序
及びもつかぬ程の過去に、天地分かるることの始ま
りがあったという。
混沌のただそにありて漂うなべて萌ゆる如く成り出
すは、天と地との分かるること、なべての物事の分か
れし導かれしが始という。
風水火山海川泥砂草木鳥鹿魚人すべてが手を伸ばす
ように分かれ出で、己がほかの何者でもなき意思を持
った。
意思の巡る如くぞ天に返り地より出づる。身のはか
なくなりしとき混沌を駆け意思の白きになりてぞ天返
りしつる。地に出づるは意思の新しき巡りなり。
……そしていう。
霊力者はその霊力によって、終の別れも新たな生も、
天地に戻さぬのだと。己の霊力のみで混沌を巡り、の
ちの子孫に霊力どと生と意思をもたらすのだと。
なべて巡りゆきし現世の、天地分かれて始まりし。
語り部がいつ覚えたともおぼつかぬことを後世に伝
うのは、確かにすべてが巡りゆきのだと語るがために。
……天地分かるることの始の物語。
山間の国は白々と明るみを増し、一日が始まろうと
している。夜明けとともに民は目を覚まし、空を見上
げる。……今日も雨はないのかと。
御宮はこの国の首長の御在所であり、政事の場であ
る。広く垣が巡らされ、いくつもの御館や御舎が立ち
並ぶ。その一画には、首長に仕える女官のための殿舎
がある。
楓は殿舎に房室を与えられた、若い女首長の信頼篤い
女官の一人だ。
彼女はもうこの御宮で十五たび、季節を巡った。退
出するような理由もとりたててなく、父親の稲佐は郷
士の一人で、彼女が女首長に仕えることを必要として
いるためか、妻問や婚いの話もあったが立ち消えとな
ったまま、この小ぢんまりとした房室を住処としてい
る。
小さいと言っても、房室を与えられた女官は多くな
い。殆どの女官は殿舎の広間を衝立や壁代の垂布や帳、
立蔀を間仕切りにして過ごしている。だが房室は板籠
められているから、朋輩の女官の様子をいちいち気に
留めずに寝起きができるのである。……特に、こんな
日には。
楓は本当なら、数日ほど暇をもらって郷の邸宅に帰
り、ゆっくりしようと考えていた。
女首長に仕える身ではあるが、郷に帰れば郷士の女。
族人や伴部の者からは媛様呼ばれる立場にある。
あまり郷に帰らない楓だが、長雨の続くはずのこの
季節、祭事や行事の少なくなるのを見計らって暇をも
らっていた。楓の帰るのに合わせて、皆、氏族の者も
集まり、宴や一族の祭事を行うのが常となっていたの
である。
ところが、それらの用意をしている族人や伴部の者
たちには悪いが、楓は続く旱や水不足を理由に、帰る
のをはじめて取り止めてしまった。
雨がないのは確かに国の大事で、女首長自らが水を
節する中、大きな宴や祭典を郷士らができるはずもな
い、というのは楓にとってとりあえずもっともらしい
言い訳になってくれた。
郷の者は皆、宴を楽しみにしていただろうし、楓も
少しばかり惜しいと思っている。だが、それでも帰る
気にはならないのには他に理由があった。
父、稲佐のことである。
語り部や古老たちも覚えのないほど、雨がない。
なぜか山間の領内を流れる大川は真っ先に干上がっ
てしまった。それでも井戸は水位が下がったものの、
水がまったく汲めないほどでもないため、まだ渇き死
ぬような事態には至っていない。
だが、このまま長雨がなければ、いつ井戸が涸れるも
のか。
民の不安はじわじわと広まっている。今のところ、
二日に一度、隣国の海辺の国が樽や甕で水を行商に来
て、筆頭郷士である笙木様が私財で贖っているという。
かの国の小川はまだ、水を流しているのだ。
稲佐は、海辺の国を警戒していた。この周辺の国々
は山間の国を同盟の要、盟主国としている。海辺の国
に財を流せば、国と国の間にある見えない均衡の糸が、
切れるか、絡むか……。
海に面した海辺の国は海の幸を多く受ける。山深く
流れる小川が、海辺の国の領内に組み込まれたのはそ
う古いことではない。
楓の物心つくころまで、戦があったのだという。そ
の戦派領地の境を大きく変えた。小川もまた、その上
流は国境がはっきりしないまま、誰も立ち入らぬ場所
となった。
稲佐は笙木に、水を購うよりもあいまいになったま
まの国境を、この際にはっきりさせるように迫ってい
た。そのためには兵を出すことも厭わず、やむを得な
いのだと。かの国と話し合うにしても兵力の差をみせ
つけてから、この水不足は兵を出す余裕も削いでいく、
ぐずぐずしてはいられないのだからと。
楓には政事の難しいことは伝わらない。それでも笙
木と対立する稲佐が「戦派」と呼ばれているのは聞き
及んでいた。女首長が本当に戦になるのを
恐れて笙木の意見を取り入れていることも。
このさなかに郷の邸宅に戻ったなら、父に「戦派」
の考えを女首長の耳に入れるように交渉の役目を負わ
