‐揮尚の大幟旗‐ 其の壱
TOP金色の輝きと空

     


 物語に始まりがあるとするならば。

「それ」は確かに「始まり」だった。

 事の起こり切ってしまってから後にやっとその意味
を知る。
 起こり切り、転がり回り切ってしまい、やっとその
始まりを知る。

 永い、果て。遠く、かなた。

 もうひとつの物語がある。


 銀色の輝きが舳先へさきにあたっては砕け、飛沫しぶきをあげて
はさらに綺羅綺羅しく光を照り返して来る。
 足元を渡るように波が起こって海船ふね航跡うしろへと抜け
ていく。
 水夫かこたちは楫子頭かしらの叩くに合わせを漕ぎながら、
いつしかいつものように櫓歌うたう。
 それを聞きながら、海原の輝きを飽かずに眺めてい
た。高いところで一つに結わえ、布被せて括り纏めた
はずの髪のほつれを、潮風がそっと撫でてはなびかせ
ていた。
 どこまでも広くはろばろしい海原が、夏の陽射しを
船縁ふなべりにはじかせているようだ。
 その眩しさに目を細めながら、だがこの豊かな海原
のすべてを慈しむようにいとおしむように柔らかな笑
みを浮かべている。
 彼はこの大船うみふねの皆の中では一番若いけれども、水夫かこ
たちの主であり船長おさなのだ。それで、この海路うみじ路読みちよみのため舳先に在った。
 今彼がもたれている船首ふなくび装飾かざりや掲げられた大幟旗はた
は彼のための図案である。黒地に金と真緋を刺繍で浮
かび上がらせた獣の紋章しるしは彼のかばねに賜ったもの、だが
許された貴色いろは二色のみだから、彼の父のそれはたのよう
に華美なところはない。
 遠目の利く者、否、そうでなくとも、この紋章と大
幟旗を目にした者は南海に揺るがぬ王国の大船である
ことを悟る。またさらに訳知りの者などは船長までも
言い当てるだろう。
 尚氏大僕しょうしだいぼく若君きみ大船うみふねである、と。
 彼の身なりは若君などと呼ばれる貴人あてひとのものではな
く苧麻からむし肩衣かたぎぬ姿、だが帯差した短刀の鞘や柄に施され
た装飾かざりはそれに相応しい見事なものだ。
 彼は碧玉あおるりよりも深く、真珠しらたまよりもきらめく海原を思
えば、貴色の許しも短刀の飾りも褪せて取るに足らぬ
ものであることを知っている。……そもそも海原がな
くば、それを渡ってこのようなたからを手に入れることさ
えもできぬ。
 みなとに残る者たちを豊かにするのはこの海原と、大船
だった。
 そのために海原を越えて行く先の湊では、どんな大
船でも歓待された。荷揚げを生業なりわいとする男達、もてな
しの娘達、飯炊きのばば、品の目利きをする土祖じじ、皆こ
ぞって水夫かこたちを取り囲む。……どんな端下の者でも
異国とつくに珍玉めづたまの一つや二つを懐に持ち帰るから、それが
目当てなのだ。
 ましてこの大船の目指す湊は皆の生国ふるさと、その帰りを
祝っての宴は嘗烝祭あきふゆのまつりよりも盛大で華やかなものとなる
だろう。
 水夫たちの漕ぎにも力が入るというもの、この辺り
までくれば帰路もあとわずかなのだった。あと一両日
のうちには半年余りも離れた郷里の山並みが見えてく
る。……そして残してきた愛しい人たちに逢えるだろ
う。
 彼は腰に下げた布袋をそっと手で触れる。布越しに
わかるその形を確めた。この帰路の海で、幾度も繰り
返したように。
「……若」
 呼ばれて、慌ててその手を放した。声の主は分かっ
ていた。それで、気を取り直して命じる。じい、と。
「帆を張れ。風が出てきた。直に強くなる。うまくい
けば帰りも早くなるだろう」
 髪に白いものが混じり、白い髭を蓄えた爺は、その
髭をわざとらしくしごきながら感心したようにうなず
いた。
「いい読みです、若。……もう爺めは用済みですかな」
「爺はこの船を降りては暮らすあてがなかろうが」
 爺はこの大船で一番の古株ではあったが、老人とい
うにはまだまだ早い。代々の臣下で、若君の父が生れ
る前から仕えてきた爺は、波音とその揺れを子守代わ
りに海で育った。この爺に彼は海を学んだのだ。
 潮も空も船も帆も、恐ろしさも美しさも、果てなく
奥深い海を知ることは切りがない。その難しさこそが
海の魅力なのだということを何よりも教えられたのだ。
 爺のその嗣子むすこもまたこの船上にあり、彼の伴人ともびととし
て仕えている。生涯の殆どをこの海で過ごした爺には、
ほかに身寄りもあてもなかった。
「なに、尚家の若君、把栩はく様にお仕え申していたと言
いますれば、いくらでも隠居先が作れましょう」
 爺は笑いながら水夫を動かし始めた。帆を張らせる
のだ。
 把栩は改めて空を見上げた。野分のわきのような大風とな
る雲は今のところ見当たらない。風があれば帆を張り
助けにもなるが、強すぎてはいけない。大風は波を荒
れ狂わせ帆を柱ごと折ったり、船腹はらに受ければ転覆す
ることもある。この季節は気を抜くことはできない。
 腰下げた袋の中身は、把栩にとって失えないもので
あったから、この数日風雨のないことを密かに喜んで
いた。
 程よい雨ならば飲み水にもなるし風で船足が早くな
る。それでも把栩は風雨のないことを望んだ。いつも
よりも本当に風雨の少ない航海わたりとなったのはそのため
かも知れず、風に頼れないとき、水夫は潮を探し自ら
漕ぐよりない。
 帆が張られて風を受け、早くなった船足にわっと歓
声があがった。
 目指すは尚家所領の県都みやこ伊都いと。国の交易あきなりの間口と
して随一の栄えをみせる大都、把栩の父、托陽たくようの統べ
る湊街まちである。今頃は条風きせつふうを頼みにした、海原を渡る
交易船あきなりのふねが集い、その船首くびを美しく競いあって並べてい
るだろう。
 その光景けしきは把栩の矜持を支える誇りの源、そして彼
を主人あるじと見定めた水夫たち、伴人ら随従の誇りそのも
のだった。
 抜けるように青空に白い海鳥とりが数羽群れているのを
見た。おかから離れ過ぎないこの鳥たちが、長い旅船たび
の終りと始まりを告げる。始まりの別離わかれと終りの労い
を。始まりの切なさと歓喜、快哉、そして終りの安堵
と誇らかさ。船乗りでなくば味わえぬその感情の機微
を胸に去来させる白い海鳥を、だが彼は訳もなく愛し
いと思った。
 決して船旅の供とならぬ海鳥を、愛しいと思った。
						

