‐揮尚の大幟旗‐ 其の壱
TOP金色の輝きと空


 姓名を鄭惺ていせい、字を綜白そうはく。三十をいくつか超えたこの
怜悧な表情を持つ男は、元はさほど高官ではない。
 貨幣や穀物の管理を司る司農しのうに使われる下級官吏に
すぎなかったが、そのうちに六官のひとつたる地官と
なった。戸籍管理の実務官である。早い栄達と言えた。
 目立つ存在ではない。科挙の予備試験である院試で
も、本試験である会試でも人の話題となるほどには振
るわなかった。
 だが、王の面前に召されての殿試でんしで「大事こと」が起き
た。
 殿試は名目上は王による人物試験だが、ここ数代で
は臨席もまれとなっていて、実際には天官長たる太宰たいさい
か、六官の長、冢宰ちょうさいがその任にあたっていた。
 だから綜白は、その場に至るまで……いや、特にお
言葉を賜るまで、御簾内に王が臨席していることに気
付かなかった。また、そのことに思い至ることもなか
ったのだ。
 礼に従い、時の太宰の質疑に応答していた。そのう
ちに、なにやら御簾内がざわめき出したように感じら
れた。だが、許しがあるまでは顔を上げることは非礼
であるために、周囲の様子を窺い知る手立てがない。
 ざわざわと衣擦れの音が動いている。おそらく太宰
の元でその動きが止まったように思う。やや暫くの後
に、綜白は太宰に許されて顔を上げた。
 息を飲んだ。
 許された頭を、再び床に擦りつけた。
 何者も、伏礼せざる許されぬ御姿があった。
 いつの間にか御簾が巻き上げられて、王が鎮座して
いたのだ。
 顔を上げるように促したのは、太宰ではなかった。
王の傍らから聞こえたように思う。女の声。
 重々しくも、だがもったいぶった言い回しが、その
女の口から流れ出てくる。大意さえ掴みかねて、否、
極度の緊張のためか、綜白は何を問われて何と受け答
えたのか、覚えていない。
 太宰の殿試の終了を告げる言葉で我に返り、ともか
くも退出した。……なにやら雲上を行くような心地が
する。
 そのひと月の後に、及第通知が届いた。
 さほど会試の出来が著しくよかったわけでもなく、
だが不合格とされるほど解けなかったわけでもなかっ
た。だからその結果を受け止めた。
 その時点ではまだ、王の臨席と質疑は全員になされ
ているものだと思っていた。
 人の噂というものは伝わるのが早いものである。
 殿試で主上の御声を賜ったただ一人の者。殿声でんせい、と
いう別字で揶揄されるようになった。殿声どのはいづ
れ冢宰ともなられる御方、といった具合に。
 当の本人は本当にお言葉を賜ったのか、その記憶も
すでに怪しくなっていた。舞い上がり、不敬なことを
申し上げていないか、それを考えると恐ろしい。
 確かに、傍らに仕えた女に受け答えをした覚えはあ
るのだが、それさえの霞の先の出来事のようで、それ
以上のことを覚えていないのだ。
 その女がどういった人物であるのかさえ、知らない。
側仕えの女官のように見えたが、寄り添う姿がそれだ
けではないものを物語る。
 王は正妃に先立たれ、間に幼い皇女ひめがある他に子が
ないと聞く。無論、有力各氏、各家から夫人が大勢、
その他にも御手の付いた女官が後宮に仕えているのだ
が、どうしたことか即位から長く他のどの腹からも御
子の誕生がない。
 正妃たる王后玲凛れいりんは華氏の姫であったという。華氏
は代々祭祀・礼楽を司る春官に任じられる家柄で、玲
凛妃もきんの名手であった。
 奏でられる音色の美しさも、その可憐な赤い唇から
零れるように諳じられた詩吟うたも、何より彼女の愛らし
さも、まだ太子ひつぎのみこであった王を虜にした。
 王は彼女に溺れ、長く側女そばめを置かなかった。即位に
際して勧める者もあったが譲らなかった。玲凛が亡く
なるまで。
 王が「色」を需め始めたのはそれからである。国の
内外から、美女と聞けばあらゆる手を用いて後宮に招
じ入れる。
 心ある官は、すでに「傾国」が始まっているのだ、
という。己の利権のために専横を貪るだけの官が、国
府、王宮のあちらこちらに増えた。
 官吏は己に繋がる美女を探し、次々と後宮へと送り
込んだ。運良く王の目に留まり御手がつけば、己とそ
の一族、一家の地位は一気に上がる。しだいに官吏だ
けではなく、当の女が権力を得るようになっていた。
 ……あの女は、そうした一人なのだろうと、綜白に
も見当たついた。
 だがなぜ殿試に王が臨席され、女が傍らに仕えてい
たのか。その理由は分からぬまま官吏になった。
 綜白には己を引き立てるような親族がない。
 てい氏は官の末席にその名が僅かにあるだけ、有力名
氏と競う立場にない。他家に仕え、他家の主に気にい
られることが渡世のすべであった。
 それが殿声などという別字を頂戴し、破格の出世を
遂げる。それを快く思わぬ官も多い。どこで上げ足を
取られるか知れたものではなかった。
 最新の注意を払い、地官の職を得たのである。地官
は六官で言えば天官に次ぐ地位にある。戸籍官吏、と
年貢を司る。人民を把握し納税を徹底させる。もちろ
ん官吏の自墾地からの収益にも税は掛かる。諸外国か
らの御調みつぎ、官吏が交易で得た品の検分、王国の要たる
出納の権すべてが地官の手にあるといってよい。
 超えた土地ほど税は高く、人が多いほど税は高い。
 地官となってまず覚えたのは戸籍の制作の法ではな
い。「ついつい戸籍の一部を書き損じる」ことである。
 僅かな違いで税は大きく異なる。毎日のように手心
が加わるのを望む官が訪れて賄賂を積み残していく。
 ここでの「有能な官吏」とは地官長大司徒だいしと、そして
その上位たる天官長太宰、さらには六官長冢宰の目に
触れても耐え得る「書き損じた戸籍」を作る者を言っ
た。
 始めは眉根を寄せ嫌悪した作業にもすぐに心動かさ
れること絶えた。
 宮仕えとは、綱を渡るようなものだ。細く頼りない
綱を、権力者に握られ揺らされ、恐る恐る渡る。それ
が出来ぬ者は落とし穴へと落とされる。
 諦観という。強いこころざしをもって目指した官吏の道で
はない。周囲の者に良く出来た子よ、科挙も通る才覚
者よといった声に押されるように勉学に励み、およそ
あり得ぬ幸運に恵まれて出世した。その内実は、己で
なくとも良い、偶然にもその地位を得た、それだけだ。
それがどうしたというのだ。
 そんな思いを抱えて、だが日々出仕して仕事という
名の「作業」を繰り返してこなしていく。果たすべき
役割があるうちはまだ良い。それをまたこなし続ける
だけである。己が何をなすべきか、そのこと自体に困
ることがないのだった。
