金色の風
TOPルネサンスの風

 いちばん大事な、あいつ。
 あいつのためなら、なんでもよかった。
 あいつの役に、立ちたかった。

 いちばん失いたくない。
 離れられない。
 今も。

 傍にいるだけでよかった。
 求めることもなかった。
 ただ信じていた。
 あの瞳を。

 見ているだけでいい。
 何も語ってくれなかったけど。
 あの瞳の色はすべてを信じさせた。

 黙っていれば消えそうで。
 つかみどころのない人ごみ。
 ……すがりつくことのできる、あいつ。


 それは、すべて過去の出来事。

 思い出にはしない。
 離れられない、言葉がある。

 あいつはもう何処にもいないけど。
 あいつの言葉は今も。
 オレのすべてを縛る。

 迷うことも戻ることも許されない時間の流れ。
 幾度も繰り返される過ち。

 これから歩みだすすべて。
 束縛される理由。

 あいつが刻んだ、時の流れ。


 ……「オレ」は忘れることを、やめた。
						

 「私」は、大きく背伸びをした。
「……もう疲れた。メンドウくさいっ!」
 英語のテキストを投げ出す。
 ぽかぽかあたたかい、春の陽射しが教室を包んでい
る。……ここは東高の2年教室棟。
「いきなり叫ばないでよ、せっかく覚えた英単語が吹
き飛んじゃう」
 伊藤千夏が、非難めいた声をあげた。
「ほらぁ。注目集めてるじゃないよー」
 千夏の言うとおり、クラスメイトたちは何事か、と
こちらを窺うように見ている。
 おもしろくない。
 理由は確かに私が大声をあげたから、だと思う。
 だけどほかにも理由があって、それが実におもしろ
くない。
「気にしないのがいちばんだって。葵、こっちの構文
訳せた? なんかうまくいかないんだけど」
「あー……っと。待って、確かこっちに似たのが……」
 投げ出したテキストを再びめくって、川名杏子の質
問に答える。……彼女のこういう気遣いのタイミング
って、うまいと思う。
「うーん、さすが稲葉葵っ。元不良少女はだてじゃな
いっ。今じゃ学年上位キープ、カンニングはしてない
証拠っ」
「うんうん、半年でよくまぁこんなに成績あげたもん
だよー」
 2人は褒めてくれているらしいが、ヒドイことも言
っている。まぁ、毒はないから、意味ありげな視線を
無意味に投げてくるクラスメイトたちよりは、ずっと
いい。
 2人には感謝している。
 フツウに学校生活ってのも、悪くない、って思える
から。
 ときどき、2人ともよく「稲葉 葵」と話せるね、
といった種類のことを聞かれているらしい。
 そんなとき2人がなんて答えているのか、知らない。
 だけど、なぜそんなことを聞かれるのかはよく分か
る。
 それは私にとっては実にくだらなくておもしろくな
い理由だった。
 隣町ですごした中学時代は「少し目立つ生徒」だっ
た。……別に運動能力とか部活とか、学力面のことで
はなく。
 髪を金色にするのが、気に入っていた。
 学生服は、珍しくなっていた規定外で、センパイか
ら譲ってもらったもの。
 登校なんてめったにしてなくて、遊んでた。
 煙草と酒が見つかったり、補導員とは顔馴染み。
 教師たちとはよく口ケンカした。
 我ながら、たぶんあんなにガッコウにいなかったの
に、校内でいちばん有名人だったはず。
 それでも試験中は律儀に顔を出してあげた。担任が
泣くし。……そこそこ点数はとっていたから、かなり
担任はかばってくれていたんだろうって、今さらなが
ら思う。
 得体のよくわからない連中と付き合って暴走族との
いざこざに関わって、最後に警察と家裁の世話になっ
た。
 ロクな日々でもなかったけど。
 海辺の町から、この街の東高に転入してきたのは、
1年の5月のこと。
 もう、なにもかもどうでもよくなっていた。
 いちばん大事な人を失ってしまったから。
 抜け殻みたいに日々を送っていた。
 いろいろなことを忘れようとしていた。あいつを失
ったことを認めたくなかった。そしてあいつと過ごし
たすべての過去を忘れようとしていた。
 「無」というものにしてしまえば、振りきれるかも
しれないと、漠然と思った。
 それは認めることではなく、受け入れることでもな
い。
 「忘却」という名の「無」が、こんなにも難しいの
に、簡単に思えた。
 忘れたかった、なのに。
 それができなかった。
 たった1人の、あいつに似た瞳を持つ女のために。
 私は問題を解く手を休めて、顔をあげた。
「どうかした?」
 杏子がそう、尋ねてくる。それは、ここが居場所な
のだと知らしめる。
「……ちょうど、1年くらい、だなって思った」
 千夏が首をかしげた。
「オレがこの学校に来てから、1年くらい」
 北国の春、5月のころ。転入の手続きに来たとき、
プラタナスの並木道で道を尋ねたのが杏子だった。
「そっか。それしか経ってないんだ」
 杏子は微笑んで言った。
 あいつと同じ瞳が柔らかい。
 オレを見て、オレの話を聞いて、杏子の瞳は哀しい
色になった。何も言わない、そのくせ、瞳ですべてを
語るような、まっすぐなのに複雑な瞳。
 杏子を見るだけで、あいつを思い出した。……忘れ
ようとしていたことを全部。
 それは、あいつが哀しんでいるのか、と思えた。
 だから、杏子と会ったことでいちばんつらいことを
思い出したけれど、大事なことを忘れようとしていた
ことに気付いた。
 失ったら、いちばんでなくなるわけじゃない。
 あいつがオレに何を望んでいたのか、考えることを
やめていた。それではきっと、意味がない。
 杏子がオレのために泣いた。
 ほかにも、オレのために泣いてくれた奴はいたけど。
 たぶん、それじゃ気付かなかった。
 何も知らない杏子が、ただ泣いてくれたから、忘れ
てはならないことで、忘れることが哀しいことで、忘
れようとしていることを忘れようと、無理をしていた
ことを知った。
 今でもうまく言えないけれど、たぶん言葉にする必
要は、今はまだない。
 それから半年経っている。
 オレは金色の髪をやめた。
 男の格好してしぐさで言葉で、というのも、だんだ
んと「女の子」になってきた。
 フツウに学校来てベンキョウして、杏子と千夏と一
緒に騒いだり遊んだり「友達」して、今を過ごしてい
る。
 クラスメイトも周りも、始めの頃はおかしな緊張感
があったし、今でも何年も前から残る噂を気に掛けて
多少ぎこちないこ関係しか築けていないけれど。
 それでも、少しずつ変わってきているように思う。
いつか、このまま、本当に「過去」になるのかも知れ
なかった。
 だけど。
 いまだにわからないこともある。

《葵。お前こんなとこいちゃいけねー。もう関わるな、
俺らに》 
 ……でも、オレは!
《言うな、分かってる、から。お前も分かってる、だ
ろ?》


《お前も分かってる、だろ?》


 ……分かっていなかった。
 今も、分からない。
 これからも、分からないかも知れない。
 でも、これから探そうと思った。
 あいつの言いたかった言葉。
 分からないなら分からないままでもいいのかも知れ
ない。
 本当はなにげない言葉に、大切なものがたくさんつ
まっていたのかも知れない。
 矢島。
 あいつの名前。
 もう二度と、会えない奴の名前。
 会いたいと願っても。
 それはもう叶わない。
 それでももし、そんなことは起こり得ないけれど、
会うことのできるなら。
 いちばんはじめに、思いっきり殴ってやる。
 何処に行っていたんだ、って。
 ……それとも、何も言えないのだろうか。
 そのあと? 決まっている。
 オレは何も分かっていなかった。矢島を分かったつ
もりになって、何も分かろうとしなかった。
 それは矢島が知らないままにしてくれていたのかも
知れないし、でも、それすら分からない。
 だから教えてほしい。
 お前がオレを理解し切れなかったように。
 オレもお前の「本当」を知らなかったから。
 知りたいことがたくさんあるんだ。
 お前は「分かれよ」って言うんだろう。
 でも、今度は素直にうなずいてなんてやらない。
 教えてほしい、そうあいつにくってかかるって。
 そう、決めている。
						

 ……矢島は口元だけで少し笑って言うんだ。

《いいんだ。
 分かっているから。
 お前も、分かるときが来る。
 そのときはもう、そんな顔はできなくなる。
 もっとお前は女みてーに微笑むことになる。
 ……やっぱりちょっとは、お前も女なんだから》