 伊都いとは元は王の直轄領、御県みあがたであったが、数代前に
尚家が賜った。
 民の多くがすなどりを生業としていた小さな湊は、深い
入り江に造作されて大船うみふねの並ぶ大湊みなととなった。
 近隣諸国の商人あきなりのひと水夫かこたち、異国とつくにの者が街を歩き、
交易あきなりの恩恵を受けた民が皆豊かに暮らす伊都は、この
国にあって唯一最大、人の住まう大都みやこ、とまで謳われ
て「尚都しょうと」と呼ばれるようになった。
 尚家の当代、おさ托陽たくよう交易人あきなりのひとたちの去来いききに心砕き、
また自らも大船を海原に駆ることで人とたからを動かし、
その財で街を整えることで民の信用と思慕を得てきた。
 この尚都を広く知らしめたのは彼の功績であり、彼
の嗣子むすこ把栩はくもまた十五の若年ながら海を渡り尚都に
益をもたらしている。
 尚氏の賜ったかばねは「」、托陽自身の官職は王の身
辺警護にあたる僕臣ぼくしんの長、大僕だいぼくである。位階くらいでいえば
中の下、さほどの高官ではないが、平時から王の側近
くに仕えてその信頼を得て「揮尚きしょうの托陽」といえば欠
けることのない素晴らしい人物の意をもって称えられ、
その代名詞のようなものになっていた。
 把栩は二年前に刀帯たちはきの儀を済ませていたが、未だ官
位を授かっていない。無位のまま王都みやこ王宮みあらかに参内す
ることもないわけではないが、祭典まつり大宴うたげの際の楽曲
にしょうの合わせ手として召させるほかに王宮に赴くこと
はあまりない。
 托陽は把栩の出仕のために散財することを嫌った。
官位を得るにはそれなりの高官の推挙が要る。その謝
礼の相場は驚くほど高額で、大船が一度の航海で得る
財ほどにもなった。科挙に向けての学問を強いられた
こともなく、教師を雇ったことさえない。
 父の考えは知らぬが、把栩自身は「揮尚」の名をい
づれ継ぐときが来るならば、そのときまでにははっき
りと父を超えていたい、それが尚家の若君の密かな願
いだった。
 そのためにはこの海を知ることが必要だった。幼い
頃から托陽の大船に乗り、交易の湊を渡っていたが、
刀帯の儀を終えて己の大船を与えられてからは一年の
うちの大半を海ですごすようになり、伊都にあるのは
三月に満たない。
 今回の船旅たびはこれまでで一番長いものとなり、大海うみ
に散らばるように在る幾つもの島々を巡って取引を繰
り返し、おかでは、めづらかなものを手に入れてきた。
 島々にとって海原を越えてくる大船は、陸の恵みを
もたらす。どの島でも把栩は島長おさに大仰なもてなしを
受けた。初めて依った島も多かったが、どの島でも托
陽を知らぬ者はなかったし、その嗣子むすこと知って大きな
歓待を受けた。中には顔を見て言い当てる者もあって、
把栩は父の成し得てきたことの大きさと超えねばなら
ぬものの大きさを目の当たりにし目の眩む心地がした。
 だが荷の取引となれば歓待の大きさとは話は別で、
どの島でも厳しさを味わった。王宮などでは「揮尚」
など王から離れればただの商人あきなりひとだ、などと揶揄もされ
ているが、それは正しくはない。少なくとも「ただの
商人」となって財を得ることの難しさを知らぬ者がそ
れを言うのは愚かなことだと把栩は思っている。
 そのただの商人がいなくば、太刀のを飾る玉石たまの
ひとつも得られぬのだ。そう揶揄するような者に限っ
て希少な玉石を手に入れたがる。……多少値をふっか
けたとしてもそれと気付くこともないものだ。
 厳しい取引の中で、把栩は数よりも見た目の美しさ、
質の良いものを多く集めた。その場で損をしても、国
に戻れば元ではすぐに回収できると踏んだのだ。
 爺はそれも手立ての一つでしょう、と言って苦く笑
った。他の手を使ってほしいのだとは分かったが、今
の把栩ではそれは難しいことも爺は察していて、だか
らそれ以上は言わない。ただ思うようにやらせてくれ
てどうにもならなくなるまで手助けをしないのが爺な
のだ。
 その爺が止めなかったところを考えると、まだどう
にもならぬわけでもない、仮に益が薄くとも、勉強代
だともでも思っているのだろう。
 少々悔しくもあるが、それは己の未熟なためで仕方
ない。だが次の取引ではそうはさせぬよう、駆引きを
身に付けねばならぬ。
 そんな思いを抱えながら島の市をそぞろ歩いていた
とき、把栩の目に入ったものがある。
 歩揺ほようの付いた釵子かんざしである。真珠しらたまを中心にあしらい、
翡翠ひすいを周りに配し、歩揺は紅珊瑚装飾かざり。使われた玉
も見事なものだが、これだけの細工を施すにはよほど
熟練てだれ技術わざが要る。それが無造作にも見世棚みせさきに置かれ
ていたのだ。もったいつけて最後に店奥からうやうや
しく出してくるような品だというのに。
 把栩は思わず足を止めた。居眠りをしていた棚番みせばん老人じじを揺り起こしてあたいを聞いた。
 老人は把栩の身なりを頭の上から足先までを不躾に
見定めるように目つきでじろり見てから、胸元を指し
てその勾玉まがたまと代えられる、と言った。
 それを聞いて耳を疑い、同時に未熟さをからかわれ
たのだと思って、顔をしかめた。
 把栩の勾玉は碧玉あおるり、さほど高値の付くほどの質では
なく、その曲がりの大きさからひと昔は型の古いもの
だと誰が見ても分かる。おまけにいつも身に付けてい
るからいつのまにか擦れて雲ってしまっているのだ。
 ところが老人は笑った。そんな顔なさることはねぇ、
こいつは見る目のある御仁おひとにしか売らねぇんだ。お若
いのにこいつの凄さがお分かりとは、大したもんだ。
 これだけの装飾かざりをつけた品を並べておけば、店奥に
は余程の品が在ると思われる。その店奥から出した見
栄えだけは良いものを買って行くような輩がいる。
「あんたぁ、はじめからこの釵子かんざしをお求めになった。だか
らお渡しするんでさ。良い目利きだ」
 老人は把栩を店裏の苫屋とまへと招いた。通りと違って
雑然とした界隈の、どこにでもあるような苫ではあっ
たが、土間の奥に一応の上がりしきがしつらえてある。
 この高床となっているのはこの辺りの島に普通で、
少々の高波で島が潮水みずに浸かっても困らぬようにして
あるのだ。島によって少しずつ高床の形が違ったりも
するが、この苫の形はこの島によくあるものではなく、
苫屋全体を高くしてあるわけではなかった。
 男が入ってきた老人と把栩に気付いて手を止め顔を
上げたが、また元の作業に戻っていく。男の手元には
細工物、それを小さな手槌で叩き延ばしながら整えて
いくのだ。技師わざひとである。
 ではこの男があの釵子かんざしを作ったのだ。
 把栩は老人の腰掛けた反対側の空いた床板に座した。
「この男の作った物を、海船ふねの荷にしたい」
 老人はだが、首を振った。
「釵子かんざしはお渡ししますがね。……この細工の良さはこ
いつにしかできねぇもんで。右から左へ、てなこたぁ
してないんですよ」
 男は海の時化たある日、小舟で流れ着いた。言葉が
違うのでおかから来たのかと思い、陸の者と会わせたが
通じない。余程遠くの海から流れたらしかった。
 老人の孫が懐いたため、しばらくのつもりで置いて
やった。男はいつからか見世棚みせさきの品に細工を施し始め
た。付いた玉を挿替すげかえ、歩揺ほようを付け、叩いて整える。
そのうちに鍍金やきつけ箔貼はくはり象嵌はめこみ螺鈿かいすりまでも手掛けるよ
うになった。どれもこれも見事な細工で、流される以
前の生業だったようだ。
「それでここに工房しごとばを建てた、てぇわけなんですよ」
 把栩から受取った勾玉はまた男が磨きなおして手纏たまき玉釧くしろ首環くびのわ佩飾はきものなどに仕立て直す。だから損はし
ないのだという。
 今でも男の言葉は片言で、殆ど話すこともない。こ
の技術わざを弟子をとって教えることはできにくい。大船(ふね)
の荷となるほどのまとまった数を用意するのは無理だ
ろう。
 把栩が他の島の言葉で話し掛けて見たが、男は困っ
た顔で笑うばかりだった。
 碧玉あおるりの勾玉を首から外して老人に渡し、釵子かんざしと取替
え、把栩は市の通りに戻った。
 先ほどまでの悔しさは不思議と消えた。この海のど
こかに男の生国ふるさとがある。未だ見ぬ国、島が在る。
 そこに在る者たちは托陽の名を知らず、素晴らしい
技師わざひともいる。
 急に森から開けた草原に出たように目の前が広がっ
た気がした。
 ……行けぬところではない。
 人が海に流されて生き延びられるのはせいぜいがひ
と月、海船ふねならばさほどもかかるまい。男が流された
季節、潮の流れで方向むきは絞られる。
 把栩はそれから出航ふなでまでの間、足繁く老人の見世棚
と男の工房に通った。老人に呆れられるほどに根気よ
く男いに話し掛けた。把栩はいくつもの島の言葉を解
しているから。
 そのいくつかの島の言葉に似た言葉や表現があれば、
その島の先に求める男の生国があるはずだった。
 だが流されてから十年近く経っているというのに男
の話す言葉はたどたどしく、舌足らずに聞こえる。ど
の島の言葉も特に分かるようではない。それは把栩が
考えるよりも遠方から男がやってきたというあかしだった。
 諦め切れずに、男から幾つかの言葉を教えてもらっ
た。いつか、というただの希望のぞみと若者らしい好奇心で
あって、それらと現実うつつの間にある大きな隔たり、叶う
にはあまりにも乗り越えねばならぬことの多さは、把
栩は承知していた。
 船長おさの一存であるかなきか、行く先も分からぬよう
な船旅たびができるはずもない。国を氏をかばねを家をうからを、
すべてを捨て、そして私財たからのすべてをそのために注ぎ、
水夫かこたちを一から集めなくてはならぬ。
 それほどのことが今の把栩にできるはずもなく、ま
たせねばならぬ必然性もない。
 それでもこの広い海の更なる広がりを知り、その先
にあるものに惹かれた。把栩には、それは入り日の海
……金色に輝く海原にも似た、決して誰にも冒すこと
のできぬ無垢の存在のように感じられたのだった。
						

