I’m alive.
TOPルネサンスの風

 別に私は、体育のマラソンの授業が大嫌いなわけで
はないんです。そりゃあ、好きとは言えないけれど。


 八月も終りが近づき、二学期が始まって、まだ感想
文だって終わっていないけれど。
 とにかく、始業式に。
 みんな言うんです。
 体育、大変だね……って。
 文化系部のクラスメイト達はあまりいい顔をしませ
ん。
 疲れるとか、暑いとか、日焼けするとか、短パンを
はいたらふともも丸見えだとか、
(私からみれば気にするほど太い人なんてまずいない
と思うのですが)いろいろ理由ってあるようですが。
 それよりも、そんなセリフ言ってみて、私ってこん
なにつらい経験なんてないわ、あぁ、なーんていう実
生活でまず体験できないようなヒロイックにひたって
みる、若い女の子にしかできないようなひとつのファ
ッションなのだろうと考えたことがあります。
 そういう意味だから、まあ単位のために仕方ないか、
とみんな思うのでしょう。


 私が、体育のマラソンを大嫌いになれない本当の理
由……。
 今年、ちょっとだけわかったような気がします。


 アップの間。一学期はまだ少ないな、と思っていた
トンボが多くなっているのに気付いた。
 空に人差し指を立てれば、止まってくれるくらいに。
 止まったトンボの目の前で指をくるくる回している
と、トンボは危なっかしく飛んでいった。
 男子がトラックを走っている、と思ったとき、セミ
が鳴いているのに気付いた。いや、実はもっと前から、
ひょっとしたらグラウンドに出たときから気付いてい
たかも知れないけれど、今初めて聞き入った。そして
やはり夏なんだ、と思い起こす。
 先生がストップウォッチを片手に。そしてみんな走
り出す。
 途端、驚いたような声が上がる。
 視界の端に捉えたのは緑色のバッタ。今年初めて見
たと思う。茶色のなら、道路に飛び出してくることが
多いけれど。
 緑色のバッタは警戒心が強いという話を聞いたこと
がある。
 驚いて怯えたのは、むしろバッタだったのだろうと
思う。


 校舎の前をたくさんの足音が移動して行く。
 呼吸を整え始める。
 みんなよりもペースを遅くしてみた。
 教室棟を見上げる。きっと授業も調子付いてきたと
ころなのだと思う。 
 だんだん呼吸がしづらくなってくる。
 どうしてみんなは、そんなに辛そうな顔じゃないん
だろう。
 それを確認することも難しいくらい少しずつ離され
ていく。


 ここで、いつも。
 そうだ、ここでいつも、歩こう、ってちょっとだけ
考えてみるんだ。
 でも、いつも、考えてみるだけ。
 どうして。ときどき知りたくなって、答を探してみ
たけれど。
 とうとうわからないままだった。
 昨年までは。
 今年も、わからないまま……?


 角を曲がって。
 いつの間にか下を向いていた顔を上げる。
 だいぶん集団が縦長になってきている。
 一番前を走っているのが誰だか、もうわからないく
らいに離れている。
 呼吸が辛い。
 走る足に、呼吸を合わせる。
 意識しなくても、自然に、そうなる。
 だからって呼吸が楽になるわけてもないし、でも、
ずっと走りやすいような気がする。
 そして足が自然に、前に進んで行く。
 不思議に、必要以上にわかってくる。
 足取りも遅いかもしれないけれど、これが私のペー
スなんだ。充分すぎるくらい、納得できる瞬間。
 目の前が開けて。世界が広がったような。
 建物の影が途切れたんだ。空の青さがはっきりわか
る瞬間。
 それが。
 なんだか、うれしい。


 風がうっすらと汗ばんだ額をぬぐっていく。
 空き地の横を走り抜けている。
 2、3台の乗用車が風を残して視界から消えていく。
 その音が通り過ぎた後。
 まだ頼りない、小さな音が草むらから姿を現した。
 秋が近づいていることを教える、小さな音。
 もう、どの音がどんな虫の声か忘れかけている。ず
っと前。子供の頃に聞き慣れたはずの声なのだけど。
 熱く、ほてった体と耳には心地好い。虫の声。
 音だけでなく、まだ虫も小さいだろう。それでもも
う少ししたら。
 また、あの音を。毎年、晩秋には聞き飽きてしまう
けれど、聞かせてくれる虫たち。
 こんなばらばらな声じゃなくって。
 音響施設の中にいるような……。
 一匹のバッタが。歩道から草むらに戻ろうと飛び跳
ねている。
 どうしてか、ほっとするんだ。
 見えないけれど、草むらにはまだ、もっとたくさん
の虫たちがいるのがわかることが、ほっとするんだ。
 今、すごく心が落ち着いているような気がするんだ。
 どうしてか、わからないけれど。