 いつもいつも、ちゃんと答えてくれない。
 そんなところはいつもの矢島のままで。
 本気でくってかかるときほど、女扱いする。
 ……だったら、はじめから女扱いしてほしかった。
 お前の女になれなかったから、オレは男になりた
かったんだ。そうすれば、お前の力になれるだろう。
 ……もう一度会いたい人がいる。
 もっと分かりたいから。
 もっと力になってあげたったから。
						

 夢うつつの世界から、私は戻りかけている。
 頭をあげるのが、体を起こすのが億劫で、まだ眠気
にしがみついている。
 久しぶりに見た、矢島の夢。
 ちっとも変わらない……。
 少しずつ、眠りに落ちる前のことをぼんやりと思い
出していく。
 HRが終わって掃除も終わって、机が並べ直されて、
6時間目から眠かったからいちばん前の机でうとうと
していたのだと思う。
 まずい、部活に行かないと。
 それでもあともう少しこのうとうとした心地を味わ
いたくて、あと数分は自分の腕を枕代わりにしようと
決めたとき。
 バイクの音が聞こえてきた。
 マフラーのないエンジン音で、どこかで聞いたかも
しれない。
 起きる気にはなれない。
 音は校舎前で止まったように思えたけれど。
 ……少なくとも、私じゃない。
 半年前ならともかく、今はきっぱり、関わるような
生活してない。
 教室が少しざわめいたのが分かる。こういうとき、
イヤな視線を感じるのは、以前と何も変わらない。
 念のため、腕時計で時間を確認すると、3時半。部
活まで、なんとかもう少しゆっくりできる。
 机に伏したままぼんやりごろごろ。
 と、ぱたぱたと足音が聞こえて、教室の戸ががらり
と開いた。クラスメイトの足音だったらしい。
 音が近くで止まった。
「葵ーっ! 寝てる場合じゃないからっ」
「ちょっと、早く起きて!」
 私は両腕のスキマから顔を覗かせて、声の主を確認
する。杏子と千夏だ。
「もうちょっと寝かせてよ。部活まで」
「んなこと言ってないで、早く外出て、外っ」
「今のバイク? 呼び出しくらう理由ねぇし放っとけ
よ……」
「寝ぼけてる……」
 寝ぼけてるわけでもないけど、面倒だからそういう
ことでもいいや。2人とも呆れているみたいだけど、
本当に心当たり、全っ然、ない。
 杏子が言い含むような口調で言った。
「葵。なつきさんが来てる。レディース連れて」
「……! んとかよっ」
 驚いて、体を起こした。たぶん、顔にジャージの跡
がついていると思うけど、この際どうでもいい。
 なつきは矢島の舎弟の1人だった。……厳密には、
「花」を添えていた女だ。「オレ」ともかなり仲はよ
かった。
 それでも、半年前から会っていない。
 もう会わないほうがいい、って2人で決めた。
 なのに。
 わざわざバイクで顔を見せに来るとは、よほどのオ
オゴトがあったのか。
 ……学校では携帯使用が禁止だから、持ち歩く意味
ないし、それで自宅の部屋に置いたまま。
 そういえば何日もろくろく見ていない。
 もしかしたら連絡が入っていたのかもしれない。
「とにかく、先生たちに気付かれないうちに用を済ま
せてもらったら??」
 千夏はかなり冷静。なつきと面識がある杏子は、お
どおどと窓の外と私を見比べて不安そうな顔をするば
かりだ。
 それでも、千夏に頼むわけにいかない。
「杏子。悪いが、いつもの場所に5時、って伝えて。
……『オレ』が行くのはたぶんまずい」
「あ……うん」
 いつもは以前みたいに「オレ」なんて言葉を使うと
反応して文句を言う杏子だが、今回は何も言わずにそ
のまま教室を出て言った。
 別に言葉遣いが戻ったのは、とっさに意識しないで
出てくる言葉はやっぱりまだ男言葉なだけで、意味は
ない。……たぶん、なつきのせいじゃない。
 さすがに緊張する。久々の、この感覚。
 半年以上前に関わったことか? それが今になって
表面化? それもなつきが関わっていることで?
 半年前、なつきもレディースを実質解散している。
なのに、以前のメンバーを集めるくらいのことが起き
ているのか?
 ……そうだとすれば、あの2人は絶対に関わらせな
い。
 いつもの場所。なつきにはすぐ分かる。
 女の子暴走族「夏鬼」の集会所。
 正確には、「元」。
 たぶん、今はほかのチームが使っている。
 でもこんな夕方から、誰もいないだろうし、誰かが
いたとしても、なつきに礼をとる程度のヤツラだ。
 駅裏の河原、高速道路の高架下。ちょうど街灯もあ
たる上に、移動もしやすい、あの場所。
 なつきたちのバイクの音がもう一度ふかされて遠ざ
かっていくのを聞いた。
 それを確認してから、体育館へ走る。今日は部活に
出られない。……言い訳をなんとか言い繕わなくては
ならないし、下宿先にバイクを取りに戻らなくては。
 廊下を走り、なつきに伝言して戻ってきてくれたら
しい杏子と千夏とすれ違ったが、何も言うことができ
なかった。
						

 春先、まだこの時間の河原は少し涼しい。
 夕日が山に落ち込もうとしている。河原は夕日に輝
いて、きれいだ。遠くで車のクラクションが響いてい
る。
 いつもの場所に、オレはバイクを走らせた。
 いろいろ考えたが、理由はやっぱり分からない。
 目的地が視界に入る。
 レディースのひとりが気付いた。合図している。
なつきの姿が見えないのは、河原に下りているのだろ
う。
 静かに、バイクを寄せた。
「葵さん、ご無沙汰しています。……半年ぶりですか。
少し変わりましたね?」
「……そうだな。なつきは?」
 指差す方向を見下ろすと、なつきは河原に座りこん
だまま、動かない。
 相変わらずきれいな長い茶色い髪が、川風に吹かれ
ている。
「あたしら集めた理由も話してくれなくて……」
 困ったように首を振って、お願いします、なんて表
情をされてしまったが、こっちも困る。
 普段のなつきは分かりやすい性格をしている。チー
ムの連中の面倒をしっかりみるし、あんな風に、誰か
の前で落ち込んだ態度を取らない。
 ついてくる連中を困らせるようでは失格だ、と言っ
て、強がることだって多いけれど。間違っても、チー
ムの連中を惑わすような行動はとらない。
 そのなつきが。……この半年で変わったのは、オレ
だけではないのかも知れなかった。
 ふと、半年分のなつきを知らないのも、不思議なも
のだと思う。
 オレはなつきの隣に立った。小石を拾う。
 いつもやっていたように、水面に小石を滑らせた。
4度、5度、6度。勢いを失った小石が、水面の下へ
と沈んでいった。
「何があった? らしくないな」
 やっと顔をあげて、なつきは迷子になった子供みた
いな表情を見せた。
「よく、わからないんだ」
「お前に分からなきゃ、誰にも分からないだろ。とり
あえず、話してみろよ」
「……あんたに話したら、また落ち込みそうだもの」
「オレが関係していることか? なら、話せよ。気に
なるだろ」
 なつきは膝を抱えて顔をその膝にうずめた。じれっ
たい。
「……言わなきゃ、って思ったんだ。でも、あんたが
この半年でずいぶん変わったって知ってるから。言い
たくない……」
 すごく大事なことをなつきは知っていて、言いたい
けれど言いにくいから、ムカシの仲間集めてみたけど、
やっぱり言えない、という状況なのが、分かった。そ
んなこと分かっても、なんの進展もないけど。
「言えないなら、行くぞ、オレは。言わなきゃわかん
ねぇこと、いっぱいあるんだ」
 ラチがあかないから、帰るフリしてみる。この調子
では、普通に聞きだすのはまず無理だ。どうせ、一度
言い損ねたら、次にもっと言いにくくなるような話な
んだろう。それはなつきも分かっているから、思った
通り、引き止めてきた。
「言うよ。……いつか、どうせいつか分かるんだ」
						