 黒地に金と真緋あけの獣を図案した大旗はたを掲げた海船ふねおかの稜線を目にしたのは翌日の午前ひるまえのことである。
 恐れたような大風はなく、代わりに風向きには恵ま
れず、主帆おもほ副帆そえのほを調節してはみたものの、皆の目に
広がったのは尚都よりもかなり南である。それをこの
海に生きる者たちに教えるのは樟木くすの巨樹だった。
 正丁おとなが四五人ほど両腕を広げて囲んでも手の届かぬ
この樟木は浜からさほど離れぬ所に在り、周りには野
原と低木が広がるばかりで他の大木がないため、海上
からよく見える。
 水夫たちはに合わせ大船うみふね船首くびを北に向ける。帆
は横風を受けぬように大半がすでに畳まれていた。あ
とは陸に沿うように北上する潮流ながれをうまくつかめば、
夕方には宴が待っている。
 把栩は船縁ふなべりから少しずつ左に見える方向を変えてい
く巨樹を見つめていた。
 あの樟木の程近くには華家かけの寮がある。そしてそこ
に住まう女性ひとを想う。己のこの布袋にある歩揺ほようのつい
た見事な細工の釵子かんざしを気に入ってくださるだろうか。
 彼女の美しく結い上げた艶やかな髪には大仰な装飾かざり
はいらぬ。繊細で、それでも華美にならぬ、控えめな
愛らしさ。そういったものこそがよく似合う。彼女を
言い表すための言葉そのもの。そんな釵子を、把栩は
初めて見つけたのだ。
 すぐには会えない。帰還を祝う儀、宴、荷揚げを司
る官吏に一覧の提出、そして一度王都みやこへ赴いて帰還の
報を奏上し、御調みつぎの献上をせねば海船ふねの荷が私財たからとし
て認められぬ。だがそれらに費やされる日々は彼女を
想ううちにのように過ぎていくはずだ。これまでの
船旅たびがそうだったのだから。
 大岩の岬に樟木くすが遮られて見えなくなってもまだ岩
の向こうを透かし見ようとする主人あるじに、伴人ともびとが近づい
てきた。
「若。気持ちは分かりますがね、おかが見えて皆士気が
あがってます。もっとそれらしくして偉ぶってみせて
くださらないと。……言われてしまいますよ、『まぁ、
若君はしばらく振りだというのにちっとも大人びては
くださらいのだわ』なんてね」
 女のしなを作り声を真似てみせた気心の知れた伴人
に、船長おさは人目憚らず顔をしかめる。
「浩阮こうげん。主人をからかうのは船室だけにしろ。だいた
い偉ぶるというのは、どのようにすればよいのだ」
「とりあえず腕組んで眉根を寄せてくれていればいい
んです。いくら頭の中身が姉君様のことばかりでも、
それならばばれませんからね」
 浩阮は爺の嗣子むすこ、把栩の腹心と言ってもよい存在
だが、少し主人あるじ」の心情に立ち入りすぎるところがある。 
彼にとっての姉君への思慕は、腹心の伴人にも掘り起
こされたくない、不可侵の女仙を想うように高潔にし
て高尚なものへの憧憬にも似た想いだった。いついか
なる時に御会いしようとも、時の流れもよわいとも無縁か
のような永遠の少女を思わせる儚さ、清楚にして可憐、
それでいて大人の思慮深さと芯の強さを合わせ持った
美しさ。何もかもすべてを投げ出さねばならぬときが
いつかきっと来るのだとしたら、それは姉君のためな
のだろうと思う。彼女の黒目がちで濡れたような瞳が、
把栩にそう思わせるのだ。
「……まぁた。鼻の下が伸びてますよ、若。このひと
月の間に御会いになれますでしょう。そろそろ船室に
でそれらしい格好になってきてください」
 浩阮のいうそれらしい格好というのは、苧麻からむし肩衣かたぎぬ
ではなく「揮尚きしょう若君きみ」らしい絹の大袖をいくつも重
ねて、湊に船寄せてから船室からゆったりと現れろ、
ということなのだろうと察しがついた。
 浩阮は主人たる若君が十五を超えて未だに官位を授
からないのは、奔放で気さくに過ぎる人柄に起因して
いるのだと勝手に思いこんでいる。
 浩阮の亡き母方の祖父は高位を賜っていたが官職を
与えられず、そのままあらぬ疑いを掛けられて失脚し
たのだという。それでも位階を剥奪されなかったため、
嫡孫すえである浩阮は二十一を数える来年には位を賜るこ
とになる。そうなれば主人のはずの把栩よりも公式の
身分の上では上位となってしまうのだ。
 もっとも位を得ても官職がなくては王宮に出仕して
も意味はない。名ばかりのことになるのだから、今ま
でと何も変わることもない、だから気にするな、と把
栩は妙な慰めをした。浩阮からすれば気にしてくれな
くては困るのである。
「浩阮、姉君のことも位のことも、もう少し的の得た
ところで気にせねばならぬだろうが」
 位を賜ればそれに応じたろくが与えられる。それは浩
阮が陸の湊で交易あきなりに携わりながら暮らすには充分な額
といえた。この大船を降りれば行く当てのない父親の
ために今から隠居先を作っておくこともできる。己の
伴人に、そういった考えが浮かんでもおかしくないこ
とを把栩は承知していた。だが爺も浩阮も彼の大船に
なくてはならぬ存在なのだ。
 浩阮が主人と官位の板挟みに悩むとすれば、本来そ
ういった観点からの悩みになるはずなとだと把栩は思
うのだが、浩阮はそのあたりの感覚がずれていた。
「若は昔から大変物分かりのよろしゅうございます。
臣下の苦言を広くお聞きくださいますところとか、ね」
 折りよく主帆柱はしらの梯子に物見に上がった水夫の一人
が大声を上げた。
 尚都が見えた、と。
 そろそろ船長おさは船室で衣服を改めねばならぬようだ。
 懐かしき慕わしき生国ふるさと、尚家の治める大都みやこ、伊都。
大船は歓声を上げながら波を滑るように進んでいく。
						