 そんなある日。
 いつものように官府の門が開けられ、そしてこなす
げき書類が手元に重なっていく。
 地官に職をえて半年、見慣れぬ文書が届いた。
 綜白は己の使う下士を呼びとめた。委細間違いない
か。
 下士は困った表情をする。叱責を食らうのかと身構
えたようだ。綜白は自分が激しく顔を歪ませているこ
とに、それで気付いた。
 書面の書式に間違いはない。交易船の入朝の報告と
勘合の符丁と水夫の停泊底簿。そして御調の検分帳、
取引の概要、積荷一覧、水夫の計帳の写し、船長おさの身
内とも言える従者らの官位を記したものまで。
 少し目を通しただけでも、分かる。間違いがない。
……なさ過ぎるのだ。
 「書き損じた」ことのあるなら、これほど丁寧な手
蹟で残らない。「鼠にかじられた」ことのあるのなら、
どこか破られているはずだった。
 綜白は思わず「間違い」を探し始めた。取引の概要
書に必ずあるはずの、品数の増減がない。その品数と
合わないはずの積荷が一致する。大型の海船にしては、
少なく見せるはずの従者の人数がずいぶんと多い。
 何より御調が法に定められただけ、何の不足もない
のだった。
 それは驚愕だった。
 仮に正しく書面を提出したとしても、地官の中には
勝手に書面に「工夫」をし、後で金品を要求する者が
ある。少なくとも、今目の前にある数々の書類には、
そういった官吏の目に触れたことがない、ということ
が言える。
 慌ててこの船長の名を探す。
 尚楊しょうよう。
 尚氏は夏官としてその名を知られている。軍事を司
る夏官の端々に多くの者を送り込んでいる、長く続く
武官の一族。賜ったかばね、すなわち王旗を指す。
 綾錦のその御旗みはたを押し立てる親戦いくさ、その陣において
側近く仕えて御旗を振るう。その役割を果たすことの
できる唯一の一族、それが尚氏である。
 官吏としての地位は高くない。親征の際にほかの何
者よりも側近くあることを許されながら、王師の一軍
を動かす将軍いくさきみに任じられることはない。そのため夏官
の間では一段低く軽んじられ、それでも護衛官として
平時から王の側にあるを疎まれ、揶揄されているのを
知っていた。「揮尚きしょう」とは彼らへの賛辞とともに侮蔑
を含んでもいるのだ。
 それでもその名を持つ彼らは、果たすべき役割を名
に負い、夏官として務めている。それはなんと重く美
しいことだろう。薄汚れた「殿声」の響きとどれほど
違って聞こえることか。
 下士がおずおずと己の様子を窺っていることに目を
とめた。きけばこの尚楊なる人物、地官の間でも知ら
れており、尚氏の長、そして尚氏本家の主で字名を托
陽というらしい。
 先の綜白が地官となった人事で、彼は王の身辺警護
を司る僕臣の長、大僕に任じられている。
 だが彼はすぐその職に己の一族から代官を置いてし
まったのだという。前代未聞、大僕が王の側を離れる
ことなど前例がないにも関わらず、王自らがそれを許
したのだ。
 そして海船を駆り、南海の島々へと交易のため航海たび
に出た。この書類は半年ぶりに帰朝したその証なのだ
った。
 地官には、提出された文書の真偽を問いただす権限
がある。だから、この托陽を官府へ呼び出すことはお
かしなことではなかった。
 だが明らかに「間違い」がないであろう文書を問い
質す、それは手心を加えて金品をせしめる猾吏と同じ
手段のように感じて、綜白は迷った。綜白はこの書類
の束の中に「間違い」があってほしかったのだ。でな
くば、いづれ心ない猾吏に目をつけられる。
 そう考える己がおかしいのだ。そんな自分に眉をひ
そめた。余計な感情に己をすり減らすのはずいぶんと
久しぶりだと思った。そして諦観の中で、淡々とただ
日々の過ぎるのを待つ、そう道を定めたはずが、その
目論見が崩されたのを知った。
 数日の後に、応じて地官府に参じた托陽は、夏官と
は思えぬほど間延びした人物だった。
 伴をひとりも連れず、皮甲よろいもつけず、平服に太刀を
帯びて門をくぐった。髪の結いもぞんざいに布被せた
だけの。偉容を示す装飾かざりのひとつもなく、ただ首から
碧玉あおるりの勾玉を下げていた。門卒が顔見知りの夏官であ
ったというが、これではそうでもなければ不逞の輩と
して追い払われていたところだろう。
 だが托陽にはそれを気にする様子もない。
 二人の間に、身分の上下はさほどない。
 大僕は位こそ下大夫だが、王の側近く仕える。綜白
は中大夫で、六官の序列は地官が上とされている。齢
は托陽がひと回りほど年上である。
 客庁きゃくまに茶器を整えた下士を綜白は遠ざけた。どのよ
うな会話になるの己自身にも分からず、何をどのよう
に彼に伝えればよいのかも判然としなかった。
 だが迷いは顔に出さぬ。それがこの王宮に仕える者
の渡世の術である。
 托陽が先に口を開いた。
「地官殿の客庁では、おとなう度に見事な茶器を見せてい
ただける。良い杯だ」
 茶杯を酒器のように眺めながら言う。このような器
は下士が失礼にならぬ程度にことあれば購い揃えてお
く程度のものだ。気に留めたことがない。
「よほど良い行商人あきなりのひとをかかえておられる。そして見る
目を持つ者が多いのでしょう」
 聞いている内に綜白は焦れてきた。「揮尚」の名を
持つその主が、これほど呑気な気性でよいものか。ま
さか代官を立てられたかのかと気色ばんだ。
「確かに私が尚氏大僕尚楊、字名を托陽と申す」
「……夏官大僕とも思えぬご気性のようですな」
 厭味も出ようというもの、だが托陽は笑い飛ばした。
どころか、
「私はこれでも武人として仕えておりますゆえ、遠回
りな物言いに疎くできております。何ゆえのお召しか、
伺いましょう」
「……」
「お手元を拝見するところ、先日提出させた文書のこ
とかと察しております。なにか過不足でもございまし
ょうか」
 駆け引きを考えるなら、すでに負けた、と綜白は思
った。この「揮尚の托陽」は、何もかも承知してこの
場に出向いたのだ。
「もしも」
 綜白は聞きたくなったのだ。この目の前にある男の
渡世の術を。
「もしも、心無い狡猾な……地官があったとして」
「多いようですな?」
「この文書に『工夫』を施すを申し出た、と致しまし
ょう」
「ほう、どこかで聞いたような話ですな」
「……貴方なら、いかがなさる」
 男は薄い無精ひげを歪ませて、にっと頬を持ち上げ
た。悪戯めいた、その笑み。
「それには及びませぬ。とお答え致しましょうな」
 だが、そんなことを言えば、いつこの王都にいられ
なくなるものか。そのことに心すり減らして日々を送
