 会って。話をして。
 そうしたら分かってあげられるって、どこかで錯覚
していた。
 今、私をまっすぐに見てくれている。
 ねぇ、私本当にポーカー下手だから。もう、気付い
てるでしょう。すぐに顔に出るんだから。
 突然、彼の表情が今までになく和んだ。
「ったく、同じ目をするんだなぁ?」
「仕方ないでしょうっ」
 彼の中にいる「矢島」なんて、知らない。
 私は私でしかないのに、笑う。
「……何か言いたげな目をするくせに、何も言わない
ところがさ?」
《言わないと分かんないだろ》
 ……彼の気持ちが、分かった……。
「私、あなたのことが好き」
 ……たったこれだけの言葉で、ほかのどんな言葉よ
りも、気持ちを伝えられる。
 そんな一言がいちばん難しい。
 でも、本当の気持ちに嘘はないから。
 気持ちが言葉に姿を変えただけだから。
 だから……何度でも言う。
 そして、だけど、何度も言わなくていい。
 彼は身をもたれてくる。寄りかかることのできる、
その距離。
「ずっと言ってほしかったんだ、そうやって」
 その言葉は、私を待っていたわけじゃない。それが
分かっていても。
 でも、好きだから。それは本当だから。
 ちょっとだけ白状すれば、彼が「矢島」失った分、
私にその「役」が回ってきたのだと思う。
 それは少しだけ嬉しいって思った。……ヒドイ女
かも知れない。
 ただ彼は、言葉を押し殺したように泣いていた。
 何も聞きたくない。ただ静かにこぼれる、涙の音の
ほかに。
 川のせせらぎがジャマだと思った。
 彼の瞳は、今、涙色をしている。
 とてもキレイな色だと思った。
 ……何も変わらず、時も止まらず、川が流れていく。
						

 初秋の風は心地いいものなのだと思う。
 何も話さず、2人で対岸を眺めていた。
 小学生くらいの子供が、河原をかけて行く。歓声が
高架下に響いた。
 それを掻き消すように、バイクの音が聞こえてきた。
 突然彼は立ち上がって、無言で走り出した。柱の元
には、彼のバイクがある。
 彼の後ろを追う。昨日みたいに目の前で置いていか
れたくはない。
 追いついたとき、彼のバイクにはなつきさんが肘を
ついてもたれかかっていた。どこかで見た何台かのバ
イクが、なつきさんを守るみたいに囲んでいる。
 女の子暴走族……この辺りで時折見かける、レディ
ースの面々。昨日、彼を迎えにきたのも彼女たちだと
分かった。
 一足早くついた彼と、険悪なムードで向かい合って
いる。
 振り向いた彼が、来るな、と視線を投げる。
 ……ちゃんとアイコンタクトとれている私。
 ちょっとだけ嬉しいけど、たぶんそれどころじゃな
いかも。
「葵、ここに連れてくるなんてどういうつもりだよ」
「……予想ついてたろ?」
 ぐ、となつきさんは言葉に詰まった。
 そうか、彼女の予想のつく場所に、わざと来たんだ。
「馬鹿ッ! なんで繰り返すわけ? また傷ついても、
知らないよ」
「なつき、勘違いするなよ。お前も矢島の下にいたん
だ。この街でも、矢島の名は知られている。あまり、
目立つな」
「……ずるいよ、葵」
「ずるくてもいい。忠告だ」
「それはいいんだ! 隠しごとだけはやめて。私に心
配もさせてくれないの? 放っておけるはずないのに」
「なつき……」
「忘れないでよ、ちゃんとみんな仲間だから」
 なつきさんは彼にすがりついた。
「どうして、私らじゃダメなんだよ? どうして?」
 なつきさんの気持ちが、痛いほど分かる。
 彼を心配する人はたくさんいる。なのに、その気持
ちを伝えきれない。
 ……彼が、気付かないふりをするから。
 ただ自分だけのカナシサだって、抱え込んで、気持
ちをわけてくれない。
 彼女は私よりももっと前から、ずっと彼を想ってい
るから、たぶんはがゆいんだろう。
 存在が近すぎて、ときどき、距離を間違える。
 でも心配するやさしさに、言葉はいらない。
「私のせいかな? 矢島のことも、あんたが落ち込ん
でるのも。私があいつらを片付けていたら、間に合っ
てたら、矢島は怪我してなかった。……ねぇ葵、これ
以上関係ない子、巻き込まないでよ」
 彼はなつきさんの髪をなでた。子供をあやすように。
そのしぐさが自然で、いつも傍にいるんだって思った。
「葵さん。なつきさんの気持ち、察してやって下さい」
「あなたが哀しむから、なつきさんも傷つくんです。
誰のせいでもないでしょう?」
 レディースの女の子たちが、なつきさんを助ける。
 仲間なんだなって、分かった。
 私にはたぶん、分からないところでつながっている
人たち。
「矢島のことはオレのせいだ。なつきは利用されただ
けだ。……オレのために傷付く必要ないんだ」
 すがりつく彼女の茶色い髪を、指に絡めて言った。
 全部を知っているわけではない。でも、誰のせいで
もない出来事なんてたくさんあるんだ。
 哀しい出来事が人を傷つけるなら、何も分からない
ままでもいいのに。
 それでも、何も知らなくても、人は誰かを好きにな
るから。
 話してくれたことを信じればいい。
 本当も嘘も、見抜けなくても。互いを想う気持ちが
伝わればいいんだ。
 なつきさんの涙が、私の目からもこぼれて落ちた。
 涙に嘘はないから。
 これは彼女のやさしさの分、私も一緒に泣くんだ。
 哀しい出来事があっても、過去という鎖を心に絡め
て、みんな迷っても未来を探す。
 戻ることはできないから。でも、捨てる必要もない
はずだった。
 ……時の流れはときどき気まぐれで残酷だ。
						