 この南海の王国の歴史はそう古いものではない。遡
ってせいぜいが十数代の王を数える程度で、王がその
御在所いましどころとして王都みやこを定めてからは両手に満たない。
 王都の北を大河が緩やかにだが滔々と流れ、下流で
いくつかの支流に分かれる。この国の交通運行の基幹
を成していると言えた。
 だが内陸まで大船で入り込める大河の存在は攻防に
おいて優れているはずもない。そこでこの大河の河岸、
そして河口を王の直轄地御県みあがたに定められ、王の臣下、
兵卒らが防衛の任につくこととなった。
 伊都いとももともとは、この大河の支流の一つが河口に
入り江を深く形作った場所にできた、小さな湊のむらに
過ぎなかった。
 この入り江の湊、伊都の守護防衛に任じられていた
のが尚氏である。
 そのおや、尚梨鳴りめいはこの伊都の地相の良さに気付いた。
 伊都は三方を山並と渓谷に囲まれ、東に河川の成し
た州が深く大きな入り江の際奥に扇状に広がっている。
 その南は断崖が大きく海に張り出し岬を成した。
 梨鳴は麾下の兵卒、臣下、伴人、族人うからひとら大勢で伊都
に入り、以来尚氏はこの地を本拠としている。
 数代かけて湿地を拓き、また入り江に作事を続けて
大船の停まる大湊を造成した。
 いつしか大海うみを渡り行商あきなりたからを成し、その御調みつぎの多
さと南海の島々、異国とつくにとの交易あきなりの価値を見いだした王
が尚氏にこの地を下賜した。
 それが四代前のことであるという。
 把栩の父、托陽は交易路をさらに広げ、行商人あきなりのひとが集
まるように市での税収を抑えた。伊都の街は大きく膨
れ、活気に満ち溢れている。
						