されてしまうだろう。だがそれは女首長の心に適うも
のとも思われない。
彼女の大事は国の政事よりも、若き女首長の御身で
ある。このところ少しうち沈んだ様子を見せる女首長
の憂いを増やすわけにはいかない。
だから楓は暇をもらったものの郷には戻らずに、こ
の板籠の房室でゆっくりと過ごそうと考えていた。こ
こは彼女だけの房室、暇をもらったからには誰にも朝
寝を気がねすることもなく、他の女官が起きだす様子
に気がついてもあわてることなくうとうとしていられ
る。……はずなのだ。
思ったよりも房室の外がざわざわしていて楓は面喰
っていた。いつもこんなに騒がしかっただろうか。だ
としても暇をもらっているのだ、こんなに薄暗いうち
から起きだすことはない。せめて夜に火守の番をした
者たちが休む頃合までは寝ていたい。そう思いながら
衾麻を被り直したのだが。
初めは遠慮がちにほとほとと。だがしだいに大きく
どんどんと妻戸を叩く音がする。隣の房室かと思い込
みたいが、音が大きくなるにつれて自分を呼んでいる
のは間違いないのだと思うよりなかった。
えぇい、暇をもらっているというのに。同輩には伝
えたつもりでいたのだが、誰かに伝え忘れただろうか、
それとも何か。
叩かれる妻戸の音の大きさに、楓は寝たふりを諦め
た。手探りで衣を引き寄せる。袖を通すと、それは郷
に戻らないのならせめてと、伴部の者が届けてきた真
新しい倭文の表衣だと気付く。薄青に染めた麻糸を綾
に織った乱れ模様は楓好みに仕上がっていて、これも
郷に戻らなかったのを惜しませる。
「……起きているわ」
ため息しながら胸元をかき合わせて錠を持ち上げる。
その頃には妻戸の向こうにいるんが誰だかおよそわか
っていた。
「楓様、……あっ」
芹月はしまった、と口を押さえた。つい昨日にも楓
に「様」を付けてはならないと言われたばかりなのだ。
ここは郷ではなく御宮なのだからと。だが郷ではずっ
とそのように呼んでいたし、氏族の総領媛の名を軽々
しく呼ぶこともできないから、「楓殿」と呼ぶように
気をつけていたのに。彼女は今、慌てているのだ。
「いいから。何なの」
楓の声は思わずも機嫌の悪いものとなった。それを
察して芹月は手早く伝える。
「御休みのところ申し訳ありません。それがその、さ
きほど内殿に参りましたら、臥処に霊力者姫様がいら
っしゃらないのです。
楓は力が抜けてしまった。どんな大事かと思えば。
明日香様はほとんど毎日のように御宮を抜け出してお
しまいになるし、探せばわかるところよりも遠くには
決して行くことはない。
そうはいっても宮仕えの日の浅い芹月を責められな
い。彼女はよくやってくれている。ただ、少しばかり
「氏族の媛様」を当てにしすぎているだけで。
女官をまとめる女首長付きの側近の従者、主紗殿も
暇をとているためか、皆、どこか浮足だっているのか
も知れなかった。主紗殿が戻ってから入れ違いに暇を
もらうべきだっただろうか。
「わかったから、芹月はいつものように臥処を整えな
さい。霊力者様は私が探します」
居場所は分かっている。楓は長くこの御宮に仕えて
きた。
髪を整えながら、楓は今日の暇が返上されたのに気
付いた。
△
女首長は海を見つめていた。山に囲まれたこの国で
唯一遥か遠く海を見渡せるこの丘。青瑠璃の玉よりも
まだ青く、藍を幾度も重ねた染衣よりもきらきらしい
青、群青の海がとぎれた山並みからわずかに見える。
彼女はその海から届く透明な風と、その不思議な輝
きを見つめている。……理由はあるかもしれない。だ
が、ただ美しいと思い、好ましいと思うのにはそれほ
ど深い理由は要らないように思われた。そう、海の深
く複雑な青色ほどには。
未だ間近に見ぬその輝きを憧憬だけで見つめるほど、
彼女は幼くはない。いつのまにかそのようには思えな
くなり、それはかつてのように幼子ではなく首長とし
て、この国の霊力者としてここにあるのだと確かに彼
女に思わせる。
彼女は風を使う霊力者。
明日香というその「名」を風から「受けた」。幼い
ころ呼ばれた名、母がそう名付けたという「通り名」
で呼ばれることはもうない。明日香はこの山間の国の
首長なのだから。
丘の草むらは、雨のないせいかいつもの柔らかさが
ない。
昇り始めた日の光は山の端を真緋に染めて、有明の
薄闇を払うように一日の始まりを告げる。
丘には彼女の愛馬、白夜と栗毛の馬。
そして筆頭郷士である笙木。
とうに決めた覚悟は彼女を強張らせていた。これか
ら、この父ほどにも年の離れた笙木に話さねばならぬ
ことは、国も、すべてを巻き込んでいくことなのだと
承知していた。
笙木はただ黙ってこの若い女首長の言葉を待った。
彼女の様子がただならぬのに気付いて、そっと片膝を
ついたまま。
ふいに風が大きく明日香の衣の袖を巻き上げた。そ