 なつきは喫茶店でバイトしている。
 午前中から夕方まで働いて、貯金して、それで来年
にでも定時制の学校にでも通えたらいい、とうっすら
考えている。
 その喫茶店はプラタナスの並木道にあって、コーヒ
ーを丁寧に淹れる、雰囲気のいい店。マスターがとて
も話のわかる人だという。
 ……普段は人のいいおっさん、にみえるマスターだ
が、どうやらウラの人物と多少付き合いがあったらし
く、今でもいろんな情報があって顔がきくのだという。
 そのマスターに。
 なつきは、ふた月くらい前から突然この街に来た男
の話を聞いた。
 どこから来たのか、誰も知らない。
 だがいつの間にかこの街でのし上がって、今にもこ
の街のウラの連中すべてをまとめあげようという勢い
だという。
 その男の素性も、本当の名前も、過去も、誰も知ら
ない。
 もともとこの街をしきっていた実力者が、マスター
に声を掛けてきたという。……その男につくな、と。
「マスターは、ムカシ何やってたのか知らないけど、
すっかり手をひいて、あの喫茶店始めたんだ。だから、
無視したんだと思う。……あたしに関わるな、ってク
ギさしてくれた」
「……いい人だな」
 だいぶん長い話。だけど、急かしたりしない。ゆっ
たり聞いたほうが、たぶんいい。なつきが整頓しやす
いように。
「そうしたら、もともとこの街にいた方でなくって、
……その男の方が、店に来たんだ」
 なつきが「もともとこの街にいた方」と言ったそい
つのことは、オレも知らないわけではない。顔はとも
かく、どういうことをやっているか、どういう手下が
いるか、どういうチームの後見なのか。そうしたつな
がりを覚えるクセがついている。
 「その男」は、そうしたこの街のつながりを今、組
み替えている最中なんだろう。自分の手中に納めるた
めに。
「あたしは、マスターに出てくるな、って言われて。
だから奥から聞いていただけで……」
 その男がマスターに言った。
《先客が来たでしょう? 断って正解でした》
〈ここはただの喫茶店だ。コーヒーでも注文したらど
うなんだ、若い衆?〉
《失礼。オープン前に、それには及びません。……私
が若くて驚きましたか》
〈そんなことに驚くほど、生きていないわけではない
からな。倍は生き延びてきたつもりでいる。お前さん
のようなのも、何人か見てきたよ〉
《実感がこもっていますね。話を戻します。先日、高
津路さんの側近の方、こちらにいらっしゃったでしょ
う。……断って正解ですよ。この場所はとてもいい。
だからあなたは、ここに店を出した。高津路さんもこ
こと、あなたがほしいでしょう》
〈お前さんも勧誘か? あいにく、俺はただの喫茶店
のオヤジでな〉
《最後までお聞きなさい。あなたとは争いたくない。
それはお互いにそうでしょう? あなたは守りたいと
思うものがあるから》
〈厄介ごとは好みでないだけだ。……開店の時間だ〉
《……承諾いただけたようですね。そのほうが、こち
らもやりやすい。もっとも高津路さんはそうでもない
でしょうけれど》
〈お前さん、肝心のつめが甘いな。人の心理を読むと
きには、言葉はいらないものだ〉
《ご忠告、痛み入ります。そう、私はあなたを関わら
せたくないだけです。その中途半端な態度は、人を惑
わせる。敵にも味方にもしたくない》
 最後にひとつ、とその男はつけ加えた。
《人を探しているんです》
〈人材発掘は手伝わん〉
《おや、あなたの、稼業でしょう。……10年も以前
の。……3年近く会ってないのがいましてね。この街
にいるはずなんですよ》
 頼りなげな表情をしても、芯の強い、女みたいな奴。
何もよりも風が似合う。色にたとえるなら淡い金色。
輝きがあっても、柔らかく、不安げな金色。
《案外、もうすぐ会うことになる気がしています。…
…それはあいつも、わかっている、でしょう》
 心当たりがあれば、伝えてください。会う場所はこ
の街ではないと。……そう言い置いて、その男は側近
らしい連中と去った。
						

 レディースの連中は狐につままれたような顔をして
いる。やっと話してくれた内容が、あまりにも漠然と
しているからだろう。
 なんてことはない、街のウラ側の話。
 だけど、何かが引っかかる。
 もう「私」に関わるようなことではないはずなのに。
 どこかで「日常」になっているような、そんな話。
 どうして、引っかかる?
 今は日常ではない以前少しだけ日常だった感覚が、
引っ掛かりを覚えさせている。
 以前の「日常」。それを今は失ってしまった。とて
も遠い場所に手の届かない場所に消えてしまった。
 「オレ」は髪をかきあげた。変わっていないのは、
こんなクセくらいだと思っていた。
 ……あまりにも。
 あまりにも、オレの「日常」と似ていたから。
 肝心なことは何も教えてくれない。
 諭すような口調で、区切るように。
 ほのめかすだけで何も言わなくて、教えてくれなく
て。
 そんな日常がどこかにあって、それはある日突然、
消えていった。オレの日常のすべてを、支配した奴が
いた。
 似ているのだ。
 なつきは少し、震えていた。困惑した顔で、オレの
言葉を待っている。
「3年近く会っていなくて。女みたいな奴で。この街
にいて。……淡い金色」
 あの頃、髪を金色に染めていた。ブリーチしてから
染めたから淡い色になった。
 それを「あいつ」は「ネオンには金が、似合う」と
言った。だからそれからずっと、金色だった。
 ……そうだ。
 街の勢力分布なんて、どうでもいい。
《お前も分かってる、だろ?》
 それは「あいつ」の言葉。あいつが、オレだけにく
れた、最期の言葉。
 それをどうして、今さら繰り返すヤツがいる?
「葵……」
「どうしてッ! 今さら!」
 なつきの声は震えていた。
「あたし、関わるなって言われたけど。そいつの顔、
見ようとしたよ」
「聞きたくないっ」
 ほかの誰かが、あいつを汚している。あいつの真似
事なんて許さない! あいつは、オレのいちばん大事
なものぜんぶ持って、消えた、そうだろ!?
「聞きな! 話せって言ったろ。あんたも『レディー
ス夏鬼』のメンバーだろ。そんなのあたしが許さない」
「……っ。なつき。オレは!」
 唇を噛んだ。「あいつ」は、オレをなつきに預けて
いた。あいつの傍にいることの方が多かったから、夏
鬼には籍があるだけだったけれど。
 なつきは、落ち込んでもやっぱりなつきだ。オレに
この話をしたとき、どうなるかちゃんと考えていた。
 だからムカシの仲間集めて、いつでもそのセリフ言
えるように用意していたんだ。なんて女だ、と内心舌
をまく。
 それでも、それが分かって、少しだけ落ち着いた。
「……あたし、顔見れなかった。あとからマスターに
聞いたけど、何も教えてくれなかった。でも、声を聞
いたんだ」
 ……それは2度と聞けないはずの声だった。
 聞き間違いだとは思わない。なつきがそんなミスを
するはずがない。
「あいつの声だった。あれは、矢島だ、絶対……」
						

 どうして、涙が出るんだろう。
 気持ちがこみ上げて、逃げ場を失って。
 そして瞳から雫をこぼす。
 うれし涙? 哀しい涙? それも分からない。
 矢島は、オレをかばって刺された。
 そのまま、消息が分からない。
 風のウワサだけが、あの海辺の町を駆け抜けて、そ
してそれがそのまま真実のように伝わった。
 事故って、入院して、警察とか家裁の調査官に世話
になって。今、ホゴカンサツってやつだから、その人
人のところで下宿している。
 それきり、本当のところは分からない。
 結局あやふやなまま、だけど、どっちにしても、も
う会えないことだけは確かだった。
 そのせいか、ウワサを本当だと思い込んでいたのか
も知れない。なつきも、いろいろ探ったけど、分から
なかったというから。
 ただ、流れる川面を見ていた。
 誰も何も話さずに。
 なつきが自分の肩を抱きしめるみたいに座りこんで
いて、レディースの連中も河原の上の高速道路路を支
える柱の下にたたずんでいた。
 やけに静かなはずの水の流れの音と、鼓動が大きく
聞こえた。
 立ち上がって、背伸びをする。
 髪をかきあげる。以前は、金色の髪だった。
 今は少し茶色いだけで、別に染めてはいない。
 ……あいつが、矢島が似合うって言ったから、
あいつを失ってからもずっと金色にしていた。
 いろんな気持ちを想いを振り切れなくて、やっと半
年前から、少しずつ色を変えてきた。
 あの頃、男になりたかった。あいつの役に立ちたく
て。
 でもなりきれなくて、助けてあげられなくて、それ
どころか足を引っ張って、だからあいつはどこかに消
えた。
 残ったのは「私」という女。
 すべて忘れたわけじゃない。捨ててもいない。
そんなことは意味がないって気付けた。
 気付かせてくれた友人と仲間がいる。
 今の「日常」を、フツウにすごしている。
 ……ならば、許されるだろうか。
 少しだけ、失った「日常」を取り戻しても。
《どうでもよくなんかないじゃない、全っ然》
 杏子はそういってくれた。
 そう、どうでもよくない。杏子や千夏も、なつきも。
そして矢島も、どうでもよくない。
 何も捨てない。大切だから、今の「日常」にしがみ
ついていたい。
 だけど「過去」という名の出来事を、忘れない。
 何もかも捨てていくのは、当然かも知れない。
だけど「私」はもう何も忘れたくない、失いたくない。
 どうでもいいことなんて、何もない。
 たぶん、どうでもいいなら、はじめから手に入いら
なかったものなんだ、って今の「私」には言える。
 ずるくても、いい。それが今の「私」。
 ただ、つらさとかなしさは、どっちみち同じなんだ
と、思う。
						