 尚氏大僕の若君きみが目に伊都の街並を映したのはひるの
頃である。海船ふねから起こった大きな歓声でそれを知り、
慣れぬ大袖の衣をたくしあげ引きずって船室を出た。
美しいいらかが陽射しを受けて照り返し碧玉みどりの光を輝かせ
る。この大海にも負けぬその輝きが白い土壁をいっそ
う際立たせていた。帰還の晴れがましさをいよいよ感
じさせる輝きを皆が見つめた。感極まって泣く者もあ
る。愛しい者たちの待つ、誇らしき己の生国、その随
一の大都みやこ。比類無き主人あるじの治める尚都しょうとへと彼等は帰還
したのである。
 把栩も皆の感情の昂ぶりはよく分かる。できるなら、
両手を突き上げて快哉を叫びたい。だが、この大袖の
衣の動きづらさ長く引きずらねばならぬ裾。何よりも
それは浩阮にきつく言い渡されたためにそれができな
い。おかからこの海船の大幟旗はたが見えたなら、湊には大
勢の者たちが駆け寄ってくる。出迎えの者、荷捌きの
者、その者たちを相手に小遣いを稼ぐ売り子、そして
女たちは台盤所に駆け込んで宴の仕度を始めるのだ。
 彼等のために、揮尚の若君きみは威儀のあるたたずまい
とやらを見せつけねばならぬのだという。
 そうは言っても、尚都の者たちは皆、把栩の幼い頃
を知る者ばかり、今更という気がしないでもないが、
それで浩阮の気が済むのならば王都からの市舶司やくにんくら
いには「それらしく」見せてやってもいい。
 だが、喜びを胸の内に秘めて耐えようとしても緩む
頬ばかりはどうしようもない。こればかりは浩阮に文
句など言わせない。
 だから把栩は浩阮の顔をちらりとでも見やったりは
しなかった。どうせ、己の伴人の顔も緩みきっている
に違いないのだ。
 だから、その異変に気付いたのは浩阮だった。
 彼もこの尚都への帰還を言い表すことのできない喜
色の中へとその身を投じるつもりでいたのだ。そのた
めに、耳を凝らして、歓声の中に「音」を探した。
 彼の喜びは湊と尚都の街並みを眺め渡すだけでは湧
き上がってこない。幼い頃から言われ続けて、この頃
やっとその本当の意味を理解し始めた父の教えのため
に。
 それで、浩阮は甲板にあるはずの父の姿を振り返っ
た。慣れぬ衣に着られて緩みきった頬をしている、己
の主人あるじ船長おさではなく。
 見つけた父親の表情かおはいつものように静かで、穏や
かだった。だが、目が合うと僅かに一つ、ゆっくりと
頷いた。……浩阮は意思の疎通を確認した。
 見るものがあればその意味の多さに迷うことだろう。
異変に気付いていることを知らせたものか、喜びの中
にいる主人に伝えるべきかの判断か、それともその異
変についての対処を任せたものか、他の意味があるの
か。
 だが彼等親子にはその多くの意味のいづれかを確認
する必要などなかった。それはこれまでも同じ、この
先何が起ころうとも、彼等の願いは一つだけだ。
 もう一度浩阮は祈るような気持ちで耳を澄まし凝ら
した。だが、あるはずの「音」が、ない。
 銅鑼の音である。
 陸ではいつ戻るかも知れぬ海船を待つ見張り役が海
を眺めている。街中にその帰還を知らせるために銅鑼
を鳴らすのだ。その音を聞いた者が街のあちこちでま
た銅鑼を鳴らす。それを合図に街が一斉に動き出すの
だ。銅鑼の華やかな高鳴りは遠く海上、海船にまで
届く。その音を聞いて初めて、爺も浩阮も帰還の実感
を得て喜びと安堵を得るのだった。
 銅鑼さえ応えてくれていれば、この湊に入るまでの
僅かの間に何かが起ころうとも街の者の手を借りるこ
とができるのだ。若君を陸に届けることが。
 見上げれば晴天、風も悪くない。二人の危惧は空模
様ではない。
 おかで……何かが起こったのか。
 このまま入り江に大船ふねを進めてよいものか。
 銅鑼の音の無いことで危惧を抱くことができても、
その起こった事態までを判断するべき材料が無い。
 だが二人の親子は僅かなやり取りで、成すべきこと
だけは決断したのだ。
 爺が楫子頭かしらを叩いた。一つ二つ。三つ四つ。
 その音に合わせて、快哉に酔っていた皆がばらばら
と動き始めた。櫓台ろだいに戻る者、帆縄を引く者、船室を
片付ける者。その間を縫って浩阮は帆柱の縄梯子を登
った。入り江や湊、街を見渡すために。海にある者と
して浩阮は遠目が利く。
 だがそれは遠目が利かずとも分かる異変だった。
この条風きせつふうの陸に向かって吹く時期に、あるはずの大船
が全く見当たらないのだ。それどころか、漁(すなど)りの小舟
一つない。午時ひるどきだというのに、炊屋かしきやや台盤所から昇っ
ているはずの竃の煙り、火気ほけがない。
 浩阮は足元を見た。甲板は静まり返って、鼓の音だ
けがある。いつの間にかその叩き手は楫子頭かしらに変わっ
ていた。父親は若君の傍らに寄り添っている。
 把栩は暗愚な船長おさではなかった。おそらく、異変にも
すぐに気付いた。……だが船長の緊張はすぐに皆へと
伝わってしまうものなのだ。そういった腹芸のできる
若君でない。
 帆柱の縄梯子に取り付いたままの浩阮を見上げ、把
栩は船室へと入る。降りた浩阮は父親に向きあった。
「船足を」
 爺は首を振る。すでにこの大船は湊から見える。足
を遅めたところで不審に思われるだけだろう。何があ
るか分からないのだ。
「……若に、そう言われてな」
 爺はこの上なく渋い表情表情かおをしていた。確かにそれは
正論ではあるが、策を練る間がない。浩阮は勢いつけ
て船室の戸をくぐった。
 彼の主人あるじは椅子に深く背もたれていた。それで浩阮
は無理にでも主人が落ち着こうと試みていることに気
付いた。……ならばなぜ船足を緩めない。
「街に戦火いくさびの跡は?」
「否」
「王師おうしの軍卒は?」
「否」
「尚家の……揮尚の大幟旗はたは?」
「……否」
「民、か……」
 これには浩阮は答えなかった。それは答を求めてい
るようでなく、ただのつぶやきのように感じられたた
めに。
 街に戦火の跡もなく、王師もない。ならば他国との
戦でもなく政争が起きたわけでもないだろう。だのに、
揮尚の大幟旗が降ろされている。
 街を見下ろすような少し小高くなった丘に尚家の邸
宅がある。そこに一際高く掲げられているはずの大幟
旗。
 この南海の王国から大海へと駆ける海船の上で風を
受けてはためき、尚都の丘に敬愛こめて朝な夕な見つ
められる。黒地に許された貴色いろは四色、賜った獣の図
案は華美にして壮麗、麾下の者はその図案の一部を己
の幟旗はたに取り入れることを許されるを至上の喜びとす
るのだった。
 民の尊崇と信頼、思慕、そのあかししるし。それが揮尚の
大幟旗である。
 そして大幟旗はたがなくば、今尚都ここに揮尚の托陽はない。
 大幟旗は戦軍旗いくさばただ。その元に兵卒、麾下の者たち
が集う。事態を招いたのが他国との戦にしろ王師にし
ろ海寇ぞくにしろ、主人たる揮尚は大幟旗を押し立てて布
陣するはずだ。
 街に戦火の跡もなく王師もなく大幟旗もない。
 ……民の蜂起。
 だから托陽は街を戦場にすることを避け、明け渡し
たのだろうか。
 把栩には、己の発した言葉の意味がうまく飲み込め
なかった。……わけがわからない、とはこのことだ。
あれほど慕われた托陽ちちが、何故、民に蜂起される。
「海船ふねをお停泊とめください」
 浩阮は絞り出すように言った。ここはすでに入り江
の内である。このまま湊に向かい大船を入れることは
あまりにも危険だ。何が起こるかわからない。せめて
斥候うかみを立てるべきである。
 爺と違い、浩阮はまだ若い。確めずにはいられない
のだ。……この現実にある異変を未だ信じたくない。
 把栩も同じ想いである。だが彼は首を振った。
「文書ふみを整えよ。市舶司しはくしに帰還を報告する」
「何を……!」
「文書ふみは体裁が整っていれば本物でなくていい。湊に
揚がる口実となればよいのだ」
「若、それは……」
 民が蜂起し、だが王師がないならば、まだこの事態
を国は察知していない。だが海船ふねが湊に一艘としてな
いなら、周辺の海では承知のこと。
 市舶司はこの湊での交易あきなりを管理するとともに、街の
監視も兼ねる。蜂起となれば真っ先に王都に報せ、王
師が動く。例え托陽が麾下私軍を動員する意思がなく
とも、国が動かぬ道理がない。
 すると、市舶司は捕らえられたか。どちらにしろ、
蜂起した民は王師軍卒との一戦を構える心積もりはな
いと見ていい。どれほどの勢力があるにしても、国を
相手に事態ことを起こすには、この尚都まちは物足りぬのだ。
 三方を切り立った山並みと渓谷に囲まれ、広い河川、
断崖を擁し海岸に開ける。
 ……天然の要塞なすこの街で戦を起こすなら、敵方
を呼び寄せるしかないのだ。大軍を擁する王師はこの
地に布陣すらままならぬ。攻めるに堅く、守りやすい
この地は背後に海岸、逃げやすく、それだけに再起も
しやすい。
 だが勅命により軍船いくさふねが出され、海が押さえられてし
まうと脆い。あとは大軍に任せて街を海から囲めばよ
いのだ。補給の得られなくなった街は必ず敗北する。
 それを防ぐには、蜂起の際、何より先に市舶司を捕
らえて短期間で事態ことを収めるよりない。
 ところが市舶司を捕らえてしまうと、当然のことな
がらその業務に差し支える。……この条風かぜ季節ころに、
大船うみふねの停泊記録とその報告文書しらせのふみが滞れば、王都も不審
を抱くに違いない。
 そこに形式だけとはいえ、文書が整えば。……王都
の介入を遅らせることができる、そう考えはしまいか。
「民と、取引をすると……」
「戦を避け得るなら、それでいい」
 托陽が民との衝突を避けたならば、己もまた、それ
を避けねばならない。さらに超えようとするならば、
事態ことを収めねばならない。
「副舟そわつふねを用意しろ。……海船ふねは、征箭そやの届かぬ位置に
つけろ」
 大船は普通、小型の副船をいくつも搭載のせている。だ
が間の悪いことに揮尚の若君きみの大船は、今動かせる副
船が一隻しかなかった。この航海たびで傷め、調達できな
かったのだ。
 そして市舶司に文書を提出するなら、それは公式おおやけの
儀礼、船長おさでなくては務まらない。随身つきひとも限られる。
 浩阮は言葉を飲み込んだ。……主人に己の肩衣かたぎぬと、
その大袖の衣を取換えるよう進言する言葉を。だがそ
れは無意味だ。この街で、揮尚の若君を見知らぬ者は
ない。
 このまま、行かせては。だが、己には他の策はない。
たとえ思考するだけの時間ときがあったとしても、とりあ
えず確認したい、それ以上、他の策など練ることはで
きないだろう。浩阮は色を失った唇を噛んだ。
「副船は、いつでもおろせますぞ」
 室内を窺っていた爺が、穏やかに言った。
「この爺めが、随身おとも仕る」
「……爺は、この大船を預かれ。すぐに動かせるよう」
 爺は進み出て強く重ねて言った。御供致します、お
許し下さらねば副船は出しませぬと。浩阮は爺の意図
を知っている。だから、彼も随行する心積もりだ。
「街の者には、この大船の皆にとっての家人かじんも多い。
そういった者を、湊に揚げるわけにはいきませぬ」
 爺も浩阮も、この大船を降りれば身寄りがない。他
の伴人や水夫かこたちのように、己の家人に気を取られる
ことはない、そうもっともらしく言い募った。
 そんな親子の意図に気付くほど、今の把栩は余裕な
く張り詰めていた。
 色々な何かが一つずつ少しずつ綻びて崩れ初めてい
るのは確かで、それはひしひしと感じるのだが、では
それは何かと問われたならば、その一つ一つをはっき
りと言い当てることができない。掴んだはずの砂が、
掌の内から零れて知らぬ間に消え失せているように、
すべてを失ってからでなくては何も気付くことができ
ないのではないかという怖さが、彼を焦らせていた。
 それが分かっているから、わざと椅子に深く腰掛け
ているのだが、さほど効果はなかった。
 その焦燥が伝わり、船上は緊迫していた。だから皆
は己の領分をいつものようにこなす。それ以上のこと
は、今はできない。
 それで浩阮はその男をすぐに甲板に見つけることが
できたのである。
 髪を無造作に結った体躯のよい男は、帆柱の傍らで
帆縄の始末をしていた。すぐに帆の向きを変えられる
ように絡まず掴みやすくしておくのが常のこと。男を
啓泰けいたいという。
 啓泰は浩阮を軽く見やったが、また元の作業に戻る。
浩阮は近づいてから小声で話し掛けた。
「弩弓いしゆみの届かぬ位置に大船を留める。長弓ながゆみは……使え
るな?」
 同輩の言葉に啓泰は少し眉をひそめた。
「使えるが、があまりない。……街に、射るのか?」
 弩弓は長弓よりも飛距離がでない。射掛け合うなら
長弓が有利だ。
「念のためだ。俺は若に随行する。副船が湊に向かう
間、弓引いておけ」
「……浩阮。大事ことの起きたときは、南に切り上がる。
楫子頭かしらに、船首くびを回すように伝えてくれ」
 浩阮は頷いた。
						