「なつき。オレはお前らのトコには戻らない」
 彼は一片の曇りもない瞳で、静かに告げた。
「誰かを選ぶつもりもない。……誰のせいでもないん
だ。矢島は責めるために消えたんじゃない」
 なつきさんは涙に濡れた頬を、光らせていた。それ
がとてもキレイに見えた。
 そう言われるのを分かっていたんだ。
 それでも言わずにいられなかったんだ。
「オレはあいつの言葉を失わない」
《……もう関わるな、俺らに》
「矢島はオレに堕ちるなよ、って言ったんだ。たぶん
あいつは本当に関わらせたくない事をしなくちゃなら
なくなっていたんだろう。だから、お前らとはもう会
わないほうがいいって、思うんだ」
 お互いのために。傷つけ合うだけの関係なら、いっ
そ会わないほうがいい。
「葵……。やっぱりあんた、矢島と同じだ。カンジン
なこと言わないで、飛び越して、置いていく。だから
矢島の傍にいられたんだ。こっちはついていくだけで、
キツかったのに」
「……同じ、じゃない。なつきは、自分のせいにした
いのな? でもそれは気休めにしかならないって、分
かってるだろ?」
 族のヤツラとなつきが付き合いがあるのは、誰でも
知っていた。矢島の舎弟ともソリが合わないことも。
利用されたのはそのせいじゃないから、誰も責めない。
 責められないから、逆に居心地が悪い。
 だから自分のせいだと、思いたくなる。
「なぁ、なつきは美人だから、泣いてもキレイだ」
 その言葉を聞いて、なつきさんは怒ったみたいに顔
をしかめた。
「馬鹿っ!」
 なつきさんはもう一度彼にしがみついた。
 大声で泣いた。
 たぶん、彼女が泣けるように、そう言ったんだ。
 相変わらずオンナゴコロをコントロールするのが、
上手い。初めて会ったときにもそうだった。
 もしかして天性のオンナタラシかもしれない。
 一緒には泣けない。見てきたものが違うから。
 同じだなんてマヤカシだから、泣くのを助けてあげ
るだけでいいんだ。
 ガマンするなよ、って言う代わりに。
 ただ泣く場所を作ってあげる。
 それはとてもステキな関係だと思った。
						