 
《もう関わるな、俺らに》
《お前も分かってる、だろ?》
 そう言ったのはお前だ、矢島。
 忘れていない。ずっと覚えている。
 試しているのか……オレを。ずっと傍にいた、この
オレを。
 なぁ、今でもそんなことくらい、オレには分かる。
 ずっと傍にいたんだから。
 もう、オレを見つけているくせに。なつきのことも、
あれから、今までのオレのこと……「私」のこともぜ
んぶ知っているくせに。
 矢島は今さらになって「オレ」を探し始めたという
わけじゃない。この街に来たのも、たぶん偶然、都合
がよかっただけだろう。
 分かってる。素性を隠すのは、死んだはずだと思わ
せるためだけじゃない。
 あの海辺の町はそれほど大きな町じゃない。矢島の
名前を知らないなら、町の裏側を歩けない……それく
らい、あいつの存在は大きい。
 だけど、あのとき矢島は、つけ入られた。
 確かに素性が知られたなら、敵も増えるだろう。で
もそれ以上に以前の舎弟が集まってくる。人脈も使え
る。本気でこの街のウラを仕切るつもりなら、かなり
有利になるはずだ。
 それでも、素性を隠して「過去」を知るものを近付
けないようにしている。意図的に。
 しくじりを覆い隠して。
 はじめから、何もないところに駒を並べる。
 あいつの矜持が「過去」を許さないから……。
 そのくせ、何故なつきに近づいた?
 簡単じゃないか、答えは。
 矢島は、このオレが出てくるのを待っている。以前
のままの「オレ」から現れるのをまっている。そして
そのためになつきを使った。
 別にマスターに会わなくてもよかったんだろう。そ
れくらい、人にまかせられる。だけどなつきに感づか
せるために、わざわざ。
 そして、あいつは。
 オレがこのことに気付くこともちゃんと折り込んで
いるし、オレがどう動くかも承知してしている。
 だったら、オレはまたあいつの掌の上で踊ってやる。
 踊らされてやるよ、矢島。
						

「なつき」
 もう日はほとんど暮れかけている。黙りこくったま
まのなつきを振り返った。
「なつき、その話、今朝のことだな。……次のバイト、
いつ?」
「?」
「その日、コーヒー飲みにいく」
「葵??」
「開店前のほうがいいだろ。マスターによろしく言っ
ておいて。最っ高に美味しいコーヒーを『矢島』が淹
れてほしい、ってさ」
「! ちょっと、何考えて……。まさか葵、あんた」
 オレの意図が分かったなつきは表情を強張らせた。
「……あいつはさ、ミルク入れないでシュガーだけで
甘くしたのが好きなんだ。オレはブラック」
「……いいよ、好きにしなよ、葵」
 なつきは承知した、とうなずいた。オレのたくらみ
は分かっても、たぶん考えまでは読めていないのかも
知れなかった。それでも、なつきはやってくれる。
 あのとき、傷付いたのはオレだけじゃない。
 なつきのつらい表情は、もうオレだって見たくない。
 レディースの連中はあのときのことはほとんど知ら
ないだろう。
 ほとんどオレの都合だけで決めてしまった。1人で
できることじゃないのに。
 なつきがまた傷付いたのは、オレのせいだ。オレが
あいつと関わるから……。
 本当は、もう。会わないほうがいいんだろう。
 だけど、確めずにはいられない。
 ぜんぶ、知らずにはいられない。
						

 なつきのバイトは翌々日。
 昨日は登校できなかった。たぶん携帯には杏子と千
夏の文句や心配がたくさんつまったメールが来ている
んだろうと思う。でも、なんだか確認することができ
なかった。
 ……絶対あいつら、関わらせない。勝手な考えだ。
でも、それを貫くなら、何も返信することができない。
 確信がある。たぶん2人とも怒るだろうけど。
 心配して怒って、でも許してくれる。
 しばらく、その確信に甘えていたい。
 コーヒーの香りが店内に漂う。
 豆から挽いて、丁寧にドリップされたコーヒーは、
この喫茶店の自慢。
 本当の開店は11時。今はまだ10時を回ったばか
り。マスターにムリを言ったが、邪魔を承知でカウン
ターに肘ついて座っている。
 マスターは薄々気付いている。オレが何をしに来た
のか。
 関わらないほうがいい、そんなふうに思いながらも、
マスターは表情に出さない。ただ、グラスを丁寧に丁
寧にぬぐっては並べていく。
 開店直前。
 なつきがため息をついた。
 淹れてくれたコーヒーはもう冷めかけている。淹れ
なおそうか、と目で聞いてくれたが黙って首をふった。
 なつきは「準備中」の札を入り口の扉から外した。
 そして、本日の来客一号様が入店する。
 見たことのない男。緊張感の漂わせる、雰囲気。
 振り向くとなつきがいない。今までカウンターの中
にいたはずなのに。
 マスターに視線を向けた。そ知らぬ顔で、グラスを
拭い続ける。……だからわかった。マスターがなつき
を遠ざけたと。
 そのままマスターはわずかに、心配するなというよ
うにオレにうなずいてみせた。……なつきはずいぶん
いい店で働いている。
 得たいの知れない男は、そのままカウンター席に腰
かけた。オレの、1つあけた隣の席。
 ……スキを与えてはならない。昔つちかった勘が、
全身にそう命じている。「以前の日常」がいっぺんに
戻ってくる。あいつに関わろうとするだけで。
《もう関わるな、俺らに》
 そう、あいつの、矢島の言葉は正しい。なのに何故、
オレの前に現れて、こんなにもオレを取り乱す。
 その男は30半ばだろうか。背はそれほど高くない、
ダークグレーのスーツはダブルで、年齢や体形につり
あっていないような印象を受ける。
 瞬時に判断する。この男は別に矢島の配下でもない、
だがなにか関わりを持つ。
「……お嬢さん。貴女のコーヒーは冷めているようだ。
長くどなたかをお待ちですか」
 オレは今日、以前のように男のカッコウをしてきた。
初見で女と見破られるつもりはなかったから、返答に
困った。
「お客さん、ご注文は」
 マスターに助けられた。そう、これくれいのことで
動じていられない。あいつに関わるなら。
「ブレンドを。シナモンがあれば入れてください。あ
の香りが好きなんですよ。それとこちらのお嬢さんに
も新しくお入れしてください」
 この男はオレを知っている。
 コーヒー豆の挽かれる音がしている。
 なつきはどこかで状況を見ようとしているだろう。
 なつき、この男の顔、よく見ておくんだ。
「……変わっていますね」
 口を開いたのは、オレ。目の前の相手はオレを見据
える。探りを入れられているのはわかっている。
「シナモンティはよく聞きますが。コーヒーにも?」
「美味しいですよ。試しませんか」
 隙のない返答。こちらに情報を与えずに、逆に疑問
で返す。
 オレは肩の力を抜こうとした。身構えていては、相
手のペースに引きこまれる。
 マスターが淹れなおしたコーヒーを、いつもよりも
ゆっくりとした動作でカウンターに並べた。
 それは空気を乱す。ほおぅっと、静かに息を吐いた。
自分を取戻すために。
 さっそく男はカップを口に運ぶ。
「マスター、相変わらずうまいね。転職は正解だった
らしい。それとももう、昔は忘れたかい」
「……客として来たのではないのか。褒めてもおごら
ないぞ。それに、若い娘に手を出すのは感心しないな」
「本っ当に、相変わらずカタイな。だがこのお嬢さん
に簡単に手を出せるものか。お前も承知しているだろ
う?」
 どうやらマスターとは旧知のようだ。
 そして2人の会話から、この男の正体が唐突に分か
ってきた。
 なつきの話に出てきた「高津路」だ。もともとこの
街の裏を仕切っていた男。話ではマスターは高津路と
手を結ぶのを断っているはず。
 分からないのは、なぜ高津路はオレのことを知って
いる。オレが矢島の傍にいたのは3年も以前のこと。
それに、あの頃の矢島は海辺の町の小さなチームをま
とめていただけだった。どこかで傘下にあったのかも
知れないが、組織なんてものは複雑になればなるほど
「上」が下のメンバーまでもいちいち記憶する必要も
ない。
 それをわざわざ承知している?
 ふと、マスターが「人材発掘」を稼業としていた、
という話を思い出した。
「一度、話をしたくてね」
 高津路とおぼしき男が、オレの注意を引き戻す。
「……何か、話題でも?」
「こんな朝早く、高校生が何をしているのか、興味が
あってね?」
「補導員みたいなことをおっしゃいますね」
「だったら、どうする?」
「あなたは、補導員ではないです」
 断言したオレを、面白そうな表情で見た。そのこと
が、オレに余裕をもたらした。
「どうして言い切れるのかな?」
「補導員はすべて見知っている。入れ替わったなんて
話は聞いていない」
 そもそも、高校生相手に補導も何もないだろう。
 私服の高校だからか、たまに中学生かと思われるの
か、ゲーセンで声を掛けられることもある。
 それでも、今さら補導されるような理由もない。少
なくとも、ここ数ヶ月は。 
「なるほど」
 感心しているような、面白がっているような表情で、
笑った。
「……あなたこそ、何をしてらっしゃるんです? こ
んなところで? こんなときに?」
 オレは含みを持たせて、言った。
 はったりに近い。オレはなつきの話以上のことは、
この街の「現状」なんて知らない。
 分かるのは高津路が……たぶん矢島と影で抗争して
いることくらい。
 マスターが眉根を少しだけひそめた。それでもこの
人なら助けてくれるだろう。多少危険でも、今は情報
がほしい、少しでも。
「確かに貴女はただの『お嬢さん』ではないな」
「オレは『お嬢さん』じゃない。知っているでしょう?
名前くらい。高津路さん?」
 苦笑した笑顔は思いのほかガキくさい。
「貴女はもう、こんなことと縁を切ったつもりでいた
でしょう。それでも私を知っている。一度関わったな
ら、それはついてまわるものなんです。私はただの喫
茶店の客で、マスターの旧友です。……今は、ね。こ
の旧友は友人がいがなくて、少しも手助けをくれない
が、貴女がたのこととなると、違うらしい」
 それはそうだ、と思った。
 オレとなつきには、マスターは甘い。この人なら、
すべてを無視して、立ち回ることだってできるだろう
に、結局なつきを守ってオレを助けている。損な性格
しているんだろう。
 だけど守られなれていないオレたちには、それが面
映いばかりで、感情をくすぐられるばかりで、うまく
言えないのに、甘えている。
 ……入り口にはいつの間にかまた「準備中」の札が
かけられていた。
						