 ひたすらに蒼い空に、いくつかの白い雲が浮かんで
いる。頬を渡る風も心地よいものだった。
 白い土壁とみどりの甍、そして背後の山並み。
 この入り江からも幾重にも巡った郭壁くるわが見える。そ
の郭壁は元は外郭だったのだが、街が大きく広がるに
つれて何度も外側へと建増したために内郭として残さ
れたものだ。だから内側のものほど古い。
 それで入り江から見たこの伊都いとの待ちは山裾から広
がる平野、そして街並みが裾濃すそごに染めた綾錦にしきぬのを幾
つも折り重ねて広げたように美しい。
 深染の藍のような、そして穏やかな入り江に白い影
がある。
 それは海船から街へ向かっていた。
 三角帆の舟は海船の副舟そわつふねとしては大きく、この舟だ
けでも乗り手さえよければ大海を渡ることができる。
 この湊に入る海船でも三角帆の副船を持つものは少
ない。まして大海を長くくことのできるほどの水夫水夫のりて
はさほど多くない。
 伊都の湊の高楼たかどのには遠目の利く者が常に在る。
 その小さな珥飾みみかざりをした男は海船を見たときから、固
唾を飲んで目を凝らしていた。
 ……海船の船長おさはその掲げられた大幟旗はたですぐに知
れる。尚氏大僕しょうしだいぼく揮尚きしょう托陽たくよう嗣子きみ、揮尚の若君きみがこ
の伊都に帰還したのだ。
 三角帆の副船は、帆に風を受けて湊を目指している。
海船は大きく弧を描きながら船首を回そうとしている
のが分かった。湊に極力近付きながら、船首を南に向
けようというのだろう。……おそらくは弓の届かぬと
ころに。
 海船が副船の進路に重なり回り込むように入った。
副船が海船の影になり、見えなくなる。海船が行き過
ぎて再び副船が見えるようになる頃には、かなりのと
ころまでおかに近付いていた。
 この距離では弩弓いしゆみは届かない……が、長弓ならば。
 船上に長弓を手にした男が在る。合弓あわせゆみそれも三人張
りの強弓こわゆみの使い手、尚家の麾下でも名の知れた射人いての
一人だ。……啓泰、と言ったか。
 それを確認して、男は僅かな笑みを浮かべて高楼を
降りた。
 男には行くところがある。
						