らねばならない
「ま、その際にはこの太刀を献上致しましょう」
「太刀?」
 その佩刀を両手で綜白に掲げて見せた。その身なり
からは思い起こすことのできぬ、見事な拵えである。
 太刀は夏官として仕える限りは手放せぬもの。それ
を佩刀することそのものが礼節であり、夏官の証とも
いえる。
「その太刀を手放す、と申されるか」
 托陽の考えが見えない。夏官大僕にして尚家の主、
その名をものを放り出すと言っているのも同じではな
いか。
「太刀に名などありませぬ。ただ、そのものが持つ価
値のほかには」
「……!」
「鋒両刃きっさきもろはにして直刀すぐは柄頭つかがしら装飾環頭かざりわがしら、鞘は漆黒ぬり。さ
らには鯉口こいくち沈金ちんきん堆朱ついしゅ紅玉べにるりで意匠を施した『実用
の』太刀。まず世に二つとございますまい」
 綜白には目利きの技などない。それとと言われなけ
れば、ただの太刀として目に留めるものではないが、
気に留めて間近にすれば見事なもののようだった。
 鯉口金物は遠目にはただ丈夫にするために取り付け
たように見えるが、よく見れば細やかな美しい図案が
ある。流水と波頭を大仰にならぬように配し、木地に
絵を彫り込んで漆で金を埋めた沈金、漆を何層にも塗
り上げてから彫り出す堆朱を巧みに使い分け、さらに
紅玉が飛沫のように埋められている。
 装飾太刀かざりのたちならば、もっと華美な細工をし、柄までも
鉄鋼かねとするだろう。柄を木製とし、滑り止めに鮫皮わにを
巻いた本式の実用太刀だからこそ、この太刀に価値が
あるのだと思った。
 戦場いくさばで、その美しさに眼を奪われる者など皆無だろ
う。だが、その凄惨な戦に於いてこそ意味のある美し
さ……。
 托陽の言わんとすることが、綜白にも見えてきた。
なんと空恐ろしい皮肉を含んでいることか。
「さて、貴公あなたには、をあたい付けられたようだ」
 托陽は掲げた太刀を己の手元に戻した。相手をやり
こめればこそ、この男に今本気で太刀を手放す気はな
い。
 実用の太刀を文官が手に入れたとしても、その本当
の美しさを見ることはできない。細工の身事さに眼が
眩んで手に入れても、意味がないのだ。さらに、何気
ないように見えるこの太刀の細工を施すことのできる
者はそうはない。それほどの技巧わざが込められた太刀
を購うならば莫大なたからを必要とする。僅かな「工夫」
で貯めるよりもずっと多くの。
 この書類に……「間違い」がないのは。
 僅かな「工夫」も及ばぬほどの散財を托陽が繰り返
してきたからだ。
 こうして官府に参じる度に散財する。托陽にとって
はそれほど価値のあることだ。
 そのことに思い至るに、綜白は適わない、と思った。
及ばぬ男だ、と思った。
「このよしみ、いづれまた。……貴公あなたにお伝えできること
もございますゆえ」
 托陽はそう言って辞した。
 その何か含みのある物言いに綜白は眉をひそめたが、
その後すぐに忘れてしまった。……いつものような日
日を過ごすうちに。
						

 それから、親しくなった。会うのは季節ごと。航海わたり
から戻り、文書を提出するために地官府を訪ねてくる
托陽は伴を連れることがなかった。麾下の者たちの多
くは王の身辺に僕臣、小臣として在る。その数を割く
のが惜しいのだという。
 僕臣は王宮の内、特に内宮に詰める。后妃、貴妃、
夫人ぶにんひんその他の女官、女嬬にょじゅの住まう内殿うちどのはもちろん、
王の私室、寝室までも端々に入り込み、警護の任にあ
たる。内宮の殿舎みやしろの数は膨大である。小館たち小舎こやまで
数え上げれはきりがない。
 それら衛尉僕臣であるが、彼らは正規の軍卒として
見なされていないのだった。
 夏官とは名ばかり、少し眼を光らせてよからぬ者が
その気をなくせばいい、あとは麾下に下すたから行商あきなっ
ておくのだと托陽は笑った。
 綜白はそれまで聞き流していたに違いない「揮尚の
托陽」の噂話を気にかけるようになった。
 亡き細君は鄭氏を出自とする美人であったらしい。
その生き写しという姫君は華家に嫁ぎ、だがすぐに寡
婦となったという。嗣子わかぎみは官位も得ずに行商の真似事
をしているとも。
 聞くには聞いて気に留めていたが、それを托陽に確
めてみたことはなかった。会って話題になるのは内宮
のこと、王のこと。それらの話がどんな噂話よりも現
実味があり、綜白には興味深かった。
 殿試の際、あれほど隔たった存在が、どこか己の近
辺にあるような錯覚を得るのだ。
 ある時、鄭妃ていひという聞きなれぬ御方のことを聞いた。
鄭氏の名を冠に抱く妃。……鄭氏にはそれほどの勢力
はない。不思議に思った。
「みめ殿ではございませんから、……」
 后妃でも貴妃でもない。だがそう呼び習わされる女
がいる。王に侍る女だと、察しがついた。……あの殿
試のときのように。
 鄭妃は元々、女官が内宮勤めの際に連れた侍女まかたちであ
ったという。その寵愛から女嬬にょじゅ、次いで女御じょごとなり、
さらには秘書官とも言える女史として仕え、今は尚侍ないし
の地位にある。
 表向きは女官の最高位にあるが、実際はそうではな
く、王に侍ることでその権勢を握っている。故に、鄭
妃という。
「お目にかかったのでしょう、殿声どの?」
 托陽が綜白をその別字で呼んだ。あのとき王の傍ら
にあった、女。……鄭氏を出自とする。
 綜白は初めて別字の由来に納得がいった。官の末席
に僅かにある己の氏族うからを少しでも引き立てるために、
彼女は王をあの場に「用意」したのだ。ために己は異
例の出世の途にある。
 その後、托陽とどんな話を交わし、何を聞いて何を
返したのか。綜白はぼんやりとしていた。
 托陽は辞す前に、
「綜白殿は楽を奏でますか」
と聞いた。いえ、と短く答えた綜白の脳裏に浮かんだ
のは、托陽の姫君のことである。……華家に嫁ぎ、す
でに寡婦となった。華家は祭祀、礼楽をもって仕える
家柄。
「舞ならば、多少覚えがございます」
 幼い頃、身を立てる術をまだ持たなかった頃に、少
しだけ舞を習った。まったく才のなかったわけでもな
かったから、それで人に見せるに耐える程度は身に付
けていた。
 托陽が辞した翌日、綜白の元に、春官次官たる侍礼じれい
宗伯そうはくからの使いの者が届けた文は、宴の誘いだった。
						

 殿声でんせいという有難くも面白みもない別字を頂戴した頃
には、たびたび宴の誘いがあった。これも勤めのうち
と考えて、ひととおり顔を出して上官に酒を注いで、
楽の批評などして下手な詩を詠じ吟じたりしては、宴