の声が彼女の覚悟を揺さぶった。
《明日香。いいのですか?》
それは霊力者を案じるものではなく。ただそれだけ
を述べる。……霊力は風のものではなく、それを「使
う」霊力者のものだからだ。
笙木は己の襲を明日香に掛けようとした。風の強さ
を案じたのだ。明日香はそれを断り、楽に座すように
言ってから。
それから、言葉を紡ぎ始めた。
「笙木。私は『民のために生を捧ぐ一族』の霊力者だ。
霊力者は転生を繰り返す。……だが転生をせずに霊力
を得る手立てがなくもない」
霊力を永遠にするために生を終えた霊力者は、その
霊力をもって時空に綻びを作り上げる。そして一族の
子孫にまた生を得る。生まれ変わるのだ。
これは一族の秘事、郷士でも限られたものにだけ伝
えられる。笙木はもちろん知ることではあったが、今、
明日香の告げたことは。
なくもない。その言い回しに何か含むものを感じて
崩して座したその背筋を再び伸ばした。
やや後ろに控えている笙木を明日香は振り向かなか
った。否、振り向けない。今、笙木はどんな表情をし
ている、そして己は。
ただ前を、海を見据えて話す。海は勇者の心を持っ
ている。こんなに己を奮い立たせてくれるのだから。
そう、己の心に言い聞かせながら。
「もし……霊力を得た者がいるなら。そして力を合わ
せることができるなら」
雨雲をこの国に、いやこの周辺の国々に寄せること
ができるだろう。この女首長と霊力を合わ得る者がい
たなら。だがそれは叶わぬこと、女首長の霊力では風
を呼び起こすことはできても、雨雲をわき立たすこと
ができない。雨と風の霊力があって、広く領内に雨を
降らすことができるのだ。
それに霊力を合わせるためには、霊力に差があって
はできない。この近隣の国に名をとどろかす霊力者の
一族、その霊力者姫の霊力に適う者はいない。
今、一族に霊力を受けた者は他にただ一人、女首長
の従妹にあたる那智だ。彼女はまだ年端のいかぬ少女
で、わずかに水を使うが、女首長と霊力を合わせるに
は耐えられないだろう。
霊力を合わせることは適わぬ。
明日香はゆっくりと笙木に向き直った。見えぬ話に
戸惑う笙木を見据える。
転生をせずに霊力を得た者がいるならば。
この若き女首長、明日香様の仰せは、そういうこと
なのか。だが、そんな者がどこにいるというのだ。
「……水葉が。水の霊力を得ている」
△
生まれたとき、すでに意識があった。
『声』を聞いた。それは初めて聞いた音。霊力で聞い
た音。風の音だ。
己からその霊力を現したのではなかった。ただ聞く
ともなしに。わかったのは、その声は己に向けられて
いるのではないということ。風は産中の母、水姫に話
しかけていた。
双子の妹姫は、霊力者である。十四の年に名を受け
させるのだと。だが、姉姫は霊力者ではないのだと。
母はおののき嘆き、それでも二つの産声に恐れる産
婆や産事に仕えた女官たちに気丈に命じたのだ。双子
の姉姫を天に返すのだと。悲鳴にもにた吐息と悲嘆、
その訳もなぜかすでに理解していた。
双子はその見姿見形を一つの胞の内で「血から」分
けてしまうのだという。そしてそれを恐れ忌む風習の
ために、霊力を持たぬ霊力者ではない姉姫は生きられ
ぬのだと。
命じられるままに女官らはのろのろと動き出した。
あまりの禍事を目の当たりにして、自失したまま。や
がて産みの報せの鐘を鳴らす役目の者が呼ばれ、悟ら
るること罷りならず、側近を産屋に参らせよ、そう命
じられたのちに参らせた者が姉姫を抱えていったのだ。
産まれ落ちたばかりの己にその溢れる霊力を抑える
ことができなかったのか。それともそんな気にならな
かったのか。
産事は生と死が入り乱れる。霊力者ともなればなお
さらに。
前世を生きた霊力者の霊力も時も場所も渦巻き乱れ
る。そのとき思ったことは……本当にそのとき己の思
ったことか、それとも風に名を受けたあとの己が思っ
たのか、前世の霊力者がそのように思ったものか、判
からない。
だが確かに姉姫を死なせなくないと強く思った。
男が川べりに繋がれた小舟の縄を切ったのが見えた。
その船底に岩で擦ったような傷があり、水が染み込ん
でくるのも、この先に滝があることも。
なぜ。己が霊力者だから。双子で生まれたから。生
まれてこなければよかったのか。
だが、そんあことはどうでもよかった。姉姫を死な
せたくない、死なせない。生きて。
水が応えた。沈みかかった小舟から姉姫を掬いあげ
た。……だが、それだけでは。
姉姫が生きられぬなら「今生」などいらない、この
生を明け渡しても構わない。一つ胞の片身を奪われる
くらいなら、二人で生きられぬなら。
その叫びに似た願いに、水が教えた。己が六度の転
生を繰り返す霊力者であること。そして二度の生を生
き、今三度目の生を得たのだと。それは己の生はこの