 高津路は、確信できずにいる。
 自分と抗争する相手が「矢島」であることを。
 だから、オレを知っている。矢島と関わりのあった
何もかもを、調べたから。
 そして勘違いをしている。
 矢島は、縁を切った人間を助けない。オレが矢島な
ら、以前のすべてを覆い隠す。そして「過去」にすれ
違ったものを黙殺するだろう。
 そう、それが「矢島」のやり方。分かっている。い
ちばん近くにいた。今となっては、それだけが矢島の
傍にいた証。
「貴女はなぜここに来たのです?」
 高津路がゆったりと構えて訊いた。なぜ? それは
詰問に近かった。
 オレがここに来たなら。
 高津路はオレを「押さえる」。自分の相手が「矢島」
だと確信するだろう。
 仮にも「矢島」のやり方を知る「稲葉 葵」が、た
だ会いに来たそんな浅慮だけで、それだけでここに来
たのか、と。
 それとも矢島の意を受けてその「役割」を果たしに
来たのか、と。
 そう、問いかけている。
 ……知りたいことがある。なぜあいつがこんな「ら
しくない」ことをしたのか。
 だけど。
 確かにオレは。
 矢島の傍にいた「稲葉 葵」なら。
 ただそれだけのことで迂闊に動いたりしない。
 高津路のその問いかけで、オレは唐突に理解した。
「矢島」の名前が持つ意味を。
 未だにその名前はタブーなのだ。同時に伝説と神話
性がある。
 懼れている。高津路と争う男が、本当に「矢島」だ
ということを。
 もちろん。
 本当の「矢島」だ。
 でもそれは匂わされた気配だけで、確信を持つ者は
この街にない。
 そして今、オレが動いたなら……。
 あいつはそれを狙っていた? 
 ずいぶんつまらないシナリオじゃないか!
						
 
「マスター! この前、あいつが座った席はどこだ?」
 オレは立ち上がって、マスターの指差す方向を見据
えた。
 それは、カウンター席のいちばん左の隅、壁際。
 メニューにシュガー。
 マッチ。灰皿。
 一輪挿し。
 ほかの席と、何も変わらない。
 立ち上がったオレはシュガーに手を伸ばした。ガラ
ス製のシュガー瓶には、なぜかシュガースプーンがさ
さっていない。
 瓶を振る。……的中。
 シュガーの中にある、小さなそれは、小型盗聴器。
機械のようには見えない陶製の塊は、ちょっと見ただ
けでは、角砂糖に似ていた。
 高津路は一瞬だけ目を鋭くした。
 盗聴器そのものというよりも、オレが見つけた盗聴
器を瓶から取り出したことに。
「どうするのです? 誰も『仕掛人』の意図ははかれ
ない。……それとも貴女に何かができますか?」
 少しだけ、空虚、っていう言葉を思い出した。
 何かが? そう、何も。
 何もトクベツな何かがあるわけじゃない。
 いつものように。
 それでいいのに、気持ちがついていかないのは。
 オレがあの頃の「稲葉 葵」でいられなくなったか
らなんだろう。
 思考回路だけは瞬時につながる。オールグリーン。
異常なし。不器用な脳神経が「答え」をはじき出した。
						

「やっとオレにもあんたの、高津路さんの意図がわか
った気がする。あんたはオレを利用しようとしたんだ。
そしてあいつも、オレを利用している。……決定的に、
違うんだ、どっちも。オレは……望んであいつに利用
される。自分から、あいつの掌の上で踊っている」
 矢島はシナリオの中心にオレを据えた。
 いくら素性を隠そうとしても、噂は広まる。もちろ
ん、抗争相手にも。
 噂を利用するのは、矢島の常套。そして十八番。
 矢島のチームに関わっていた連中は「矢島」に神話
と特異性を見ている。……矢島が死んだ、そんな噂が
広まったから、余計に神格化しているんだろう。
 ……確かに、そう聞いたのに。
 誰も「本当」を知らなかった。
 だから、噂が「真実」だと思って「現実」があいま
いになった。
 今さら。かもしれない、程度の噂が広まっても誰も
素直に信じたりはしない。半信半疑。
 高津路にも噂という「情報」が入っただろう。どこ
の誰とも分からない男に、この街を簡単に譲るはずは
ない。
 噂の是非を探っても、やすやすと正体を明かすよう
なかわいげなんて、あいつにない。
 素性の知れない男。その素性を明かすことに時間を
費やすことで、返って付け入る隙を与えてもおかしく
ない。
 少なくとも、高津路が「矢島」であることを証明し
ようとすれば、その分だけ「矢島」の神格化は進む。
 そのうちに、矢島の舎弟だった奴等も、関わりの連
中が騒ぎ始めるだろう。
 隣の小さな海辺の町は、高速道路と国道でつながっ
ている。人のつながりも、同じだ。
 あれから3年。かつてのメンバーたちの居場所も行
動範囲も、年を重ねたぶんだけ広がっているはずだ。
 高津路も今傘下にない、チームのカタチもない元メ
ンバーの動きまで止められない。
 それでここのマスターに声をかけた。
 以前「人材発掘」を稼業としていたというマスター
なら、若いチームや、矢島の舎弟のことまで知ってい
てもおかしくない。
 マスターは関わらないと言った。別にマスターが、
どちらかにつかなくても構わない。声をかけておけば、
この人なら性格上、相手につくことはないはずだ。
 あいつは「頃合」を見過たず、姿を現した。なつき
が店にいる時を狙って。……なつきに、敢えて声を聞
かせるために。
 あいつにとっては「仕掛け」とも言えないだろう。
 なつきがその話をオレにすることも、そのあとオレ
がどうするかもすべてあいつは見越していたから。
						