 トラックが数台、騒音を置いて通り過ぎた。
 一度途切れたけれど、まだ虫の声が聞こえてくる。
 人の営みに、すぐ掻き消されるはかない声。
 なのに、それは。
 雄雄しく、自然の中の。
 したたかに控えめな。
 人に屈することを許さない、揺るぎない。

 虫たちの存在証明……。


 歩幅が小さくなってしまう、坂道。ちょっとした傾
斜でも、一歩一歩、踏みしめるように駆け上る。
 いや、かけのぼる、なんて言えないかもしれない。
 走ることが苦手だと、痛切に味わう。
 いつも、ここで、そう、昨年も、来年もきっと。
 でも走る足は止まらない。止めたくない。
 せっかく、走っているのだから。
 なんとなく、後ろの空き地から、虫たちの声が掛け
声のように感じる。
 なんだか、うれしい。
 空き地の横を走る間、私はそれを聞きながら走る。
 そんな癖がついている。
 そしていつも、小さな虫たちは、声を聞く人にした
たかな強さを持たせるのかも知れないと思う。
 小さな体で。あの響く声を大地に伝えることで。
 きっとそうなのだろう。
 そう思いたいのだろう。だからうれしい。
 そうだ。

 虫たちは生きている。この草むらの中で。
 大地で。


 木陰が空き地と住宅地の境を教える。
 その足元に数日前の雨水がまだ残っている。
 きっとこの辺りでもう半分くらいは走って来たのだ
ろう。
 ずっと前方に、赤いジャージが見える。いつの間に
かこんなに離されてしまったらしい。
 息が苦しい。体はそんなに疲れてないのに。
 交差点からバスが出てきた。
 停留所に立った人を乗せて、エンジン音と一緒に行
ってしまった。
 道路沿いを走るみんなを見て何を思うだろうか。
 今まで忘れていた言葉を思い出した。
 ……頑張りなさいね。
 停留所でバスを待っていた人が、声を掛けてくれた。
 初老の御婦人。
 昨年のことだ。
 それ以来、ここを走るときにだけ思い出す習慣がつ
いたのだ。
 頑張っていないように、見えたのだろうか。懸命に
走っているつもりだった。
 なだらかな傾斜にも思えないような坂道。
 みんなっこを走って行った。
 そして人に出会う。平日の昼を生きている人たちに。
 何をみて何を思うだろうか。
 走りながら、走るみんなを見ながら。
 人の営みに触れながら。
 息を切らして目の当たりにするのは。
 自分の弱さじゃないと知った。


 また角を曲がって。
 交通量が増える。広い道路。
 もうそんなことを意識するのも億劫になっている。
 考えることが。
 私は走っている。それでいいだろう。
 虫が。風が。
 車が。人が。
 走る私に出会って流れて行く。
 ただ走っているだけなのに。
 疲労を教える距離。
 道程の教える自然の物事。
 何もかも自然過ぎて意識するはずのものではない。
 ただありのままでいる。

 ありのまま、生きています。


 みんな、
 生命-いのち-の営み。
 今という日々を。営んでいます。
 自然な姿で。


 あとどれだけ?
 もう少しだと思う。
 少しずつ、一歩ずつ近づく。
 みんな流れていってしまった。
 そんな景色を後ろに置いて来てしまった。
 でも、実は置いていかれるのは。いつも自分。
 思考が鈍くなっているくせに。
 そんなことだけ、わかっている。
 もう、めんどうくさくなっているのに。
 ただ走りたい。何も考えずに、何も感じずに。
 その方がいいのだろう? でも。
 横断歩道を走る。ここの信号は無視していい。
 もう走りたくないのに。走っている。
 どうして!
 足が意思を無視したまま動いている感覚。
 その方がいいのだろう?
 自然と動いていく。
 それが自然だというのなら。
 置いていかれても。いいのだろう。

 それが自然というのなら……。



 急な斜面には木陰が作られている。
 この坂を走り登ることはできない。いつも。
 なのに、ほっとする。呼吸を整える。
 一歩ずつ踏みしめる大地がある。
 自然の中にいて。
 この坂に辿りつくまでに。
 疲労と距離。そしてこの坂。
 存在を確めるのに充分なくらいに、存在する。
 走っているみんながいる。
 走っている私がいる。
 ……走ってきました。ここまで。


 陽射しが降り注ぐ。体に暑く。
 白い校舎。
 グラウンド。
 セミの声。
 ……トンボが飛んでいる。
 一周してきたんです。戻ってきたんです。


 別に私は、マラソンが大嫌いなわけではないんです。
嫌いになれないんです、絶対。
 ……きっと理由は。


 生きて、いるから……。