を楽しむふりをしていた。
 だが次第に声もかからなくなり、こちらから無理に
出掛けていく理由もなく、だから宴などずいぶん久し
ぶりのことである。
 昔馴染みの朋輩ともも珍しい男が来たものよ、と酒を勧
めてくれる。
 春官侍礼宗伯じれいそうはくが王宮の近郊に持つこの寮は、庭園の
美しさで知られている。異国とつくに工匠たくみに命じて造作させ
た湖池いけに舟を浮かべ、そのを見渡すと竹林や木々に鳥や
鹿が見え隠れする。その鳴き声も、月夜も、詩を吟ず
るには格好で、少しでも詩の腕に覚えのある者はこぞ
って宴にかけつけ、侍礼宗伯に取り入ろうとする。
 その様子に馴染めずに、それが宴から遠ざかった理
由であることを思い出した。
 今宵はいかがしたのか、とからかう朋輩には、いつ
もと逆のことを言えばいい。仕事が片付いたのだと。
……托陽に連れ出された、というのが本当のところだ
とは思うが、当の本人は宴の場にいないようだし、噂
の種を自ら撒くような愚かな真似はするものではない。
 欄干に額を擦るようにして寄り掛かり、月を見た。
 十三夜月。
 春の、朧月である。
 露台の端、朋輩と、酒。
 おぼつかぬ心地でこの宴に身を置く。
 ……詩を吟ずるには、確かに良い風情なのだった。
 耳には池舟ふねからの音曲が微かに届く。
「俺は酔っている……」
 それが口に出て、己の耳に聞こえるのか、胸中の声
か、それさえ危うい。

 旧来くらいいにしえ想う露台の端
 てん仰ぐ季春はるの朧月夜
 吾彼地われ かのちの景色も知らず
 只嘯ただ うそぶく管弦覚束なしと

 綜白は父も母も知らない。母は異国とつくにの血の混ざった
女だったらしいが、帰らぬ父に耐えかねて頼った遠縁
の元で綜白を生み、産後の肥立ちが悪く死んでしまっ
た。出自も何も、その故地さえわからない。
 遠縁だという夫婦は綜白を持て余して領主である鄭
家に小者こもの仕えに出した。片手で年を数える頃である。
鄭家に子がなかったために里子の扱いを受け、どうに
か科挙を受けることができ、今がある。
 幼い頃の記憶はほとんどない。ただ、姉がいた。
 鄭家に出され、会えなくなった。暫くして、その姿
が消えた。
 聞いても答えてくれる者はなかったから、今もどう
しているかわからない。
 月に故地を想う、詩歌の型がある。だが、その故地
を思い描こうにも、その情景は記憶にないのだった。
 成年してから母の所縁ゆかりを探そうとしたが徒労に終わ
った。父を知る者は元よりいない。
 ……綜白は扇を収めた。
 詩を吟じ、舞終えたから。
 露台に、吐息が満ちた。
 池を見やると、そのほとりの篝火の下、托陽と目が
合った。邪気のない笑顔を向けていた。
						

 宴に招かれることが多くなった。
 舞を所望される。
 春官の知人が増えた。
 托陽にはあれから会っていない。また南海へと海船ふね
を出したのだろう。
 当然ながら春官には華氏の者が多い。彼等の噂話に
付き合うと、華氏の内々のことまで知るようになった。
 地官は地に基づく権を有するために、それは実際的
な力を有していると言えたが、春官は違う。祭礼のた
めには必然、国の秩序のためにあらねばならぬ官だが、
実権に乏しい。
 そのためか有事においても平時においても、権力を
争うのは他官とではなく、春官内部、特に同じ華氏の
他家と派閥を形成しては争っているようだった。
 綜白はたかが地官の中大夫だが、なにしろ殿声の別
字の由来を知らぬ者はあまりない。加えて先の侍礼宗
伯の宴で舞を嗜むと知れ渡り、これ幸いと宴に招きた
がる。春官は皆、一人でも多く実権を持つ地官を自派
に引き入れたいのだ。
 さほど宴が魅力的だとは思わない。だが、以前のよ
うに上官に取り入るために宴を渡り歩くよりはいい。
 出席に応じるのはその程度の理由である。……敢え
ていえば、托陽のことが気に掛かるからだ。
 托陽が裏で動いているのかも知れない、そう考えて
よいものか、綜白には単純にそうは思えなかった。
 宴に出るように促したのは間違いなく托陽だった。
その後の春官侍礼宗伯からの宴の誘いも、関わりがな
いはずがない。
 腑に落ちないのは、托陽と侍礼宗伯との関わり。
 いくら托陽の姫君が華家に入っていても、侍礼宗伯
との繋がりが深いとは言えない。侍礼宗伯は華家本家
の家主あるじで、派閥で言えば同じなのかも知れないが、姫
君の夫君はすでに他界している。
「……『只嘯ただ うそぶく管弦覚束なしと』」
 綜白が顔を上げた際にあった顔は見知った春官の一
人。華偉柳か いりゅうである。同じ年に生れたことを知ってから、
宴に居合わせると声を掛けてくるようになった。色は
白いが、酒を含むと見る間に頬を赤く染める。そのく
せいくら呑んでも酔うことがない。
「私も綜白殿のように酒に酔って、吟じて舞を披露し
たく思うのですが、今宵もまた酔えずにいるのです」
「ははぁ。それでは貴方が酔うのは、いづこかの御夫
人。ということですか?」
 綜白はいつものように軽くかわすつもりでいた。
「これは。やはり私の想いは秘めても隠し切れるもの
ではないということでしょうか。今宵は簾中れんちゅうに『宝玉』
の気配がございますゆえ」
 偉柳は綜白の背後の御簾に怪しげな目線を流して言
う。それで起こった微かな笑う気配に、初めて女性ひとの
在るを知った。
「偉柳殿、せっかくの物思いですけれど。どこまでも
隠し切っていただかなくては、応えることはできませ
んの」
 忍びやかな笑い含みの声が、いたずらめいて返って
きた。若い郎女いらつめではなく、相応の落ち着きある玲瓏た
る美女を想わせる。
「これは手厳しい。いづれ焦がれて、尚侍ないし殿のお姿を
求めて内宮ないくうに忍び込むやも知れませぬ」
「まぁ、命懸けのお心、嬉しゅうございますわ」
 綜白は二人の掛け合いをぼんやりと聞いていた。…
…尚侍殿、と偉柳は呼びかけたのだ……。
「この通り、いつも本気にしていただけないのだ。綜
白殿、取り成してくださいませんか」
「偉柳殿、困っておられましょう。私、ご挨拶もして
おりませんのに」
 綜白は慌てて礼をとった。尚侍といえば女官の最高
位、卿伯けいはくである。
「今宵は忍び、無粋な礼はとるに及びませぬ。……大
夫は伺っていた通りのお人柄のようですね」
 優しげな忍び笑いが耳に届く。
「『吾彼地われ かのちの景色も知らず』」
 綜白は顔を赤らめた。未熟な詩吟をからかわれたよ
うに感じたから。簾中の様子はこちらから窺い知るこ
とができないのだ。
 だが、彼女にそのつもりはなかった。