先も続くのだということだ。
生まれ落ちる、ただそれだけでこれほどにも辛い思
いをする。それをこの先まだ繰り返すのだ。産事は時
も場所も意思も、混沌で混ざり合う。……今しかな
い、今、この瞬間なら姉姫を生かすことができる。幾
度も生きるその生を、辛い思いの繰り返しとしても、
今に手繰り寄せることができるその霊力が己に息づい
ている。
水の霊力者としての霊力と、後世に生きるはずだっ
た生を姉姫のものにするのだ。
そのために本来得るはずの霊力を失うとしても。姉
姫を生かすのだ。双子なのだから。その片身を、半身
を失うわけにはいかないのだ。
……己の身には風の霊力が残った。
姉姫は、水葉は水の霊力を宿した。
そのときは思いもよらなかった。風だけでは雨を呼
べないことなど。
そして山間の国が後年、旱から水不足に陥ることも。
そして、狂わせた多くの運命も。
△
明日香の語るその禍々しい、だが現実の物語を笙木
は受け止められずにいた。否、それをしかと聞いてい
られるほど、己を保ってはいなかった。
この若き女首長、前の女首長にして霊力者の大姫、
水姫様の残した双子の妹姫の口から、その姉姫の名を
聞くことになろうとは。
束の間、驚きに自失していたかも知れない。明日香
の紡ぐ言葉は「ただひと」の笙木にはあまりに妖しく、
畏れが背筋を這い上がる。それが却って彼に気を取り
直させた。
明日香は知っていたのだ。笙木や古参の者たちがひ
た隠していた禍事を。……何故、隠しおおせると思い
込んでいただろう。これほどまで、人の生を変え得る
ほどの霊力を持つ霊力者姫を相手にして。
笙木は明日香に向き直ると深く礼をとった。若い女
首長を侮っていたことに、そして一度は一つ胞の姉姫
を奪ったことに。深く、謝意を込める。
「よい。責めるつもりはない。水葉を川に流したのは
母様の命だ。それに、水葉は生きている。……笙木、
だからお前は人殺しなどしていない」
だから……悲しみを一つ減らしてほしい。長く要ら
ぬ悲しみを背負わせたのは明日香なのだ。
詫びる明日香に笙木は苦い顔をした。明日香は「そ
のこと」を知っているのだ。主紗の母、紗鳴を失った
ときのことも。
△
笙木は水姫の命により、姉姫を人知れず川に流した。
その泣き声は未だ彼の耳奥に残り、ふとした折に心を
疼かせる。まるで己の運命を知るような激しく哀しい
泣き声。
水姫は姉姫に「水葉」と名付けた。川面をが流る木
の葉を思ったのだろう。笙木は船底に穴があるのを知
りながら、小舟の繋ぐ縄を切った。……無駄なことと
知りながら木札に名を記し、風邪引かぬようにと幾重
にも布にくるんで。
小舟はやがて木の葉のようにその流れに沈んだか、
先の滝壺に落ち込んだかしたはずだった。
戦を幾度も超えてきた。
己を、族人を、邑人を守るために幾度も斬った。だ
が、あの縄を切った感触は、己が斬られるよりも重苦
しく痛い。
それからいくらもたたぬうちに戦が起きた。この近
隣ではこれが最も近いとことの戦だろう。初めは小競
り合いだったが、山間の国は祝事の直後を突かれたせ
いか、みな浮足だった。
そのときは邑や御宮のほど近くにまで敵方が入り込
んでいた。戦場を移さねばならない。
笙木はわずかな手勢で撃って出た。民が逃れるだけ
の時が稼げればよい。相手は多勢。囲まれたか、だが、
民を逃すだけはできたはずだ。
耳を、泣き声が掠める。
水葉姫か。
ああ、そうか。己はここで死んでも仕方なかろう。
……そう笙木は思った。だがそのとき、どこかで見
たような、見なれた女を戦場に見た。とっさに逃げ遅
れた民かと思った。ならば、今ひとときだけでも、死
ねない……。
女は争う兵の間を縫って一途に駆けり来る。若草色
の染衣の裾をひるがえし。
なぜ逃げない。それほどにこの戦場に向かい、駆け
る理由が何処にある。生と死と入り乱れ、猛りくるこ
の戦場に。
笙木が気を取られたのは一瞬、それでも熟練の敵兵
には充分な間、刃のきらめきが己が身に降りかかる。
防ごうとした返しの太刀は……間に合わなかった。あ
あ、斬られる。
血飛沫が真緋く……飛んだ。だが、痛みを感じない。
笙木が見たのは、血まみれの女。紗鳴。
崩れ落ちるように倒れた紗鳴を支えようと伸ばした
腕は届かず、笙木の妻は地に伏した。
弱々しく笑みを浮かべ、紗鳴はただ呟いた。……ご
無事で、と。
その涙に潤んだ瞳の閉じるのを、見守ることもでき
なかった。仕掛けられる刃を笙木は払っていく。
……戦の終結には時がかかった。
笙木は領内のほぼ最中にある邑外れの草野原に戻り、
見渡した。火箭の射かけられた草野原はまだ燻り、負
った傷に動けぬ者や折れた刃、征箭が残り、屍となっ
た者たちが転がっていた。
血の流れた草野原をそろそろと踏みしめる。やがて