 レディースの1人に肩をたたかれた。2人にしてあ
げてってことだとわかった。
 無粋なバイクの音を響かせないように、レディース
の面々はバイクを押して歩き出したから、それにつら
れて行く。
 しばらく歩くと、小さな公園があった。河原の広場
を区切ってできている。
 レディースは3人。1人が押していたバイクを止め
て、公園に入った。初秋の川風に揺れるブランコに座
った。
「……あたしらも、あんまり詳しいこと知らないんだ。
あの頃のこと。なつきさんに絶対関わるな、って厳命
されてたから」
 それはなつきさんが、彼女たちを守るために言った
言葉。
 じゃぁ、なつきさんは「矢島」ていう人と同じこと
を、彼女たちにしてたってことだ。
「だからあたしら、なつきさんとは一緒に泣けない。
けっこー悔しいじゃん? のけものみたいで」
 でも、と彼女は続けた。
 久々になつきさんのすっきりした顔見れた、って。
「たぶん、あんたのおかげ。だから、送っていく。東
高だろ?」
 言われて、ここがどこなのかも知らないことに気付
いた。なにか緊張感が全部体から抜けてしまったみた
いで、急にお腹がすいてきた。
 もう、放課後。お昼ご飯、全然食べてない。
 ぐるると鳴ったお腹に笑われた。
 4人の笑い声が、空高く初秋の風にのった。
						

 次の日も学校を休んだ。
 結局レディースの3人とはプラタナスの並木道ま
で送ってもらい、そこで別れた。
 いろいろなことがあって、考えがまとまらない。
 彼に会えた。
 彼のことちょっとだけ知った。
 気持ちを伝えた。
 ……不思議と答を求める気にならなかった。それだ
けで今は充分。
 また、話ができる。きっと今はそれだけでいい。
 私が彼にしてあげられることはほとんどないから。
 何かをしてあげたい。でも何を?
《オレはあいつの言葉を失わない》
 そう言い切った彼にしてあげられること。それを探
そう。私にできることと、なつきさんにできることは、
違うはずだから。
 時計は放課後の頃合。玄関の呼び鈴が鳴った。イン
ターホンのカメラ画像には見慣れた顔。
 慌てて玄関を開けると千夏が立っていた。
 まずい、ちょっと怒っている。
「……元気そうじゃん?」
「えぇと、オヒサシブリです……」
 千夏は置きっぱなしにしていたバックをつき出した。
持ってきてくれたんだ。違うクラスだというのに。
 さすがに、感覚が現実に戻った。
 明日のReader、出席順で当たるはず。
「……さすが、親友。助かった……」
 千夏は勝手知ったる友人の家、とばかりに靴を脱い
でどかどかと私の部屋に向かった。
 お互いに口数少なになる。
 ベットに制服姿のまま倒れこむように寝転んだ千夏
は怒ったように言う。
「杏子さぁ、病人は病人らしく寝てないとだめじゃん」
 休みの連絡は母親がしている。私は今、病人だった
らしい。
「まぁ、仮病だし」
 クラスが違うから、私が彼を追いかけてそのまま戻
っていないことをどう聞いているのか想像つかない。
 お互いに、探りを入れる。
 仕掛けたのは、千夏。
「あの人、今日来てた。見かけたけど、髪黒かった」
 彼は学校に来たんだ。
 キレイな金色の髪を染め直して。
「で? 何があったわけ? 言わなくちゃわかんない
から。ちゃんと聞いてあげる」
 心配、かけたんだってわかった。そう、言葉にしな
くちゃ、伝わらない。
「……ごめん」
 千夏は起き上がって、まっすぐに見据えて言った。
「話してくれれば、それでいい。……ついでに、購買
でジュース1本で手を打つ」
 彼となつきさんの互いの関係が羨ましいと思った。
でも、千夏と私も、負けてないなって思った。
「千夏、カッコいい」
 当然、とばかりに彼女は笑顔を見せた。
						