「偉柳殿に伺いました。大夫は故郷を持たぬのだと。
……私も、同じ。何やら勝手に慕わしくも懐かしい心
地がいたしました。お会いするのを、実はとても楽し
みにしておりましたわ。……綜白殿、とお呼びしても、
よろしいかしら」
「は。もったいないことでございます」
 偉柳は宴には相応しくないほどに堅くなった綜白に
助けのつもりか、口を挟んだ。
「綜白殿。先の宴の折の舞を、尚侍殿に御覧いただい
てはいかがか。私も拝見しておりましたが、詠ずる様
子もまた雅やかで、日頃の生真面目な綜白殿とは思え
ぬ程でございました」
 綜白は焦った。酒にも月にも酔わずに、あのような
真似ができるはずもない。だが、固辞するほどに期待
を持たせてしまい、ひとさし舞わぬわけにはいかなく
なった。
 偉柳が竜笛よこふえを奏でた。

 旧来くらいいにしえ想う露台の端
 てん仰ぐ季春はるの朧月夜
 吾彼地われ かのちの景色も知らず
 只嘯ただ うそぶく管弦覚束なしと

 音色は見事だった。稚拙な出来の舞だとしても、素
晴らしいと見えるとするなら、偉柳の合わせる腕のた
めだと思った。
 句を詠ずるほどに周囲のざわめきが落ち着き、やが
て聞こえるのは笛音ふえのねのみ。……曲を終えるのが惜し
まれる、そのときにはひとさし舞い終え、扇を収める。
 御簾越しに、柔らかな微笑みと目が合ったように思
った。
 宴もたけなわ、綜白は殿舎みやしろ階段きざはしを降りた。
 舞い終えた後、衆目を浴びて気疲れした上に、酒を
勧める者が増えて少し酔っていた。
 さほど人目につかぬように抜け出したつもりで、だ
から主催あるじの春官に辞する旨を伝えようと、家人か侍女まかたち
がいないかと辺りを見回した。
 薄桃色の沙羅うすものの衣を纏った女が佇んでいた。
 侍女と見るには、身に付けている衣の風情が良すぎ
る。綜白は膝を付いた。
「卿伯……!」
 簾中にあった尚侍だと、わかったのだ。
 尚侍は歩み寄った。
 良く行き届いた、美しい苑である。初夏の今、早咲
きの夏花と、遅咲きの春花が数多く咲き競う。
 八重桜、藤、合勧木ねむ、橘、牡丹、石榴、浜梨はまなし、芍薬、
薔薇そうび杜若かきつばた花菖蒲あやめ睡蓮はちす……。
 名の知らぬ、遠方から運ばれたと見える花々。宵に
閉じていても、その香りを楽しませるのか。綜白は柔
らかく甘い香りがあるのに気付いていた。
「及びませぬ、と申しました。私は酔いました。庭苑その
をそぞろ歩きたく思います」
 一人の伴人もなく、歩かせるわけにはいかない。否、
はじめから、そのつもりで待っていたのか。
 苑に回遊する小径こみちを、ゆるりと巡る。月影と、とこ
ろどころに用意された篝火がしるべである。
 時折、咲く花に足をとめる。分かれ途は、美しい花
のある方を選ぶ。
 話すことはしない。何も語らず、歩いた。
 さわさわと涼しげな衣擦れの音。その度に、ふわり
と漂う甘い香り。
 この香りは、苑の花ではなく、彼女の袖から薫るの
だとわかった。彼女を仄かにも麗しく匂いたたせる。
暗がりでは、どれほど見事は玉や装飾かざりよりも、女を美
しくさせる。
 艶やかに匂い、咲き乱れる花。
 夜に咲く花。
 その本当の意味に綜白は気付いた。
 宮中で「鄭妃ていひ」と呼ばれる女は、美しい花だと思っ
た。
						

 偉柳が、綜白の官邸を訪ねてきた。宴の席ではない
場所で会うのはこれがはじめてだ。
「ほぅ。地官の官邸は慎ましやかで使い勝手がよさそ
うだなあ。余計な装飾かざりがない」
 単に綜白が手入れの手間を考えて求めないだけなの
だが、大仰にも感嘆の声を上げた。
 まだ日は高いが、酒を用意させた。偉柳に会うのに、
酔わねばおかしな気がしたから。
 綜白があの宴から二日ほど登庁していないことを知
って、心配してやってきたのだという。
「何か、あったのか」
 何もないとも言えるし、あるとも言えた。それより
も気になったのは偉柳が尋ねてきた理由だった。
 偉柳は気持ちのよい男だと思う。だがこの王宮では、
親しく誼を得た者にいくら注意しても足りない。この
男の背後に何者かがあるのか、よくよく見定めねばな
らぬ。
 そう思いながら、托陽と親しくなったときに、これ
ほど気をつかっただろうかとも思う。
 その顔色を読んだが、偉柳は言葉を続ける。
「私は綜白殿を好もしく思っているのだ。だから言う
が、あの夜の宴は、鄭尚侍ていないしもとめたものだったのだ。
……綜白殿の舞を見たいと仰せになってな」
 そのくらいのことはすでに気付いていた。何しろ宴
を主催したのは偉柳の義兄である。日頃の宴では良く
言葉を交わすから、そのつなぎに偉柳が選ばれたのだ
ろう。
「私の義妹いもうとが、鄭尚侍の女士じょしなのだ」
 焦れたのか、偉柳は手の内を明かした。
「偉柳殿。それを仰られては」
「いいのだ。私は朋輩ともと見定めたのだ。だから言う」
 酒席でない偉柳は意外にも強引な男だったらしい。
色の白いその容貌からは想像もつかなかったが。
 華氏からは二人の姫が宮中に召されているという。
それぞれの派閥の思惑と策略を背負って姫君は入内す
る。だが、偉柳はどちらの派にも属していない。その
ことに綜白は気付いていたし、不思議に思わないでも
なかった。
 女士じょしとは妃の教養や礼儀の師として仕える女官で
ある。鄭尚侍には女士がついているというのが、妃と
して宮中で重んじられている証ともいえた。
「女士仕えなど形ばかりだ。公式には尚侍であるから
仕える下女の数が限られるし、女御じょごがおけない。それ
に尚侍は女史であったから、礼法など今更だ」
 女士の上役が女史である。下官に任じて侍女として
使っているということか。
「偉柳殿。華家の派閥には……関わらぬおつもりか」
「殿、はいらぬ。……まぁ、そういうことになるか。
だが、鄭氏につく、というのも違う」
 偉柳は瓷杯さかずきに酒を注いで飲み干した。
「綜白。鄭妃は……本当は鄭氏の御方ではないのだ」
「は?」
「驚くだろうな。だが事実だ。……出自もわからぬ」
 綜白に、彼女の声が蘇った。
 ……私も、同じ。
 そう、言ってはいなかったか。
「そんな女が、今、宮中の権を握っているのだ。ただ、
主上の寝所に侍るだけで。御世長くはないのかも知れ
ぬ」
 托陽は、知っているのだろうか。鄭妃という女を綜
白に教えたのは、他ならぬ托陽だった。そのとき綜白
は己の今があるのは、鄭妃が鄭氏の地位を引き上げる
ためだったのだと解釈した。托陽はそれを否定しなか
った。
「綜白、もう一度聞く。あの宴の夜、何かあったので
はないか?」