 オレが「矢島」の名を出して店で待つ。
 その名は、出してはならない、タブー。高津路が探
りを入れないわけがない。オレの近辺を改めてさらす。
 ……未だに、矢島に引きずられているオレに気付い
ただろう。悔しいけれど。
 オレを追えば、本当に「矢島」かどうかをつかめる。
それを狙っている。オレが「このあと矢島がどう動く
か」を読みきることを。 
 それは矢島の行動を読むより、はるかに簡単。
 オレの動きをずっと見ているだけでいいのだ。
 それでも。
 矢島はその「高津路の動き」をさらにシナリオに組
み込んでいる。……すべてがまだ、矢島の書いたシナ
リオ。
 それは悦びのはずだ。オレはあいつの役に立ちたく
て、助けようと思って、いつでもあいつの道具だから。
 だから、オレはそれでいい。
 それでは、なつきは? オレは自ら舞台の乗った。
オレがなつきの話を聞いて、違う行動をとっていれば、
なつきはあんな表情しなかった。オレが巻き込んだ。
 矢島は悪くない。あいつは、オレが「シナリオに乗
らない」選択も与えていた。
 矢島の動きを、考えを読めても、何もできない。
 それは今に限ったことじゃない。
 オレはあれから、本当は何ひとつ変わっちゃいない
んだろう。何も変われていないんだろう。
 ……高津路は相手が本当に「矢島」だと気付く。
 あとから気付く、それだけで矢島にとっては優位に
立てる。
 おそらくまだ「様子見」の連中がいる。
 神話化されている「矢島」。それだけで矢島に傾く
者、興味を抱く者が出てくるはずだ。
 均衡は、そこから崩れていく。見逃すような奴じゃ
ない。
 オレが、そこまで読みきったなら。「稲葉 葵」な
ら……。
 高津路はオレが矢島の元に戻るかも知れないと考え
るだろう。そしてオレの動きを見る。
 そこでオレが「矢島の元に戻った」ように見せたな
ら。
 これまで矢島はその素性を明かしていない。人なん
てものは思い込むと、どこまで頑なに思い込もうとす
る生き物だ。
 矢島の動きを「ほかのどこからも読み切れない」と
思い知らされたことがあればあるほど、高津路はオレ
の動きに注視する。
 ……もちろんムダだ。オレは矢島の元へは戻らない
から。戻れるはずもないから。
 オレは矢島を隠す、単純な霧となれる。
 なのに、隠しているはずのあいつに会えない……。
 高津路が思い違いに気付くまでの僅かな時間。それ
があれば矢島には高津路を潰せる。
						

 そこで、シナリオは終わるだろうか。
 誰も気付かないシナリオ。
 ならば、このシナリオを書き加えることができるだ
ろうか。誰も気付かないなら、誰かが間違えて、それ
もアドリブを加えながら、続いていく。
 今、この矢島のシナリオにアドリブを加えることが
できるのは?
 オレは笑みを浮かべた。
 それは「あの頃」の笑みだったのか、それとも「私」
のものだったのか、分からない。
 鳩時計がくだらない時間の終りを告げる。
 右手の中の、温もりの移った角砂糖型盗聴器をカウ
ンターに転がした。
 これは矢島にとって大きな意味を持つものではない。
単に、念のため確認できるように。
 だからあんな分かりやすいところに仕掛けた。
 少しだけ淋しさを覚える。念のため、が用意される
ほど、信頼が薄らいでいる、それほどの月日が過ぎた。
 オレは何も変わっていないはずなのに?
 レディース「夏鬼」のひとりには「少し変わった」
と言われた。挨拶程度のことだと受取った。
 今その言葉が重く圧し掛かる。
 フツウに学校に行ってフツウに授業受けてフツウに
杏子と千夏と友だちして。
 フツウに「日常」を送っている。
 以前と違った「私」がそこに在って、だからオレは
変わった、と思い込んでいた。
 矢島は「死んだ」って思って二度と会えないって思
って、だからオレの中の「矢島」はあの頃と何も変わ
らないと思っていた。
 オレは変わったのか?
 髪を、かきあげる。
 その色は金色じゃない。
 初めて金色にしたとき、あいつは。

《メットかぶるなよ、もう。
 ネオンには金が似合うだろ》

 ……そう言って、金色の海を、入り日を見ていた。
 今も、その入り日の色は変わらないんだろう。
 あの頃ときっと、変わらないんだろう。
						

 冷め掛けたコーヒーカップに手を伸ばした。
 高津路もマスターも、オレの動きを窺っている。
 オレは誰に言うでもなく。でも、盗聴器の向こうに
語りかけた。
「……もう一度、金色に染めに行く、から…………」
 つぶやくような、小声。でしか、言えなかった。
 それでも、伝わっただろう……?
 深みとコクと、酸味のある、マスターの自慢のコー
ヒー。それを一気に飲み干してから。カップを。
 思い切り、カウンターに叩きつけた。
 ……唯一、矢島とつないでくれるモノの上に。
 オレはすぐに店のドアを押した。
 カラン、という呼び鈴と一緒に「準備中」の札が揺
れた。
 オレの行動を見た、2人の表情は見なかった。必要
ない。
 少し離れた路上に止めていたバイクにまたがる。
「葵」
 声に振り向くと、なつきがいた。
「行くんだね? 会いに」
「さぁな……」
 会うのか。会えるだろうか?
「止めないよ」
 その表情は、何かを言いたそうで。そして言いたい
言葉も伝える表情で。
「悪い、なつき。オレは1人で……」
 1人で行って、決着をつける。
 会いたいと願っても。
 それはもう叶わないことだった。
 もし、そんなことは起こり得ないけれど、会うこと
ができるなら。
 いちばんはじめに、思いっきり殴ってやる、って思
っていた。
 何処に行っていたんだ、って……。
「オレは1人で行くから。なつき、ごめん……」
 今はほかに何も言えない。
 こんな気持ちを少しでもいい、伝えられる言葉がほ
しい。
 なつきは硬い表情のままうなずいた。
「よろしく言ってよ。……あのときのこと、後悔して
るって」
「わかった。伝える」
 それを伝えたところで、どうなるわけでもないから、
なつきは謝罪の言葉を言えない。
 あのとき、なつきはなつきの立場があったから、ぜ
んぶ、何が悪いってことにできない。
 たぶんなつきは、そんなやるせなさをこれからも持
ち続けるよりないんだろう。矢島のせいにもできない
し、矢島に気持ちをぶつけることもできないから。
 エンジンをかけた。
 そのときから、……歯車が動き出す。
 少しくらい、予定が狂っても。
 必ず歯車は回り続ける。
 シナリオにアドリブを加えるのがオレだとしても。
 回り、続けて行くだろう。
 矢島がグリスをさすのなら。
						

 4回目のコール音が受話器の向こうから聞こえる。
 もう、寝ているのかも知れなかった。
「もし?」
「杏子、起きてた? 葵だけど」
 少し寝ぼけた声をしていた。
「……。……あー、葵かぁ。……って。葵!? どう
したのっ、どうしてるのっ」
「怒鳴るなよ、夜中だろ」
「だって何も言わずに休んで。みんな気にしてるんだ
からっ」
 どうせ気にしている、というは心配の意味ではない
んだろう。
「……葵? ちょっと? ねぇ?」
 あまり「いつも」の「私」のノリでない様子を感じ
とったらしい杏子は、テンションを落とした。
 でも、今そんな気を遣ってもらったら。
 ……いろいろ張り詰めたものが、均衡を崩してしま
いそうだ。
「何でもない。気にしなくていい。……気にするなよ」
 重ねた言葉で、察してくれただろう。杏子はそうい
うところは聡い。
「……千夏がね、あのあと風邪引いた。だから葵が休
んだこと知らないよ」
「メールとかしてないの?」
「それが返信があまり来ないから。寝込んでるんだと
思うんだ。……あのさ、明日の土曜日、お見舞いがて
ら遊びに行こうか?」
 遠回しに探る作戦に出てきた。その気持ちが嬉しい
けれど。
 優しさは万能じゃない。そんな思いが苦しい。
「悪い、行くところがあるから。その前に言っておこ
うって思った」
「何それ? 遠い所行っちゃうみたいな話? ……戻
ってくるのいつ?」
「遠い、のかもな。月曜には、行く」
「だめ。ちゃんと、話してから行って」
 杏子は、こういうところは頑固にできている。少し
失敗。
 別に愁心に耐えられずに電話したわけじゃない。た
だ、声を聞いておこうと思った。「日常」を忘れる
のはほんの一瞬のことだと、思いたかった。
「……大丈夫。あとで、ノート見せろよ。じゃぁ」
「あっ葵っ」
 何かを言われる前に「オレ」は携帯を切った。その
まま、電源も切る。 
 杏子の最後の声が、少し耳に痛い。
 国道沿いの、コンビニ。3年前にはなかったけど、
24時間で営業中。
 週末「走る連中」がもっといるのかと思ったが、思
ったよりも少ない。対向車線で一度すれ違った。
 あの頃なら、それだけでもめたかもしれない。どこ
のチームかわかったけど、向こうには分からなかった
んだろう。
 今手にあるのは缶ビールじゃなくて、温かい缶コー
ヒー。それを手に包んで、暖を取る。まだ春先の北国
の夜は涼しい。
 夜空を見上げると、星が冷たく輝いている。
 空き缶をゴミ箱に投げ入れて、再びバイクにまたが
った。
 流れ星が願う時間も与えず、消え去った。
						