彼はそのなかに、甲冑ではなく、染衣を見つける。
その年の初めに、持ち合わせのない色合いの衣がほ
しいと伴部に無理を言い、いつもなら刈安草の黄色に
藍を重ねて萌葱色を染めるところを、黄肌の木の皮で
染め付けてから淡く藍を重ねて染めた若草色の染衣。
色合いも柔らかに仕上がった紗鳴の気に入りは、今
は赤黒いもので凝り固まっていた。その衣に包まれた
身も息絶えて温もりは闇に返っていた。笙木が躯を抱
えると左腕の手纏がかさりと音立てた。
……これは人殺しの報いだ。
だが何故紗鳴だ。紗鳴が奪われる。何故己の命では
なかった。ああ、愛しい者が奪われる、そのことが己
の命を投げ出すよりも苦しいことなら、そうだまさに
それは報いと言える。
ならば仕方ないのだ。愛しい者を奪われても仕方な
いくらいに冷酷に、あの縄を切ったのだから。
笙木が明日香にその生まれの話をすることがなかっ
たのは、双子の姉姫のことを隠すということよりも、
笙木が辛いのだ。
姉姫の泣き声、その死を命じた水姫、一瞬でもその
死を受け入れた己、そのために失った紗鳴。
どれも切り離せず、笙木の気持ちに影を落とす。
紗鳴は嗣子の主紗がたった一つのうちに死んでしま
った。主紗は母の温もりを知らずに育った。そのこと
ですら、笙木にとっては「報い」なのだ。
明日香はいつとはなしに知っていた。
草野原を歩くうちに、地に残った思いを風が匂い立
ち感じ取った。笙木は一人でその責めを負うつもりで
いることも。
だが、それはひとつも笙木のせいではない。
どうにもならないはずの運命を捻じ曲げた己のため
に、笙木を苦しめた。笙木をそのように仕向けたのは、
ほかならぬ明日香だ。
笙木はそれは違う、と強く言った。
もし運命というものが確かにあるとするなら、明日
香が姉姫の生を変えたそのことすらも運命だ。
……だとすると、それを嘆くことすら無駄になる。
選びようもなく、どうすることもなく、ただその流
れに運び込まれた木の葉というものは。
流れに身を委ねたとしても、何かに掬い絡めとられ
たとしても、過ちがあったことにはならない……。
木の葉は己から足掻くことも向かうこともできない
のだから。
△
ウミが大好きだ。
なのにウミを知ることは難しい。
隣国も、政事も、山ほど知らないといけない。ただ、
ウミが知りたいだけなのに。
笙木、ウミはむつかしいな。どうしてこの丘からし
か見ることができない。
……そうですね、海は、遠いから。
どのくらい、遠いのだ。
風音様。先日、学問の師がお話されたでしょう。こ
の領内の隣国に、海辺の国があると。海はその目前に
広がっているのです。
学問はむつかしいもの。ウミもわからぬ。
そんなことはありませんよ。海は……確かに気難し
い師のようですが、ときに優しい。
そう、水姫様のように。
ウミは気まぐれ者なのか。風音と同じだ。風音は気
まぐれ者だから、風は時々しかウミの匂いを運んでく
れないんだ。ウミのこともあまり答えてくれない。
母様は違うのに。母様はいつでも、水も風も火も、
みんなとお話できる。郷士の皆とむつかしいことも話
ているし。
水姫様は霊力をお持ちで、政事をなさるから首長な
のではありませんよ。もっと簡単なことです。
ほんとうか。風音にもできるか。
もちろんです。水姫様は民も郷士も、皆にとって良
いように望んでおられる。だから皆も水姫様をお慕い
申し上げ、敬い、国がひとつになるのです。
よいように。
えぇ。悲しくても嬉しくても。それがすべて良いよ
うに。悩んでも、迷っても。
……わからぬ。
風音様が良いようにと望まれたことが、すべてを良
いように導いていくということです。それは難しいこ
とではありませぬ。いつか風音様は水姫様のようにお
なりになります。……風音様は海がお好きでしょう。
ああ。ウミはとてもきれいだ。ウミから来た風は気
持ちがいいもの。
それはとても良いことです。海を知るために覚える
ならば、お嫌いでも難しくても、いつかきっとすべて
が良いように思われるでしょう。そのときには水姫様
のようにおなりになっておいででしょう。
そうか。嫌いでもよいのだな。
もっとも、お嫌いだということと、おやりにならな
いということは違いますが。
えぇー。
今、首長としてこの国を統らす明日香は、母のよう
になっているだろうか。
己の良いように望んだことは、皆のために良いよう
になっているだろうか。
己の望みが皆の望みであればいい。皆が幸せを望む
ならば、己も幸せを確かに望むだろう。
皆が幸せでいるなら、いくらでも幸せでいられる、
笑っていられる。
なのに、どこか掛け違い、くい違い、皆が海よりも
遠く離れて。届かぬ、伸ばした腕。
……霊力を得ても、風は海を傍近くにはしてくれな
い。
では風は皆の、民の幸せを、この身の傍近くにおか