 綜白は今度は答える気になった。ここまで明かした
者に、朋輩ともだと見定められた者に、すべてを噤むこと
もない。……そもそもたいしたことはない。鄭尚侍の
宵のそぞろ歩きに随従申し上げた、それだけだ。
「それだけ? 本当に?」
「ずいぶん、念を押すのだな」
 身を乗り出して真剣な表情で顔を覗きこんでくる偉
柳に気圧されて、いつもの涼しい顔ができない。
「媾合まぐわいてはないだろうな?」
「は?」
「いてないな?」
「ななな。何を。そんなことができるはずもない」
 衿元を掴みかからんとする勢いの偉柳の様子に、返
す言葉も口が回らない。だが偉柳は綜白のをじっと
見て、嘘か真実かを見抜こうとしている。
 やがて偉柳は椅子に深く腰掛け直した。ひとつ息を
吐く。
「……そうだな。くだらぬことを訊いた……」
「なんなのだ、いったい」
「庭苑そのを巡って、……それで何か、話したか?」
「いや。ただ、歩いていた。花の様子があまりに妖艶
で、……一言も言葉を交わさなかった」
 偉柳は安堵とも呆れともとれぬ表情をした。
「なんだ、見た目の通り堅物だな。いや、今回ばかり
はそのほうがよかっただろうよ」
 酒ではなく、水瓶すいびょうに手を伸ばして、瓦笥かわらけになみなみ
と注いだ。飲み込んでくうに眼を漂わせる。偉柳は一
度に疲れ切ったように見えた。
「偉柳。その……鄭尚侍は主上の夜伽のひめ、だろう。
そのことと何か関わりがあるのか。つまり、そういう
ことが以前にあったとか」
 偉柳は首を振った。
「……何から話せばよいか、分からぬ。……とにかく、
綜白、別字を持っていただろう。その、殿試の際に主
上からお言葉を賜ったとかいう」
 揶揄が過分に含まれているものだから、偉柳はかな
りぼかして話しだした。気遣いは有難いが話が進まな
い。
「思うに嘘だろう、きっと。主上ではなく、鄭妃が言
葉をくだした。違うか」
「……あぁ、実はあまりのことに呆然として詳しくは
覚えてもいないのだ。だが、女の声でいくつか尋ねら
れたように思う」
「にわかに、殿試を見たいと鄭妃が望んで、だが尚侍
が入れるような場所ではないからな。主上がお出まし
になられたそうだ。……どれほどの寵愛ぶりか、わか
るだろう。その寵妃に手を出したなんて知れれば、失
脚は免れまい」
「手など出せぬ」
 出さぬとも、と偉柳は苦い顔をした。綜白にもその
表情の理由は分かる。官府は違っても、猾吏の考える
ことはどこまでも似通ったものだ。
 見る者があれば、媾曳あいびきのようだろう。
 ……親しい朋輩の義兄が催した宴席に示し合わせて、
逢瀬を重ねる。そのように噂が立ってもおかしくない。
 それが真実であれなんであれ、この宮中では噂とい
うものは人を追い落とすことのできる最も確実な手段
なのだ。
「偉柳はなぜ、鄭尚侍と私がいたなどと思ったのだ」
 偉柳は少し考えて、だがもたれていた背を正した。
綜白は偉柳の杯に酒を注いだ。
「綜白、まだ酔ってないな? 酔うているなら話せぬ」
 こんなに酒癖の悪い男だと思わなかった、と笑う。
 酔って舞い始め、宮中で評判になるような男だとは、
綜白自身も思ったこともないが、そう思われても仕方
ないと今なら思う。
「こうなれば私は朋輩おまえと運命を共にする。そのつもり
で聞いてくれ。……鄭妃は孕んでいる」
 偉柳は未だ内宮でもほとんど知る者のない秘事を漏
らした。
 主上には皇女ひめがあるほか、皇子みこの誕生は未だない。
男御子であれば、すぐに太子ひつぎのみことされてもおかしくは
ない。
「先の宴は鄭妃の気晴らしのために催したのだ。それ
で宮中でも評判の綜白の舞を御覧に入れよ、と義兄の
命でな」
 ところが宴から戻って二日、鄭妃の様子がおかしい。
孕むと気鬱になることもあれば、悪阻つわりに悩むことも普
通だから、義妹はさほど気にしていなかったのだとい
う。
 鄭妃の不快を聞いて、王は特に召さなかった。孕ん
でからは話相手だけでも望んでいたが、悪阻となれば
さすがに御身を大事に、と伝えられたきりである。
 ところが宮中に数多ある貴妃の一人が鄭妃がお忍び
で内宮を退出して華家の官邸で催された宴に出たのを
知って騒ぎたてた。
 鄭妃は一の寵妃、傷を付けておきたくて不平や中傷
を言う貴妃はいくらもある。
 折悪しく悪阻でお召しに応じなかったことも、事情
を知らぬその貴妃からはつけ入る隙、に見えたのだろ
う。主上に真実心を込めてお仕えする者であれば、そ
う度々宮中を抜け出すことができるはずもない、と王
に直に訴えた。
「度々? 先日の宴だけではなく?」
「鄭妃と呼ばれて内宮の殿舎に住まってはおられるが、
尚侍だからな。公務があれば退出するだろう」
 問題は王の耳に入ったということである。とはいえ、
この程度のこと、権勢誇る鄭妃のこと、自ら収めてし
まうはずだ。
 だが、鄭妃は動こうとしない。どういうつもりか、
いつものようには指示を下さず、捨て置け、という。
よほどの物思いにとらわれているようだ。それで偉柳
の義妹は宴で何かがあったのだと考えた。
 ……噂の舞君、鄭綜白に心奪われたのではないかと。
「なんだその舞君というのは」
「知らぬのか。ここのところ、あちらこちらと宴に招
かれて舞を披露しているではないか。その邸宅の侍女
らが、ひそかにそう呼んでいるというぞ」
 綜白は顔をしかめた。
「……それで、なぜそこで私の名が出てくるのだ」
「それはよく分からぬ。だが鄭妃が殿試に鄭氏のかばねを
見つけてから、気に掛けておられたのは確かだ。……
心当たりはないのか?」
 ない。はじめは鄭妃が己の出自とする氏族うからの地位を
引き上げるためだと思った。だが鄭妃は、その出自な
ど分からぬただの女なのだという。
 それは綜白の境遇と同じではあるが、だからといっ
て理由には乏しいように思えた。そもそも鄭妃とその
名を冠して持つならば、鄭氏の所縁ゆかりであることは確か
だろう。ならばどんどん鄭氏を己の周辺に用いればよ
いのだ。官の端々に鄭氏を入りこませて高官に召し上
げれば、己の地位の安泰につながる。
 だが、綜白は己の交際範囲、つまり大夫として官庁
にあって、鄭氏を名乗る人物に会ったことがない。綜
白が鄭氏にしては異例の存在だった。
 そのとおりだ、と偉柳は頷いた。
「偉柳。托陽殿を知っているか」
「托陽殿? 揮尚の托陽殿か。大僕の」
「彼は……華家ではどう関わっておられる」
 偉柳は首をかしげた。偉柳に聞くのは適当でなかっ
たかも知れない。托陽は春官侍礼宗伯の宴で見かけた
から、つまり侍礼宗伯の派についているということだ。