 コーヒーカップを手でくるんで、いろいろ話した。
 転入前の彼にあったこと。
 それからずっと気になっていたこと。
 だから彼を追いかけたけど、追いついたのに置いて
いかれたこと。
 なんとなく休みたくなったこと。
 朝の街を歩いて、茶髪美人のなつきさんに会ったこ
と、そして彼に会えたこと。
 彼のバイクで2人乗りしたこと。
 彼と話をしたこと。
 噂を信じるなよって言われたこと。
 彼が大切な人を失って、その人と私が似てるところ
があるって言われたこと。
「……なかなか怒涛な数日。うーん、茶髪美人か。お
目にかかりたい」
「そこ? これだけ話して?」
 だって、と千夏は反論した。
「私に関われそうにないもん。杏子が関わるなら、い
つか私も関わることにはなるかも知れないけど」
 今は話を聞くだけでいい、と言った。千夏はムリを
しない。その考え方は、とてもシンプルだった。
「ねぇ、どんなカンジだった? あの人」
「どんなって言われても、クラス違うしなぁ。授業は
聞いてたらしいけど。あー、そういえばバスケ上手い
ね、カッコよかった」
 体育は千夏のクラスと同じ時間割だ。
 へぇ、とちょっと感心した。そういえば彼を体育の
時間に見たことがない。
「ムカシやってたのかもね。このままマジメになれば、
バスケ部から勧誘きたりして」
「えぇ、意外ー。そんなチームプレイできなさそうな
のに」
「バスケ部の裕美とか香織とかと張り合えると思う」
 裕美も香織と比べても張り合えるということは相当
なんだろう。
 と、そこまで考えて、急に違和感。ちょっと待って。
何かがおかしい気がする。
「千夏。裕美と香織と、張り合えるって……」
「うん。2人とも来年はレギュラーって言われている
から、あの人が入部したらあせるだろうな。少なくと
も身長は確実に負けてるから」
 待って。そこが引っかかった。近頃日本語がわから
ないこと多いかも。
 私の違和感に千夏は気付かない。
「あの外見で、身長で、ホント女にしておくのもった
いないよ。最初ずっとわかんなかったもん」
 分かったときは驚いた、でも美形には変わりないか
ら、と千夏は続ける。
「杏子はいつ気付いたの? 瑞希が男だと思ってくど
いてたって話ホントかなー?」
 落ち着けジブン、と言い聞かせる。
 よーく繰り返して考える。
〈女にしておくのもったいない〉
〈男だと思って〉
 ……。
 …………。
 言えない。いくら千夏にも言えない。
 気付いたのが今、だなんて、絶対に言えないっ!
 半年前の記憶を急いで脳から引っ張り出す。
 私、しばらく盲腸で入院してなかった?
 まさかそんな理由で気付かなかった?
 まさか!
 くどいたどころじゃない。
 はっきり好きって言った。ちゃんと告白した。それ
って今、有効じゃない!?
						

 人間って、ショックを受けると本当にガーンって頭
が鳴るんだって知った。
 千夏が帰ってからやっと少し思考を巡らす。
 あの人、「稲葉 葵」が転入してきてから、学校で
見たのは数えるほど。それでも転入当初は出席してい
たはずなのに。
 あの人は「矢島」っていう人が好きだったんだ。
 そういうことなんだ。
 きっと「男」としてふるまって、好きな人を助けよ
うって思って。
 なのに最後に「矢島」って人は「稲葉 葵」を守ろ
うとしてフッたってこと?
 それは分かりやすくて。
 ため息が出た。
 おかしくなって、笑った。
 自分に呆れて、笑った。
 あまりにおもしろおかしすぎるから、涙が出てきた。
 分かってあげたくて、知りたくて。
 そのために会いたくて。
 会ったのに、分からないことだらけだったのに。
 ……だけどやっと今、分かった。
「恋するオンナ」って、それだけで分かり合えちゃう
ものだから。
						