 近付いた湊に人の気配は無かった。……常にこの湊
は忙しなく動く人々が行き交う。それが無いだけでこ
んなにも違って見えるのかと把栩は思った。
 浩阮と爺、そして水夫の一人、汐迅せきじんの三人が随行す
るのみ、それはこれまでと違い過ぎるものだ。
 その理由わけを思い浮かべようとしても、今の把栩には
徒労にすぎず、これより先のことを思い描くことも適
わないのだった。
 これより先……おかに、湊に降り立つより先のことを。
 事態ことをいち早く見定め決を下さねばならぬ。
 何の為に。
 海船で待つ皆のために? それはもちろんそうなの
だった。だがどこかそう考えるには違和感がある。
 街の皆のために? 事態を素早く収めることは確か
に彼等のためだろう。……蜂起した者とされた者のの
立場の違いを無視するのならば。どちらにことわりがあるか
など、どちらでもよいのだ。
 尚家のために? 托陽のために? 
 それはそうなのだった。己の拠って立つ場所は常に
そこにあるのだから。
 だが、そういうことではない。
 己のために?
 その問いにも、把栩は首を振ることができた。違う。
そうではない。
 ……それは「揮尚」という名の大幟旗はたのためだ。
 それだけは、汚すわけには、いかない……。
 なぜそのように思うのか、把栩には言葉にすること
ができない。
 結局はその大幟旗を、「揮尚」を、いずれは超える
のだと見定めた己のためなのだと。
 そういうことなのかも知れなかった。
 だがその大幟旗は「こうであるべきだ」と把栩が思
い定めた「理想ゆめ」とどこが違うだろうか。「こうあら
ねばならぬ」と心に決めて行く路の末と現実とは、掛
け離れているものではなかったか。
 心に思い描く行く末は、いくらでもやり直しの利く
ものだ。現実はそうではない。
 街の誰からも慕われた「揮尚の托陽」の姿は、把栩
が幼い心に描いた理想に過ぎなかったのだろうか。そ
の証に、この現実を思い描いたことがなかった。
 人の心は見えぬものなのだった。それを忘れていた
ために「本当の街の姿」を見誤っていたということか。
 本当はいつ街の皆が蜂起してもおかしくはない、そ
んな状況だったのかも知れない。それとも把栩がこの
街を離れた半年の間に急激に事態が変わったのかも知
れない。
 ……それすら思い量る術のない。それが己の最大の
過失なのだ。
 蒼穹に在る日輪が落とす己の影が、把栩には酷く昏
いものに感じられた。
						

 この三角帆の舟の扱いに関しては、汐迅は誰かに負
けることはないと思っている。……ほつれた一筋の髪
が額に張り付いていて、汗を拭いたいとは思ったが節
ばった堅い己の掌をこの帆縄から一瞬でも放すことは
躊躇われた。副船にこの三角帆の船を選んだのは、他
でもなく己だった。この舟であれば、例え大海の最中
にあっても若君の助けとなれるだろう、この舟と己の
技術わざさえあれば、若君を苦しめることはないと、長く
そう信じてきた。
 今の若君の苦しみは、ふと己の妻子が湊にいるため
ではないかと思った。
 尚都で何が起こっているのかは分からないが、汐迅
の妻子はそこに在るのだ。……関わっているとは思わ
ない。尚都で起こっているなにがしかの異変を押し留
めることはできなかっただろう。
 一年の大半を海で過ごし、尚都にあるのはわずかな
こと、家のことは妻に任せきりで、幼い二人の子供た
ちにが顔さえ忘れられてしまう。女手ひとつで二人の
幼子を抱えている、そんな妻に尚都の異変を事前に収
める一助となれたはずもないのだが、汐迅には妻子が
湊に在る、それだけで責められるだけの理由があるよ
うに感じられた。
 海船の者と尚都の者と、どちらかに非があるわけで
もない。また、把栩きみはどちらかの肩をもつこともでき
ない……その必要もない。
 それは理解しているつもりでも、若君はどちらかを
選ばねばならぬような気がしている。そうでなければ、
収まらぬのではないかと。
 苦しむ主人の姿に、海船の皆がいたたまれない思い
を抱えてしまうことに当の若君は気付いていない。
						

 よく整備された湊の護岸、その背後に建ち並ぶ石倉
や会所をこの入り江から見たのは初めてだ。……いつ
も、見えるのは皆が忙しく立ち働く、騒がしくも華や
かな湊だったから。
 啓泰は弓弦ゆづるの張りをもう一度確めながらそう思った。
副船が弩弓の届く距離に入ろうとしている。
 湊に人影は無い。啓泰の考える弩弓の届く範囲とい
うものは、護岸の端に立って海に射る距離だから、倉
の物陰から射るならばまだ届かない。
 だが、高楼たかどのから遠目利く斥候うかみが見ているのなら、己
がこの長弓を手にしていることはすぐにそうと知れる。
それだけで弩弓を弾くのをためらうだろう。それだけ
の隙があるのなら、浩阮が切り伏せる。
 強くはないが、風がある。その分、征箭そやは流される
が、啓泰はその一点の狙いを外すことがあるとは思わ
ない。
 狙いを付けたのは一点。湊に立ったひとつの影。
 大袖を重ねた礼服姿は市舶司しはくしのものだ。だが啓泰の
記憶にある市舶司は人当たりの良い貧相な老人で、今
湊に在るはその人物とは似ても似つかない。確かにこ
の航海たびの間に任期が切れて王都に戻るとは聞いていて、
その後任が着く前に湊を出た。……その後任が今湊に
在る人物その人だどは、その姿だけで判じるには鷹揚
がすぎるというもの。
 皆の吐く僅かな息遣いさえも聞こえそうだ。不思議
な程に物音がない。
 畳んだ帆を潮風がなびかせている。重石いかりを下ろして
いるものの、波が海船にあたり船体を揺らす。波が船
首を回して向きを変えてしまわぬように僅かに櫓を漕
ぎ動かす。
 音が、あるはずだった。
 皆、張り詰めた空気の中で息を殺している。
 今、無事を祈る者は、……誰の無事を祈るというの
だろう?
 副船は護岸に達していた。その帆のために若君の姿
が見えなくなる。
 汐迅は腕のよい水夫だ。瞬時、湊を離れることがで
きる。帆の向きを素早く変えて、自らも護岸をなす巌
を蹴り、櫂を漕ぐ。
 だが、その帆が啓泰の定めた狙いを覆い隠した。
 弓引いて矯めた啓泰の腕に、汗が流れた。
						