偉柳は派閥には属していないようなものだ。
「綜白? 何か知っているのか? 確かに侍礼宗伯の
宴にはおられたようだが。今は洋上にあるだろう。…
…逃れた、というべきか」
「逃れる?」
「……噂が広まったから、逃げたのだろう。主上の命
かも知れぬ」
 ここ二ヶ月ほど囁かれる噂がある。托陽の姫君のこ
とである。
 華家に嫁いだが、寡婦となった。揺英ようえい、という。亡
き母御によく似た美形で、今は伊都から離れた華家の
寮でひっそりと過ごしている。
 噂は、その揺瑛の母のことだという。
 名を玉雲ぎょくうんと言った。王の正妃たる王后玲凛れいりんの侍女と
して鄭氏から召された。
 玉雲は托陽に出会い、妻女となって生まれたのが揺
瑛である。それだけなら何の不思議もないが、玉雲が
王后の元を退出して托陽に嫁いだとき、すでに彼女は
身籠っていたのだという。
 その頃、王はまだ太子ひつぎのみこであった。王后は太子妃と
はいえ、内宮の殿舎にその居を得ていた。
 内宮は後宮、北宮ほくぐうともいう。この内宮に仕える女が、
誰彼と簡単に出会える機会があるはずもない。玉雲が
托陽と出会ったのは、彼が太子の射人ごえいであったためだ
ろう。
 玉雲は美しく気立てもよかった。王后もそれを気に
入り、常に傍らに置いた。……王となった太子の目に
触れることもあっただろう。
 やがて先王は崩御し、慣例ならいでは即位の際に正妃を定
める。そんな宮中の慌しい最中に、玉雲は退出した。
「つまり、玉雲殿は主上の御子を身籠っていたという
のか?」
 玉雲の出自が鄭氏にあるのだと聞き、托陽が己を気
に掛けるのはそのためだろうかと思いながら、綜白は
尋ねた。
「……そういう噂が立ったのだ。即位の前、玉雲殿の
腹が目立たぬうちに大僕に払い下げ渡されたのだとな。
知れてからでは体裁が悪かろう。主上には異母兄弟が
多いから、難しい判断をなされたのだと。私は信じて
はおらぬ。……主上は王后を大切にしておられたから」
 王后が亡くなり、十年が経とうとしている。
「だが、ずいぶんと以前の話だろう。今更なぜ噂にな
ったのだ」
「綜白は揺瑛殿にお会いしたことがあるか?」
「いや」
「私もしばらくお目にかかっていないが……。夫君で
あった月進げっしん殿の葬儀にお会いしたのが最後だ。悲しみ
にくれて、だがそれがなにやらいっそう美しく見えた」
「不謹慎だな。亡き母御に良く似た美しい御方だと聞
くが、お会いしたことはない」
 偉柳は意外な表情をしている。
「托陽殿と親しいのではなかったのか。本当に堅い男
だ。美しい、それも寡婦、親しき人物の姫君とくれば、
くどき落とすのに不都合があるか」
 それでいまだ独り身なのか、と偉柳は笑った。とに
かく揺瑛殿を掌中に入れるなら早い方が良い、という。
 偉柳は托陽と綜白が親しくしているのは、美人と姫
君を得るためだと思っていたようだ。だが一度華家に
入った女を得るにその父から当たるのは、遠回りだろ
う。
「なぜ早い方が良いのだ」
「なぜ、とはつまり。噂が今頃になって立った理由だ。
玉雲殿が……真実主上の御手掛けであられたなら。そ
れに正妃も亡くなられて、気兼ねされる方面も今はな
い。よく似た姫をもとめられてもおかしくはないだろう。
この噂は揺瑛殿の入内を妨げようとする連中が、敢え
て流したのだと、私は思っているのだ」
 噂の通りなら、揺瑛は王の御胤、ということだ。事
実はどうあれ、それだけの噂が立ったなら、入内を反
対する大儀となり得る。
「それで、……偉柳はいかがする」
 偉柳は華家の派閥に属さずとも、このまま鄭妃が生
む御子が男御子であればよい。だが。
 鄭妃が生む御子が姫御子であったなら、さらに王に
新しく寵愛する貴妃が入内してしまったなら。
 そしてその貴妃に男御子が生まれたしまったら。
 偉柳は危うい権力の綱上を渡っている。
 鄭妃と呼ばれる女は尚侍ではあるがその実なんの後
ろ盾もない。一方で揺瑛は需められて内宮に入っても
寡婦であるから貴妃とはされまい。おそらくは鄭妃と
同様に女官としての位を賜って、形式では「出仕」す
ることになるだろう。
 華氏の寡婦である揺瑛と、華家傍流の偉柳。血縁を
頼みにはできまい。
 ……だが、托陽と親しくしている綜白を通じて、繋
がりを持つことはできるかも知れなかった。
 偉柳は首を振った。
 ただ、派閥に属さずに、この宮中を渡るのは、存外
にからいものなのだ、と言った。
						

 夏の重たげな夜風が、窓からじわりと吹き込んでく
る。……半月ほどの間に季節は移ろいでいた。
 結い上げた黒髪。紅指した唇は茱萸ぐみのように。丸み
を帯びたしなやかな肩、腰つき。衣擦れに袖から匂い
やかに香る……。
 鄭妃。
 色事めいたしぐさも、言葉も、何ひとつ交わさなか
った。それでも綜白は、思い返すたびに幾度交わすた
めの言葉を紡ごうとしたか知れない。
 ……だが、現実と同じように、何を語ろうとしても
言葉にはならず、否、そもそも語るに相応しい何事も
思い描くことができないのだった。
 竜笛よこふえの音色が、夜風に乗って居室へやに届く。この闇夜
に、何の風情を求める者があるのか。
 竜笛は偉柳が得手とする。綜白はそれを思い、書き
かけの書類をおいた。
 その音色が近づき、やがて止んだ。それがごく近く
のように感じられた。
 綜白は露台に面して開け放した扉から現れた人物を
見て息を飲んだ。
「久しいな、綜白殿?」
 半月ほど前、偉柳が洋上にあると言ったはずの托陽
である。彼の手には竜笛がある。
「幻でも見たような顔をされているな。いかがした」
「……洋上にあると聞き及んでいたのです。それで」
 夜更けに、この地官の庁舎の奥にある官吏の執務室
にまで入り込むことのできるとは。
「それで?」
 聞き返されて、仕方なく綜白は答えた。
「……呆れているのです」
 托陽や柔らかく、忍びやかに笑んだ。それを見て、
綜白は気付いた。
 己は、この男を好ましいと思っているのだと。
 生まれてから周囲には疎まれて煙たがられて生きて
来た。何をせずともそうだから、煙たい存在になろう
としたし、そして周囲をそれ以上に煙たく煩わしく感
じていた。
 だが、托陽を、そのようには感じない。
 好ましい、と思う。
「嗣子あこが洋上にあるのでな。伊都を空にはできませぬ」
 相変わらず、身分相応とは思えぬ身なりで言う。い
つものように、托陽は椅子に腰掛けた。
「綜白殿。以前、貴方にお伝えできることがある、と
私は申しました。覚えておられるか」
 言われてみれば、それは初めて会ったとき別れ際に