ないのか。
海からの風は、あの頃と何も変わらないというのに。
△
朝焼けの中、明日香は海を見ていた。穏やかなその
果は、その雲の少ない空は、今日も雨を連れてきては
くれないのだろう。
明日香は言ってしまった。口から出した言葉は二度
と戻らない。そのためだろうか、ここから望む海のよ
うにここで聞く風のように……穏やかな心地がする。
否、違う。笙木の言葉を、反応を待つことができな
いからだ。それは安堵とも違う。
笙木の今までの想いを崩してしまった。今の彼を作
った、想いを。なのに、明日香は気が楽に感じるのだ。
苔むした巌のように重い、動かしがたい荷を下ろし
た。誰かがこの荷の重さを知った、それだけで、こん
なにも気が楽になった。
それは、笙木が失った想いと、これから新しく負う
重みであるのに。
そのことに気づいて恥じてみるものの、それよりも、
心の奥底の水瓶ににわかにひび入って、じわじわと哀
しみもせつなさも苦しみ痛みも呵責が薄れるようにこ
の身を流れ出ていく。
心寄せる誰かが己の荷の重みを知ってくれる、それ
だけでこんなに心落ち着き、救われたような気持ちに
なるのだと知った。
ならば、笙木にとってもそうであってほしい。
笙木は母の臣。今の己が母に及ばなくとも、その荷
の重さを今は引き受けられる。
笙木の辛く苦い記憶は風から知った。それを告げず
にいたために、余計に負った荷もあったのだろう。だ
から今は笙木の荷も軽くなっていればいい。
笙木は口を開いた。
「……責めはいたしません。明日香様が良いようにと
望まれたことであるなら」
それに、思い出したのです、と笙木は続けた。
笙木の腰には、帯玉の代りに佩いた手纏がある。翡
翠の勾玉と珊瑚の破片を銀の撚糸に通したもの。あ
の草野原で伏した紗鳴に温もりを求めて……目に留っ
たもの。地に返らぬそれは、確かに紗鳴の左手首にあ
ったのだ。
……生きているから、幸せを感じるのです。
それは水姫の言葉だ。
辛いことがあっても、また幸せが巡って生きていけ
る。長く忘れていた本当の意味。それは、今明日香に
伝えるべき言葉だ。
明日香はできる限りを生きようとしている。良いよ
うに良いようにと、すべてを生きようと。だから笙木
が伝える言葉には意味があるのだ。
憂いを失くすことが幸せなのではなかった。それを
笙木は長く忘れていた。
彼は己の若き女首長に呼び掛ける。
明日香様。
その柔らかい笑顔に、先の女首長の面影を見た。
△
かつての旅は今ほど楽なものではなかった。人々は
交易のための荷を、あるいは他国への御調を背負い、
愛しい者への土産を持ち、己の食糧を下げ、獣の踏む
だけの道を行った。通う者なくば、すぐにでも草木に
覆われ見失うような道を。
見失わぬように川沿いを行き、山の麓を行き、見渡
す景色を標にし、手にした鉈で叢を払い枝を切り落
とし、次に通うための道を作った。あるいは己に続く
者のために。
細く獣道よりも頼りないそれは、やがて踏み固めら
れ国を繋ぎ、流れの猟人や技芸人が通い、人の行き来
が増え、そのぶんだけ叢が薄くなる。道は人ひとりで
は作られないものだ。
国と国の関係が深くなると、互いに自国では得られ
ない財を交易で得ようとする。そのための市が開かれ、
市を栖に渡ることを生業とする者たちが現れる。
それぞれの国が市を整えて彼ら行商人を迎え入れる
と、道は賑わい、国々の関係はより深くなっていった。
だが、深く関係を持つことはまた己の国の利を他国
に押し付けることでもあり、争いを生んだ。大国と小
国の差が広がり、財を得られぬ小国は大国へと御調す
る。大国はその御調をも争い始める。
愛しい者に贈る玉石を市で得るために、山野に分け
入り雉を射た弓箭は、憎しみいもない他国の者たちを
狙い、皆で狩猟の獲物を切り分けた刃は見知らぬ敵か
ら己が身を守るために手にするようになったのだ。
戦が増えると兵士も防人も多くなる。そして他国に
彼等を送り出すには、また報告に馬が走るには、道は
狭すぎ遠すぎた。
大国は小国に労役を課し、幅の広く遠回りにならぬ
「路」を造らせたのだ。大木を倒しその切り株を引き
抜く。その材は駅家になり、くり抜かれて兵士の喉を
潤す井戸となった。削られた山肌は突き固められ大岩
が土砂の流れださぬように杭打たれ、水捌けのための
側溝、距離を知るための塚が整えられた。
財を守るための手段を大国から得るために、小国は
「路」を造作ったのだ。
戦が減り、同盟の結ばれた今は、国の行き来のほと
んどにこの「路」が使われている。その多くは山路だ
が、かつての道とは比べることのできぬほど易く行き
やすい。
だから道はまた獣が分け踏むほど、猟人がその獣を
狙うだけとなった。いずれまた少しずつ荒れては元の
叢に覆われるのだろう。