 湊にも入り江にも船がまったく見当たらなかったか
ら把栩は副船を繋留しないと決めた。奪われることを
危惧したのだ。
 それは何事かの事態にすぐに沖に戻れないことを意
味したが、意外にも浩阮は反対しなかったし、爺はう
なづいただけだった。
 浩阮は弩弓の届かぬあたりで待つように汐迅に示し
ただけだった。いつももならあれこれと気を回して、
二言三言と付け加えるというのに。
 ……湊とはこんなにも、広いものだったのか。
 把栩は目の前の人物に対峙しながらそう思った。そ
の市舶司の身形を整えた人物に覚えはないのだが、そ
れが誰であっても今はどうでもよいことのように思わ
れた。
 背後には爺と浩阮。二人は略式ながらも衣服を整え
ていたから、衣擦れの気配が感じられた。
 副船の帆が新に風を受ける音がした。櫂の海面みなもを弾
く音。……ふいに、汐迅の二人の娘の顔を思い出した。
把栩はひとつ、息を吐いた。
「新に任じられた市舶司とお見受けする。帰還の儀、
賜りたい」
 その男を印象付ける第一は、切れ長の瞳と面長で整
った顔立ち。それは愛嬌のようなすべて削ぎ落とされ、
ただ、鋭利な顔立ちというものがあるのならば、この
面構えこそがそれであると思えた。
 そして、左にだけ穿った珥飾みみかざり。
 筒状のそれは、本来ならば筒穴に糸を通して垂飾す
るためのものだ。だが男はそれをしていない。そもそ
もが女物の装飾品かざりだから、男が身に付けるのは「特別
な事情」がない限りは珍しいものだった。
 把栩は礼儀に従い、跪礼した。
 無位ではあるが、彼の氏に賜ったかばね、故に揮尚
という。対して市舶司は国官、位は中大夫。男の姓は
分からない。揮尚の托陽の位は下大夫。それでも王の
側近の継嗣に伏礼を求める者はそうはいない。さらに
いうならば、公式ではないこの場では立礼だけでも失
礼とはいえないはずだ。
 男は立礼で返した。
「揮尚の若君とお見受けする。……新しく市舶司を拝
命し赴きました。姓名を鄭惺ていせいあざな綜白そうはくと申す」
 把栩が言葉を返すより先に綜白は会所へと促した。
「供の方々も、……こちらへ」
						

 会所は湊から伸びる広途みちの角にある。
 伊都は経緯たてよこに交差した大路が街を造っている。その
基となるのが街のほぼ中央を貫く広途である。この広
途は外郭にまで続き、西門もんへと至る。王都を模した形
だが、違うのはちょうど広途の縦緯が逆となっている
ことだった。
 会所は市舶司の執務と社交の場、その広大な敷地に
は市舶司の邸宅やしきも設けられている。
 この湊に入った海船はまず会所に届け出ねばならぬ
決まりだった。荷を揚げるには市舶司の印が要るのだ。
この湊に入ったことのある海船には勘合符ふだが支給され
ていて、会所に保管されている底簿きろくと照会する。確か
に照合した旨を王都の六官に文書で報告することが求
められていた。
 綜白が三人を案内したのは会所の公的な応接室では
なく、邸宅の居室へやのひとつだった。
 浩阮は警戒を露にして、慣例ならい通りに会所の広堂ひろまで儀
を執り行うのが良い、と言ったが、把栩が取り下げた。
敵か味方かもわからぬ男に露骨な態度を見せるのは、
あまり良いやり方とは思われない。それ以上に把栩は
相手の出方を見たいと思った。
 端的にいえば、この綜白という男に興味を持った。
これまで把栩が会ったことのない種類の人物であると、
僅かなやり取りで感じたのだ。
 その居室は華美な装飾のない、少し閑散としたした
印象を受けた。さすがに花瓶に花があるが彩りを潤す
程に至っていない。入り口に置かれた屏風へいふうに描かれた
山水図も墨絵で上品、出来も良いが淡白に感じるのは
居室へやに色味が乏しいからだ。把栩の腰掛けた椅子いしやそ
の目前に据えられた卓子たくしも美しい黒漆塗ぬり螺鈿かいすりが施さ
れているものの、やはりどこかもの寂しい。
 前任の老市舶司の好みはこのようではなかった。今、
目の前にいる男の趣味であると言われてこれほど納得
のいく室礼というのも珍しい。
 綜白は茶器を自ら並べた。伊都に降り立ってから、
把栩らは未だこの男の他に何者とも出会っていない。
 向かい合う形で腰掛けた綜白は冷めた表情のままぽ
つりと言った。
「若君は訝しんでおられるな」
 うなずきはしなかった。……これは今、己が身に付
けるべき駆け引きだと承知していた。
 綜白は続ける。
「さもあろうな。街の様子の変わりように」
 酷く喉が渇いていた。だが目の前に置かれた茶杯も
手を延ばすことが躊躇われる。その表情に乏しい男は
頓着なげに、己の茶に口をつけた。
「……あぁ、酒の方が、よろしかったか」
 唾液を一度飲む。正直をいえば、酒が欲しかったか
も知れない。
 把栩は爺に持たせた文箱を取り、
「ここに帰還を申し上げる。勘合の照合と荷の改めを
願います」
「長旅の末、無事のご帰着は喜ばしいかぎり。……本
来ならばささやかながらの宴なりと設けるとことであ
るが、お察し下さるな?」
「……大夫の胸の内など若輩の身のこの私に分かろう
はずもございませぬ。ただ、此度は辞退させていただ
く」
 綜白は把栩の茶杯に目をやった。
「何か盛られても、困る。と?」
 浩阮の顔色が変わるのが、背にしても分かった。同
じように顔を見なくても、把栩の感情の揺れが浩阮に
伝わるだろう。ここで把栩が怒りを表せば、何をし出
したか分からない。浩阮は意外にも気が短いのだ。
 わざと、ゆったりと構える。
 それができたのは、爺がいたから。いつもと同じよ
うに、穏やかな気配が己の背後にある。
「どうやら大夫は私の知らぬ何かを御存知のようです」
「多少」
「それを我等があがなうと致しましょう」
「ほう?」
 綜白は意外な表情をした。
 だが把栩からすれば、さほど珍しいことではない。
商売あきなりにおいては信頼とか誠意とか信義ほどあてになら
ぬものはないのだ。あるとすれば己の技術うでを信じるこ
と。己の品物しなを見る目、物作りのの腕。口上の巧みさ
だけで目を吊り上げるを得手とする者、その腕を買う
者。交渉わたりの巧みさを喧伝して長者おさに抱えられる者。見
目の良さにだまされ傷物を掴まされたとしても、その
非は自己の未熟。見抜く目を持たぬことを嘆くよりな
いのだ。
 だからこの市舶司の真実は、把栩にとっては真実で
あるかどうか、それを把栩は己の目利きの腕で見定め
てみせようと思ったのだ。
「さすがは揮尚の若君よ。さらば、いかほどで」
「商人あきなりというものは、まずその品をよくよく見定めて
からその利を判じます」
 それまで笑みを浮かべてもどこかそらじらしかった
男の顔に、変化が起きた。それまで目前にしながら、
ただの「揮尚の若君きしょうのきみ」という入れ物を眺めていた目が、
把栩という人物を初めて見たのだ。
「ならば、『品物』を並べねばなりますまい」