 2日ぶりの校舎がどこか新鮮に感じる。何も変った
ところはないから、変わったように見えるなら、私が
変わっただけなんだろう。
 教室に入ると、クラスメイトたちが好奇の目を向け
た。でも、触れないようにしてくれているのが分かる
から、とても変な空気となる。
 予鈴と同時に戸が開く。
 窓側のいちばん後ろの席、「稲葉 葵」が座る。
 意外と平静、なつもりの自分。本当は違う意味でど
ぎまぎ。……私の想いはどこに行くのだろうなんて、
考えてみる。
 時間は残酷だから、あの告白の前には戻らない。
 空中分解、消化不良。
 ぐずぐずとしたまま、いつものように授業を受けて、
いつものように時間が過ぎていく。
 当たり前すぎて、拍子が抜けた。
 でも、そんなものなんだろう。
 体育の時間、なぜか「稲葉 葵」はいなかった。
 内心、楽しみにしていたから少しだけがっかりだ。
「またそのままいなくなっちゃうんじゃない?」
「マジメになったわけでもなかったのかなぁ」
 そんなふうに言い合うクラスメイトたちに心で反論
する。
 絶対、違うから! たぶん……。
 確信がないのは、前と変わらない。
 だけど、迷いなく味方になれる。
 ……うん。私、たぶん平気だ。
 Grammarの時間、「稲葉 葵」は教室に戻っ
てきていた。
 期待を裏切られなかったのは、初めてだと思う。
 それに、何をしていたのか、分かった。
 体育から戻って、ペンケースをあけたときに気付い
た、小さなメモ。
 それは千夏の文字ではなく、初めて見る字だった。
 教科書の影から、ちょっとだけ後ろに視線を向ける。
窓際のいちばん後ろの席。
 目が、合う。私はわかった、と軽くうなずいて見せ
た。それで通じ合えるのが、嬉しかった。
 放課後、千夏がCDショップに誘ってきたけれど、
大事な約束があると言って断った。千夏は意味ありげ
な笑顔で言った。
「後でまた、聞かせてよ? 授業中にアイコンタクト
とってたってのは、もう噂になってるんだから」
 さすが地獄耳。
「購買のジュースはまた今度」
 まっすぐは帰らない。大事な約束があるから。
 プラタナスの街路樹、並木道。
 この道で初めて出会った。
 なつきさんに肩をたたかれたのもこの道だった。
 初秋の風に葉が揺れ合う。
 後ろからバイクの音が聞こえてくる。その音はちょ
うど私の横で止まった。
「乗れよ」
 メットを投げ渡された。
 今日は制服で登校しなくてよかった。スカートでバ
イクにまたがるのはさすがにキツイ。
 私を乗せたバイクは、2日前と同じ道を走る。
 しがみつきながら、スタイルのいいウエストの細さ
に妙に納得した。
						