幼い頃、学問の師である祖父の紗霧が教え諭した。
人ひとりでは行えぬ営みもやげて埋もれゆくのだと。
ならばその造作もまた営みのうち、いずれ巡りゆく
流れの中で埋もれてゆくのだろう。草木に、森に、大
地に。
人ひとりでの行いはましてにわかに朝霧のように消
えてしまうのかも知れぬ。
それでも人は己を営み続けるのだ。道が路となった
ように。それすらも、巡りゆく流れのうちなのだから。
祖父の……師匠の穏やかな瞳が閉じられたのはそれ
から間もなくだった。母の死は幼すぎて理解できず覚
えもない。だから物心ついて悲しみを知ってから初め
ての死別だった。
魂呼ばう声にも戻らず逝った。ただちに殯のための
殯宮が設えられて、女首長である水姫様の使う火の中
ですべてに返っていったのだ。
整えられた御陵の前で、やっと泣いた。他の誰にも
見られてはならないと思ったから、ひとりになってか
らやっと。
理由はきっと風音様に己が泣いたことを知られたく
なかったからだろう。
水姫様は師匠の最期の意思を火からお聞きになった
のだという。その意思を伝えられて、だから、ひとり
になるまで泣かなかった。
風音様をお守りしなさい。
その言葉を残して師匠は逝った。
泣いて泣いた。悲しかった。
それからだ。苦手な武芸を身に付けるために必死に
なった。短剣だけは人並みに扱えるようになった。
それからだ。
守る人ができたのは。
ずっと、何に代えても、護るのだと決めたのだ。
小川に沿ったかつて人の営みを支えた道は、再び叢
に覆われ始めている。
主紗は、そんなことを思いながら頼りない道を分け
て歩いていた。
この道は人ひとりでは作られなかった。
木陰の落とす薄闇を払い、茂る叢を分け、蔦を切る。
易くはないが、己の道を作りながら歩くのは。
今の己にはちょうどよいと主紗は思った。
△
御宮には客人の御館とよがれる館がある。
他国の王や首長など、御使者が留まる、日頃は使わ
れることのない、ただ清掃められるだけの御館。この
御館はいくつもある他の御館や御舎とは違う。
その造りも調度も、首長の住まう内殿に引けを取ら
ぬ。
茅葺かれた切妻の大屋根は太い垂木と棟持柱に支え
られ、その周りには打竹の縁が巡らされて、廂が施さ
れていた。縁の目先には前庭があり、よく手入れされ
た花が季節ごとに競って咲き、客人の目を和ませる。
階段を上ると、館内は板壁と蔀が外を隔て、壁代の
垂布がさらに館内を分ける。垂布の向こう側には御簾
があり、臥処となっている。
置かれた文机も灯台も櫃も手筥も、質の良い漆塗り。
衝立や屏風に描かれた景色も草木も季節をあしらい、
美しい。几帳の布は裾濃に染められて涼しげで、五重
の真菰の畳を縁取った絹の縫も見事なもの。臥処の衾
は膠を落とした掻練の絹で柔らかい。
円座も 掖月も筆も硯も、文挟さえも、何もかもが洗
練されているのだ。
それは他国の御使者に見せつけるためだ。これらの
品を見た者は山間の国の技工人や工匠の技術の巧さを
知る。そして市で買い求め、御調して手に入れようと
し、山間の国との関係を深めようとする。
山間の国がこの近隣の盟主国としてあるのは、その
軍事力のためでも、霊力の畏怖を纏った女首長のた
めだけでもない。多くの民が身に付けた技巧により、
己の国を国たらしめてきた。
那智はこの「客人の御館」が気に入っている。奥津
の国では王宮の御社にすらない素晴らしい御館。……
もっとも、御社は巫女の祭祀と生活の場、装飾は必要
ではないのだが。
年に数度、足を踏み入れる御館。だが、今回は久方
振りだ。奥津の王の御使者として帰国するのは。
奥津の国では、子は父の下で育つ。父の氏族のもの
となる。それに慣習って、那智は幼い頃に生国を去っ
た。それでも生国は彼女に「民のために生を捧ぐ一族」
としての霊力を与えてくれた。一族で霊力を得るのは
ごくわずか、だから彼女は奥津の巫女であり、山間の
霊力者でもあるのだ。
困ったことはない。両国の橋のたもとをいつでもつ
かんでいられることに。それは彼女にしかできぬ事が
あるということ、そしてそれは彼女の在る理由であり、
意味だった。そのために生まれてこられた。まだたっ
た十三度の季節を巡っただけだが、両国の「立場」を
生きている分だけ、彼女は早熟だった。
彼女は己が何を成すべきか、正しく理解していた。
だから今日も、奥津と山間の狭間を生きる。檻の中で
美しく羽を広げる孔雀のように。羽を折られても、空
を舞わずとも、雄々しく麗しく。
長鳴きの鶏が薄らぐ空よりも早く朝を知らせた。
すでにこの御宮の女首長の姿がないことも、彼女は知
っていた。昨日のうちに二人が決めていたことだから。
明日香は那智に、筆頭郷士に説明して、那智の持参
した王書の受入れを詳しく話したいから、と言った。