そのようなことを聞いたように思う。しばらく忘れて
いたが、この言葉こそが「揮尚の托陽」の人となりを
気に掛けるようになった一因だった。
 綜白は勝手にその意味を鄭妃のことを教えられた、
そのことだと解釈していたのだった。
「私は今、南海に向かう湊を手にしている。良い地相
を持つ、湊街です。この王国でも随一の大都となった。
……その程近く、海から回り込んで半日とかからぬ土
地に、邸宅……寮がございます」
「華家の……御方がお住まいと伺っております」
 托陽の言わんとしていることが、見えてこない。そ
の姫君、揺瑛は噂の渦中、今なぜそれを話題とする。
 彼の表情が、悪戯めいている。あのときのように。
 托陽は懐から折紙おりがみされた文書ふみを出した。その折形の
様式は公式のもの、地官たる綜白の見慣れたものであ
る。
「その『華家の寮』の地券にございます。お納めくだ
さいますよう」
 ぼんやりとその言葉を聞いた綜白はいつも扱うよう
に文書の折形を開いて、地券を改めた。
 確かに、華家の寮とされる邸宅の権利書である。の
ろのろと綜白は壁の書棚に収められた分厚く綴じられ
た底簿の書籍をひとつ、紐解いた。……いつものよう
に、その書式と内容を照合する。
「どういうことです」
「その台帳の通り。かの寮は一度も華家の所有であっ
たためしはございませぬ」
「そうではありません、家屋、土地のみならず、家人、
侍女、……主人あるじまで譲り渡すなど! これでは姫君を
差し出すというのと同じではないか」
「……あの寮は元は私のさいの物。だがそれは、主上か
ら賜ったのです」
 綜白は目を見開いた。では、噂は真実であったのだ
ろうか。そして華家の都合で内宮へと送られる姫君を、
その前に己に受け渡すとでもいうのか。
「なぜ、私なのです」
 托陽は腕を組んだ。少し考える。
「このところ、身辺が騒がしいのです。いろいろと、
整えなくてはならぬことが多い。……それでも、もう
すぐのことなのですが」
 佩いた太刀を、綜白に差し出した。あの日と同じ物
を、同じように。
「これを受け取るがよろしい。貴方に、伊都を……お
任せします」
 托陽には嗣子わかぎみがある。今、洋上にあるという。
 だが、托陽は太刀を綜白に押し付けるように渡して、
露台から出て行った。……あとは偉柳殿に竜笛をお返
しするのみ、と。
 訳もわからず、その夜綜白は官邸へと戻らずに太刀
を抱えたまま地官の一室で暁天あかつきを見た。
 明けてその日、綜白を地官を訪問した天官の使者が
携えた令書には、曰く、尚氏所有伊都市舶司に任ずる
旨が認められていた。
						

 すべての動きが、緩慢に見えた。
 ゆるゆると、水の中を泳いでいるように。
 何かを拒もうと、腕を振り上げるが、水に動く魚た
ちのようには機敏でないから、届かない。
 その太刀は、托陽ちちの物だ。
 美しい、実用の太刀。
 姉君。貴女は主上の皇女ひめであられたのですか。
 鋒両刃きっさきが目前に伸びてくる。美しく、磨かれた。
 以前、己の海船ふねで南海に出航ふなでることができるように
なった頃、托陽ちち請願せがんだことがある。
 いづれは、この太刀をお譲りください、と。
 托陽ちちは笑んだ。
 腕を引かれた。倒れこんだ。
 ……父上。貴方はこの男に尚都を譲ったのですか。
 金属かねの弾かれる音。
 そして、鈍い音が続いた。
 飛沫がかかった。紅い、飛沫が。
 ……爺?
 爺の衣が重たげに濡れていく。紅く紅く。
 その身に食い込んだ太刀の柄、握る手を掴まえて。
 爺は叫んだ。
「…………!」
 膝付いた己を立ち上がらせようと、引っ張る手があ
る。
 浩阮。爺が。
 転がるようにして扉から飛び出した。
 爺、爺を置いていくのか。
 足がもつれる。だが浩阮は構いもしない。手を引い
て、先へ先へ。何処へ。
 柱影から、飛んでくる物がある。
 耳に吸い込まれそうな音を立てたそれは、駆け抜け
た背後に突き刺さっていく。
 ……なぁ、浩阮。浩阮。征箭そやが……、己を狙う。
 振り向きもしない浩阮は、己の手を引いたその肩を
もう片方の手で押さえていた。
 やがら、矢羽が、浩阮の左肩に生えている。浩阮が痛い
くらい強く己の手を握り締める。
 正堂おもやを抜け、東廂廊ひさしろうを駆ける。中天の明るさが差し
込んだ門が閉じられようとしている。
 浩阮は門扉に体当てた。
 転がり出た門前には刃がきらめいていた。
 あぁ、中天の輝きを受けて……海が光るようだ。
 いくらか湊へ駆けて、囲まれた。見たことのある顔
であったかもしれない。
 ……中天に雲もないのに。
 ぼやけて、物を見ることができなくなってきた。
 込み上げた何かが……双眸ひとみに雨を降らしているから。
 浩阮が声を張り上げている。己をかばう。肩に刺さ
った物を引き抜いた。紅いものが流れ出る。
 それに構わず、腰の物を、太刀を抜いた。……切る
のか。
 白刃が浩阮に降りかかる。
 頬を雨滴が伝った。温かい、と思った。
 否。……そのしずくが、紅い。右手で、己の頬に触
れる。
 そこはいつの間にか、すでに湊の護岸で。
 浩阮は。
 浩阮は、大きく太刀を振った。人垣が一瞬、たじろ
いだ。
 己の、腹心の伴人。
 傍らにあって、平然と主人あるじをからかう。そして己に
従い、苦言を呈し、不足を補い、共に……笑う。その
伴人が、判断に迷うことはない。
 朱漆うるしをかぶったみたいに、丹砂あかにを塗ったみたいに、
紅く……真緋あかく、鮮やかに染まった顔で、呟いた。
 ご無事で。
 渾身の力で、……突き飛ばされた。湊に。中天の光
に、綺羅綺羅と輝く海に。
 ……泳げぬような主人ではないからといって。
 爺。あとで、浩阮を叱っておけ。このような大袖の
衣では、海水みずが絡み付いて。
 浩阮おまえが、着替えよと言ったのだ。ならば海に突き落
とすことはなかろうが。
 ……見えたのは、苦く笑う浩阮の顔。
 わかったよ。俺なら泳げると、思ったんだろう。だ
から、命ずる。
 置いて、いくな。そばに、いろよ。
 水中から見上げる海面そらは、銀色しろがねのいろをしている。
 仰向けに蒼昊あおぞらを見ている。
 手足を動かしてもがくと、かえって泳ぎにくいのだと、
爺が教えた。こうしていれば、浩阮がすぐに来てくれる。
 慌てて飛んできて、あとで怒るだろう。……幼い頃の
毎日のように。
 双眸を閉じる。
 水の中に、雨は降らないから……意識を手放してもい
いだろう?
 吸い込まれる、ように。
 ……眠るように。




                  【 続 】