『この前の河原で聞いてほしいことがある。
 プラタナスの並木にバイクまわす』

 ペンケースに入っていたメモには、そう書かれてい
た。だから今度は、行き先をちゃんと知っている。
 静かにバイクは人気のない高速道路下の河原に止ま
った。
 河原に降りながら、稲葉葵はつぶやいた。
「川風が気持ちいいな……」
 誰に言うわけでもなく。
 私はと言えば、なんて声をかけようか迷っていた。
 好きだと思った。それは今も変わらない。
 でも、種類は違う。
 ……やっぱり変に思われているかも知れないから。
「さんきゅ、な?」
 唐突に振り返って言う。やわらかい笑顔で。
「いろんなこと、なんだか嬉しかったんだ。だから」
 さんきゅ。きっとそれだけ言いたかったんだって、
分かった。それだけのために、時間を作って、会う。
 それはとてもステキなことだ。
「うまく言えないけど。お前のおかげだと思う。なつ
きも落ち着いただろうから」
「なつきさんは、どうしてるの?」
「あれでけっこー年上なんだ。どっかでバイトでもし
てるだろ。……たぶん、大丈夫」
 年上だったんだ。そういえば初めて会ったとき、な
つきさんは煙草吸っていたけど、合法だったのかもし
れない。
 そんなことぼんやり考えながら、隣に座った。
 北国の秋は急ぎ足だから、雑草はもう少しずつ色を
変えてきて、かさこそとくすぐったい。
「お前、オレのこと男だと思ってるだろ」
 ……直球。本人に言われるとさすがにショック。
「思ってた、が正しいかな……」
 やっぱりな、と盛大に吹き出して笑われる。そこま
で笑われると、必要以上に恥ずかしくなる。
「だだだだだってッ! 私知らなかったもん!」
「それにしちゃぁ、本気だったろーっ」
 男だと思われることは慣れているし、そのつもりで
いるときもあるけど、さすがに告白されたことはない、
と爆笑される。
 ……いっそ女でも好き、というならそれでもいいの
かも知れないけれど、あいにくそうでもない。
 どんどんエスカレートする笑い声。笑い上戸だった
らしい。
 むくれて、そっぽむいた。
 そして分かっていた。思い切り笑われたほうが、傷
付かない。
 少しずつおさまってきた笑いに、息を切らしながら、
それでもまだ完全におさまらないといった調子で、
「確かにさ、矢島のために男になりたかったんだけど、
さぁっ……」
 なおも笑い続ける。
 でもそんな笑いとは違う笑顔で、そっとつぶやいた。
「……人って、ときどき、あったかいんだよな」
 人は冷たい。でもときどき、こうして一緒に笑える
から、あったかい。
 勝手に思い込んで、伝えなくて、そして互いに傷付
くこともあるけれど。
 知ってしまうのが怖くて哀しいけれど。
 忘れることのできない人がいる。
「矢島のこと、忘れようとしてた。そうしないと生き
ていけないような気がしてた」
 でも、矢島と同じ表情で同じ瞳に気付いた。
「あいつがくれた言葉、ほんとうはたくさんあったん
だと思う。……それが特別なことでなくても」
 たった一言、何より大切にしたい言葉。それを求め
ていた。
《お前も分かってる、だろ?》
 全然、分からない。今でも。
「あいつが言いたい言葉なんて分かるわけないんだよ
な。そういう奴だから。……だから、これから探す」
 やっと気付いた。
 たくさんくれた言葉に、大切な気持ちがたくさんあ
ったはずだった。あの頃、それに気付くことができな
かった。
 伝えなくては、気持ちは分からない。
 でも、伝えるのは言葉とは限らない。
 それでも言葉にしてほしい。
 大事なこと、たった一言でいい。
 それを言わないまま、どこかに消えたあいつ。
「もう、勝手に思い込むしかないんだよな」
 その切ない気持ちがたまらなくて、私はぎゅうって
抱き寄せた。
 女の子だと思うと、迷い猫を見ているみたいでかわい
いって感じるから不思議だ。
 腕の中で、ハスキーな声がつぶやいた。
「……女もいいもんだな」
 その言葉の意味は深く考えなかった。
 わからなくても、いいじゃない?
「どのみち、そろそろ、男のカッコもやめどきかな」
 それを聞いて、私は「彼女」にしてあげられることが
わかった。うん、妙案。
「ね、スカート持ってる? はいてみたら?」
「す、すかーと!? オレがーっ?」
「言葉遣いを先に直したほうがいいな。オレじゃなくっ
て、わ・た・し!」
「ちょっと待てよっ」
「女もいいもんなんでしょー? 男のカッコ、やめどき
なんだよねー?」
「うっ……。……わ、たし…………」
「聞こえなーい!」
「わたしっ!」
「おぉ! 男らしい!!」
 なんだか矛盾しているけど。
「さ、スカート買いに行こうかっ」
 どんなスカートが似合うか、彼女のすっきりとした立
ち姿とウエストの細さに、あれもいいこれもいい、と想
像を巡らす。
 ついつい不敵な笑みをもらしてしまい、不吉な予感を
感じ取ったのか、嫌がる「彼女」の腕を引いて、街へと
歩き出した。
 高速道路下。
 初秋の川風が吹く河原に、彼女のバイクを残して。

 川が、何も変わらずに流れていく。


 彼女と、親友になろう。
 そして彼女を分かってあげよう。
 そして私を分かってもらおう。

 女の友情って、悪くない。


 今度は、私と千夏と、そして「葵」の3人で。



 

 ……あのプラタナスの並木道を、歩こう。





                      -END-