そして総長に御宮を抜け出す手筈の手伝いを頼んだ。
朝に行われる会合に明日香の代りに臨席して、筆頭郷
士のいない場を収めることを。
どこか……明日香の物言いに偽りを感じた。だが、
那智は明日香の頼みを受けた。彼女の成すべきことは
明日香の意と奥津の王の意を重ね合わせ、擦り合わせ
ることだ。それに、軽々しく異論を唱えられる身では
ない。
だから那智は目覚めると己の役割を果たすだけだ。
臥処の物見をそっと押し上げて様子を窺う。この物
見は客人の御館の裏手が見える。隣り合った小館の先、
木々の向こうには女官ら、舎人や従者のための殿舎、
雑舎、舎人所が並んでいる。
出入り激しくする「御宮の住居人」たちを見て、少
しばかり寝過したらしいことを悟った。この御宮の垣
内の、さらに内垣の奥、内殿におわすはずの
女首長の姿がお見えにならぬためだろう。
鶏に毒づき、それでも落ち着いて那智は水の張られ
た鉢の前に座した。朝の身支度のために、昨夜のうち
に客人の御館に仕える従婢が置いていったものだ。
鏡代りに髪を整えた。
鉢の底には螺鈿の花が沈んでいる。
水に揺れる花を掬うように、……那智は両手を浸す。
彼女の霊力は使いようによっては明日香のそれを凌
ぐだろう。水の霊力と、巫女の力を合わせ持つ、類稀
なるその身のために。
水は那智の呼び掛けに応えて、そろりと彼女の腕に
這い上る。そして肩から胸へ腹へ、足へと水は伝って
彼女の姿を覆っていく。
だが、夜着や単衣の帛衣には染み込まない。やがて
顔も髪も、身のすべてが水の膜に覆われた。
この水は、昨夜、明日香が従婢に持たせたものだ。
明日香は用意させたこの水を清め祓うために、などと
いってから掬うしぐさをしてその両手をくぐらせてか
ら、従婢にもたせたはずだった。この水は、明日香に
触れている。
明日香を知る水を那智は「使った」。この水は、明
日香を映すことのできる水だから。
鳶色の瞳は二重で、黒目がちに。紅もつけぬ唇はだ
がふっくらと珊瑚色。艶やかな黒髪は豊かに肩口を流
れ、背を覆う。括緒のある白い大袖の衣に、紗絹の裳
を胸高に着こんで、浅萌葱の領巾を肩掛けたその姿。
身の丈も、すらりとした指先も、そこに明日香の何も
かもそのものがあった。
明日香を映した那智は、客人の御館をそっと出る。
前庭に植えられた薔薇の棘に気をつけながら内宮へと
歩きだす。そこはこの国の女首長の御居所。
内宮と隣り合う内庭、その木陰に小門がある。その
網代の戸を開けようとしたとき、背後から声を掛けら
れた。
「……お早い御戻りで」
この声は女官の楓だ。暇を得ていると聞いていたの
に。
それでも那智は慌てることはない。今、彼女は「明
日香」なのだから。
奥津の国の巫女は「声」を聞く。己の意思を放棄し
て忘我した果てに「他の存在」の意思を己に成す。そ
の「声」のみを己の身の内と成し、聞くために精神を
凝らしすぎて戻れなくなる者や体を壊す者もある。
だが、霊力者でもある那智は身を危うくすることな
く、水の声を聞くことができるのだ。忘我に耐える精
神も身体も伴わずとも、水を通じて「他の存在」の意
思と声も、己の身に成すこともできる。
だから、慌てない。
那智の身には今、「明日香の意思」が「声」となっ
て在るのだ。
「楓。暇を取ったのだろう。何故、ここにいる」
明日香の声で、明日香の言葉を楓に語る。本当の明
日香がこの場で言うのと同じことを。楓がいくらこの
御宮で長く過ごしていたとしても、疑うことはできな
い。
「どなたのために、暇を返上したとお思いなのです」
那智はくすりと笑んだ。女官や従婢に気付かれる前
に入れ替わるつもりでいた思惑ははずれてしまったが、
これも返って明日香様らしいのだろう。そう思ったの
はもう己の意思なのか「己の内にある明日香という名
の意思」なのか、判別つかぬほどに那智の身の内に馴
染んでしまっていた。
「まぁ、そう言うな。丘まで行かずにすんだろう」
楓は盛大に顔をしかめた。客人のおありなのですか
ら、このようなときくらいはおとなしく内殿においで
ください、と小言をはじめる。
小門に入ると、内殿の半蔀を開ける芹月と目が合っ
た。潤みだしたその目につい、悪かったと思う。だが
またその目を盗んで抜け出すだろう。そして楓が探し
に来るだろう。
長鳴きの鶏は一日の始まりを告げる。
今日の会合は奥津の王書の扱いと、その返書のため
のもの。臨席し、滞りのないように申し渡さねばなら
ぬ。両国の交易をもう一度見直すためにも、海辺の国
との関わり方を考えるためにも。
空にはやはり雲がほとんどない。風が頬をそっと撫
でて、炊屋から朝餉の匂いを運んできた。
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