 明日はきっと、晴れるだろう。
 夕日を見ながら、そう思った。
 夜中遅くについた海辺の町。
 思ったより、平静な自分。……この街を去るときは、
二度と戻ることはないと思っていた。
 夕日が何処までも紅く、そして凪の海を輝かせてい
る。波の音が静かに耳に入ってくる。
 季節外れの砂浜には、人影はない。
 時折、海岸沿いを走る道路を、近くの高校の運動部
が駆けて行く。
 その掛け声を遠くに聞きながらオレは砂浜に乗り入
れたバイクに持たれかかっていた。
 足元に、近頃では珍しくなった、ガラスの石を見つ
けた。角が波にさらされて、丸くなっていて、きっと
薄緑の色はもともと酒瓶だったんだろう。
 拾って、波に投げた。
 目をつむる。とぽん、という石の落ちる音が波音に
まぎれて柔らかく響いた。
 目はつむったまま。
 そして。
 煙草の匂いがわずかに潮風に運ばれる。
 無意識に。
 声が出ないまま。唇が。
 やじま、と刻んだ。
 それは当然で自然のことみたいに感じて。そのせい
か、ありのままにその場面を受け入れてしまったみた
いで。
 驚きも喜びも感激もなくて。
 ……ただ、砂浜に続いた足跡の終点にいる男をぼん
やりと見つめた。
 今までの、やるせなさも憤りも。どこか空中の水素
分子に紛れたみたいに、ふわりと浮いていってしまっ
たみたいで。
 
 矢島。
 あいつの名前。
 もう二度と、会えない奴の名前。
 会いたいと願っても。
 それはもう叶わない。
 それでももし、そんなことは起こり得ないけれど、
会うことのできるなら……

 いちばんはじめに、何が言える?
 言いたいことはたくさんあるのかも知れない。
 なのに思いつかないのは、何もいうことがないから
かも知れない。
 白いシャツが、潮風に吹かれていた。黒いサングラ
スの奥の瞳は、何を見ている?
 その瞳が映す世界に、オレは入っているのか。
 矢島は海を見つめていた。
 波に向かって歩き出す。
 あのときと、同じ砂浜。
 あのときと同じようにオレはあいつの背中を見つめ
た。
 そう、いつもずっと見つめていた……。
 少しずつ夕日が、入り日に変わっていく。
 オレはここ以外の海を知らない。
 矢島の在る海しかしらない。
 それを覚えていた。互いに。
 今、あいつが何を考えているのか分からない。
 あのときも実は、全然分かっていなかった。
 ……でも確かに分かっていることがあった。時間を
超えた今でも。
 お互いの居場所。
 離れても、超えられる時と距離。
 いつも知りたかった。あいつが何を思って入り日を
見ているのか。

《お前も、分かるときが来る》

 夢うつつ、矢島がそう言ったのは嘘じゃなかった。
 たぶん分かる時は、今この瞬間。
 ……それだけで、充分だろう?
						 

 矢島は夕日を浴びていた。 
 タバコの煙が潮風にかき乱される。
 絶え間なく続く波の音。
 すべてが完全なひとつの世界を作り上げて、何も崩
すことのできないシーンを仕立て上げていた。
 矢島はその中心でたたずんでいる。
 だから、声を掛けることができない。
 躊躇っているわけでなく。
 声を掛けるのがもったいなくて。
 だけど。ふとその完璧なシーンが動いて。矢島が振
り返った。
 オレもその世界の、矢島が演出するシナリオに包み
こまれたような心地になる。
 ゆっくりと。静かな動作で。
 黒いサングラスを片手で外す。矢島は左利きだ。
 その奥の瞳。……が、まっすぐに視線をくれるのを
見て。
 オレは掛けだした。矢島の元に。
「葵」
 矢島の声。もう二度と聞くことはないと思った。
 しがみつく。懐かしい矢島。
「どうした」
 そんなこと聞くなよ。
 オレはお前に会えた。お前が今、目の前にいるから。
ただそれだけで。触れることのできる、確めている。
 矢島がいる。オレの傍に。
 ……いつも、矢島が傍にいるのではなかった。オレ
が矢島の傍にいた。
 今は、来てくれた。
 ただ、それだけで……。
「葵。ちょっと見ないうちに、女みたいになったな。
そんなにしがみつくな」
 言葉とは裏腹に。矢島はオレの髪をなでた。
 オレはお前の力になりたかった。そのためには男で
いたほうがよかったから、そうしていただけだ。
 矢島。相変わらず童顔なんだな。でも、少しだけ精
悍さが顔に出てきた。タバコの銘柄も変えていないだ
ろう。髪は前よりも長くしているのか。
 でも言葉は出ない。
 その代わりに、張り詰めていたものが溢れて、涙に
なって流れた。
						

 2人で並んで入り日を見ている。

《入り日の海は……特別さ》

 矢島がそう言ったのは、いつだっただろう。

《あの金色を見ていると、明日もいい日だって、思う
だろ》

 そうだ、明日はきっと晴れるだろう。だから、いい
日になるだろう。
「落ち着いたか」
「……もう、会うことはないと、思っていた」
 最後に会ったのは。オレが矢島の舎弟連中とケンカ
をして。一方的にやられて。
 矢島はオレをかばって、自分の舎弟にナイフで刺さ
れた。
「会えるはずがないと、思っていた」
 そのくせ、何度も確めたいと思った。矢島が死んで
ない、嘘なんだと。でも、確めることもできずに、こ
の海辺の町を離れた。
 やっぱり、矢島は生きていた。
 あのとき救急車で運ばれた。その数日後、それ以前
から睨み合っていた暴走族のヤツラと闘争になったの
はあとで知った。
 そのころから、矢島の消息が知れなかった。死んだ
なんて噂だけが真実みたいに流れた。
 詳しいことは何も知らない。
 でももういい。矢島が今、オレの傍にいる。
 そんな過去のことは聞かない。必要がないから。
 知りたいのは今のこと。どうして、オレを巻き込ん
だ。
 それに、どうして、オレに会いに来た……?
「葵が離れて行ったからな。俺から」
 それはお前が望んだ通りになったんだろう。
「そのほうがいいんだ。お前にとってはな。そのあと
はもう、会わない。そう思っていた」
 矢島はタバコの火を砂に押し付けて消した。
 そんなことができなかった、そう、ささやくように
聞こえたような気がしたけれど、潮風がかき乱した。
 オレは矢島のいない街を離れた。そしてすべて忘れ
ようとして、矢島に縛られていた。
 失ったあとに残る感情が「それまで」を壊しそうで
崩しそうで。逃げ出したくて振り切ろうとして。
 だけど、ムダだった。
 矢島、お前もそんな気持ちでいてくれたなら。
 オレはお前と居てよかったと、思う。
 ……矢島といたから。こんなに海が好きになった。
沈み行く入り日が、海を輝かせるのを好きになった。
 お前の好きなものを好きになった。
 離れても届かなくても。
 お前の残した答えを探していた。
 これ以上、もう、望むことはない。
 お前が望んだことが、オレが望むことなら。……
同じことを思っているのなら。
 答えはもうわかっている。

