はまなす
TOPルネサンスの風

 いつも、はまなすは潮風に揺れている。
 あの頃は気付かなかった。
 あの紅い花びらが、夏に揺れていること。
 いつまでも気付く必要がなかった……。
 潮風はもうあの紅いはまなすの匂いを届けてはくれ
ないのですか……。


 明日香はもう、高校1年生になっていた。
 いつの間にかあれからもう1年が過ぎているのだっ
た。
 この街に来て、1年。
 朝早い通学路に桜の花びらが風に舞っている。
 頬に優しいかぜを感じる。
 ……風が違う。今年も。
 海から遠く離れた街。潮風の吹かない街。
 未だに慣れないでいる。
 はまなす。
 かすかな記憶。砂浜に揺れる色は紅かった。
 記憶はどんどん頼りなくなっていく。
 遠ざかる、幼い記憶。
 ただ、思い出にはまなすは揺れる。


 ・・・どんな花だったろう?
 側にあるのが当たり前すぎて、覚えていない。
 いつも隣で揺れていた。
 だから気付かなかった。
 今、その当たり前の風景がわからない。
 失ったまま記憶に揺れる。紅色はどんな色だったろ
う。


 ・・・いつの間に咲いていたのか?
 夏、裸足で駆けた砂浜。毎年、毎日。
 その視線の片隅に紅い色が入ってくる。はまなすが
咲いている、漠然と考える。それだけ。
 自転車で海岸沿いの道路を走る。
 潮風を体いっぱいに感じて。
 いつもその目は紅いはまなすを折っていたはずだっ
た。そう思っていた。
 なのにもう、思い出は過去。
 風に香りを感じたような気がした。
 紅い匂い。
 何よりも紅い。


 ・・・はまなすの実がなったよ。
 いつも誰かが教えてくれた。ほんと。そうなんだ。
 当たり前に受け答える。
 海岸に行くと、本当になっていた。遠くから紅い色
の実を視線の片隅で捉える。
 いつものように潮風を感じながら。


 ・・・どうしてトゲがあるの。
 幼い頃、そう訊ねては困らせただろう。
 ビーチボールをはまなすに引っ掛けては、傷を作っ
て。あまりに小さい傷口がくすぐったくて。
 バラ科の落葉小低木。辞書にはそう載っている。今
はもう、答えはいらない。


 ・・・はまなす公園?
 砂浜の一画に造るらしい。そんな話を聞いた。
 そのときは何も考えなかった。
 はまなすはいつも潮風に紅く揺れているから。それ
が当たり前だったから。


 ・・・引越し?
 春、桜がつぼみを膨らませるころ。この街を離れる
のか、と頭が理解しても、体が納得しなかった。
 海から離れた街。想像つかない。
 それでもやっぱりはまなすが揺れている。
 どこに。
 海岸。
 あの、幼い頃、毎年駆けた砂浜。
 この間、公園建設予定地に決まったばかりの海岸。
 はまなすは揺れる。


 ・・・街の見納め。
 なんて言って、引越しの前日に自転車を走らせた。
 行く当てもないまま。
 気の向くまま、ペダルをこぐ。
 潮風を感じる。
 いつも、通った道路。明日から通らない道路。
 どういうことなのだろう。『いつも』ではなくなる、
ということは。
 明日になれば分かるのだろうか。
 視界の片隅に映るはずの紅い色を探す。
 季節は、数ヶ月も早いのに。
 探さずにはいられない。
 明日香は、海岸にさえ行けば、あの紅い色に出会え
ると錯覚していた。
 そんなはずはないのに、心のどこかで、期待してい
る。
 どんどん、近づく。
 もうそろそろ、見えてくる。


 視界の片隅で、捉えたもの。
 『はまなす公園建設予定地』。工事用機械。騒音に
掻き消される潮風。


 どこに?
 はまなすは揺れる。
 思い出の中に、何よりも紅く、紅く。


 ・・・明日は、きっと届く。
 はまなすの、紅い香り。
 潮風の届かない街。海のない街。
 1年前、はまなすは忘れていたのだ。
 紅く、揺れるのを。紅く、匂うのを。
 その香りが今、届くだろう。紅い記憶と共に。


 紅い、紅い痛みの中で、明日香は目を閉じた。
 未だ慣れない、桜の花の下。
 押し寄せる音は、時化の波音ではなかった。
 その身は鮮やかな紅に沈み、匂いと紛う。


 思い出のはまなすは、何より紅い……。
 遠くなる記憶。薄くなる紅。



 ・・・それでも、はまなすは紅い。