 もうこれ以上、互いを崩せない……。
						

 いつかきっと、分かるときが来る
 それはきっと、今この瞬間

 互いに分かっている

 ときどき誰かが後ろを確認するように
 もう一度会いたかっただけ

 これから先、また前を向いて歩いてゆく
 互いに思う道を行く

 互いが望むように
 もうこれ以上望むことは何もない

 たとえ傍になくとも
 互いにうなずける
 
 それぞれの道を望んでいる 
						

「葵。お前が思ったこと、当たっている。お前が間違
うはずがないな? どう転んでも、会うことになると
思った」
「……シナリオどおりか?」
「そうでもないさ。お前が女みたいになったから」
 そういって苦く笑う矢島をみて、少しだけ戸惑う。
あの頃と同じように、何も、変わらないようにしてき
たつもりだったから。
「不満か、矢島?」
「さぁな。お前は女だからな」
「……いいのか、高津路のおっさん。きっと今頃もう
動いている」
「アドリブはシナリオの大筋でしか成り立たない。気
にするな。お前も高津路も役者は悪くない」
 夕日がますます輝いて、海の輝きが入り日に向かっ
て一筋の道となる。
 その光の照り返しで、すべてが金色に輝く。
「なつきが。よろしく伝えてと。あのときのこと、後
悔してると……」
「そうか。忘れてないか」
「忘れないさ。忘れられないことだから」
「……お前らしいな。バイクで来たのか。変えたな」
 矢島といたあの頃乗っていたバイクは、交差点で事
故を起こした。今乗っているものは、色も型も違う。
 オレが事故を起こしたことくらい、知っているんだ
ろうけれど。
「お前は、歩いて来たのか?」
 まだ矢島が歩いて来た砂浜の足跡は消えていない。
「つまらない冗談だな。でもバイクじゃない。二度と
乗らない……乗れない」
「……? なんで」
「乗れないさ。この足だ」
 気付かなかった。ジーンズの裾をめくりあげた、矢
島の左足。生まれ持ったものと入れ替わった……義足。
「いつからだ」
 砂浜に残った足跡、そういえば、乱れている?
「……あの頃から」
 暴走族のヤツラとやりあったのは、本当だったのか
と知る。ナイフで腹を刺された直後のことだろう。
 だからといっておとなしくしていられる性分ではな
い。きっと無茶をしたに違いない。そういう奴だ。
 そして矢島は進む道をもう戻らない。変わらない。
そんな生き方を、選んだ……。
「バカだな。バイクに乗れないなんて」
 海に沈もうと水平線に近づくする夕日に、小声で言
った。矢島に言ったところで、意味がないから。
 オレはまた、髪をかき上げた。
「葵はやっぱり金色がいい」
 オレの髪は今、金色。夕日がすべてを輝かせている
から。もう一度金色に輝いている。
 潮風に、金色がなびいている。
 少しずつ、日が沈んでいく。
 時の限りを告げるように。
 何も言わずに、オレは矢島の傍を離れた。
 砂浜に止めたバイクにまたがる。メットに手を伸ば
す。何も言わずにエンジンをかけた。
 矢島がタバコに火をつけた。
「……日が沈むな」
「あぁ」
「またな、葵」
「あぁ、矢島。また」
 また、なんて言っても……分かっているんだ。
 これが本当の最後。
 もう会わない。会えない。
 そして会う必要もない。
 いちばん大事な存在が、遠く離れていく。
 それでいい。
 ずっと傍にいた。
 今、もう一度会うことができた。
 だから、もう会わないほうがいい。
「矢島。逢えてよかった。オレは……そう思っている」
 あのとき、どんないい時間を過ごしたのか。

 ……明日もいい日だろう?

 夕日が金色に輝いているから。
 金色の潮風が二人を包んですり抜けていくから。
						 

 背中に入り日の残りを感じてバイクを走らせていた。
 矢島はオレを見送ったんだろう。
 だけど、振り返らない。
 互いに進もうとした道がある。
 今この場所はもう、お互いの居場所じゃない。
 走りすぎて周りが見えなくなって、少し立ち寄った、
「過去」という名の給水所。
 スピードを落として初めて気付くことがある。また
違った景色がそこにあることに。
 そんな風に、少しだけ。迷ったときに立ち寄れる場
所があった。それだけのこと。
 そこにはいくつもの道があるくせに、戻る道だけが
なかった。
 今行く場所は、これまで来た道。
 1人じゃどうにもならない。
 杏子。千夏。なつき。ほかのみんな。
 そんな道を、選んだ。
 夕日が完全に沈んだのだろう。少しずつ闇に変わる。

《ネオンよりも輝くのが、金色さ》
《お前の髪も……金色だ》

 そんなことを言った奴がいた。
 あいつはまた、どこかに行ってしまった。
						

 月曜日。「私」が教室に入ったのはちょうど昼休み
だった。
 金曜日はサボった。土日の部活も休んだ。
 ……さすがに部活は休みの連絡を入れた。
 何も言わずにバイクで遠出したから、下宿先の遠縁
にあたるホゴカンサツカンのおじさんにかなり説教さ
れた。
 教室の戸ははじめから開いていたから、戸の開く音
で変に注目されることはなかった。代わりに気付いた
順に微妙な視線を向ける。
 あまりいい気持ちはしないが、半年前ほどじゃない。
 杏子も千夏も見当たらない。
 あてがはずれた。
 いちばんはじめに盛大に叱られておこうと思ったの
に、それが後回しになると面倒になる。
 なんだかつまらなくて、少し乱暴に席に座った。そ
のとたん、後ろから誰かに圧し掛かられて潰れる。
 お、重い。
「稲葉ぁ? 何やってた、無断欠席して」
 バスケ部の裕美。
 裕美の勧誘で、今バスケ部に所属している。
「もうすぐ大会でしょうが。レギュラー落とされるぞ」
「裕美……重い」
「失礼な。稲葉ほどじゃないっての」
 そりゃ、身長差があるからだ。小柄で動きの素早い、
そして器用な裕美は先輩たちからも一目おかれている。
 たぶん、そんなに体重がなくても、重いものは重い。
 そんなことを思いながら、杏子も千夏もいなくても、
とりとめなく、フツウに過ごせるようになってきてい
ることに気付く。
 そういうものだろう。
 何気なく、自然に、変わっていく。
「葵っ。もしかして今来たの?」
 杏子が教室に入ってきた。
「人が風邪引いてる間に、旅行だって? ちょっとく
らい、心配しろって」
 千夏が恨みがましい声で言う。まだ少し、元気がな
さそうだ。……メールするの忘れていた。
 「私」の日常。
 それはきっと少しずつ、これからも変わっていく。
気付かないうちに。
 私が望むなら、きっとよくなっていくんだろう。
 みんなそう思っている。
 同じことを、思っている。
						 

 人込みの中でやっと見慣れた顔を見つける。
「なつき、こっち」
 放課後。久々の部活のを終えて、ドーナツ屋さんで
待ち合わせた。この時間のドーナツ屋さんはちょっと
込み合う。
 疲れてドーナツなんて甘いものは胃に入らないから、
帰宅中に寄っても、ドリンクを頼むだけだ。
 今日も、アイスティーの氷を少なくしてもらって、
ストローなんてまどろっこしいからそのままグラスか
らがぶ飲みする。
 そんな私にあきれた顔で、なつきはカフェオレのカ
ップを両手で包んでいた。
「葵、会えたの?」
「……まぁ、ね」
 たくさん話すことがあるような気がしたのに。でも、
実は何も話すことがないのかも知れなかった。
「ちゃんと、あいつは……生きてるよ。全然ね」
 うまく言えない。
 杏子や千夏にも、伝えようとしたけれど。
 誰にもうまく言えていない。
「もう、気にしないでおこう。あいつはもう、……」
 そう、となつきはうなずいた。
 矢島と話したことなんて、ほんの少しだった。それ
なのに、どうやって言えばいいと困るのはなぜだろう。
 なつきだけじゃない、杏子も千夏も「別に無理に言
わなくてもいいから」なんて態度を取る。
 別に、そんなんじゃない。言いにくいわけでもなく、
本当のこと、伝えておきたいと思うのに。
 ……でも、ありがたくその厚意に甘えておこう。
 今は言葉にならないけど。
 いつか、みんなに、伝えるときが来る。
 きっと特別な言葉じゃなくても。
「なつき。私は……なつきの傍にいてよかったって思
う。たぶん、後悔はしない」
 グラスの底に残ったクラッシュアイスのかたまりを
噛みしめると、冷たい痛みが顎の付け根に走った。
 顔をしかめながら手元を見ると、杏子から借りた数
学のノートにグラスの水滴を落としてしまったことに
気付いた。
「わわわ」
 慌てた私に、なつきがポケットティッシュを差し出
した。
 ベンリだってこと? とその目が優しく笑っていた。


 お互いに気持ちを交わし合う。
 そんな存在が、嬉しい。


 気持ちをもらうだけじゃ、足りない。


 いつか。



 ……必ず、気持ちが返ってくるから。
 



                      -END-