金色の輝きと空 其の五
TOP金色の輝きと空


 同じ波は一つもない。砂を巻き上げて引き寄せては、
またまろぶように駆けて、寄せてくる。同じ繰り返し
は、同じものだとは限らないのだ。
 海辺の国は湾状に形作られた砂洲にある。そしてそ
の湾は、いわばが磯となって囲んだものだ。浜から海
を見ると左手から岩場が伸びている。湾の中は波も穏
やかで、少しくらいの高波は岩場が防いでくれる。
 広い湾の海の幸めぐみだけでも、この集落むらの者たちは食べ
ていけるのだろうが、大物を求めて湾の外、沖合へ舟
を漕ぎ出すことも多い。
 それはまた、海の幸を必要以上にむやみに獲ってし
まうことを防ぐ意味がある。
 今も、湾内にも沖合にも、幾艘かの舟があった。釣
糸を垂れる者、銛を携えた者、素潜りに備えた者、仕
掛けた網や籠を引き上げる者。毎日繰り返される営み
である。
 集落の中では女たちが朝餉の仕度をしているだろう。
また、音潮ねしおが束ねているはずだ。
 水葉みなはは海が苦手だ。
 余程の事がない限り、浜の集落には出てこない。仮
宮の神殿かむどのは森へと続く道の途中、林を分け入ったとこ
ろにある。一日海を見ないで過ごすことは珍しくなか
った。
 海を眺めてどのくらい経ったか。主紗の後ろ姿を送
ってからずっとその場に立ち尽くし、気付くと海の彼
方をぼんやりと眺めていたのだ。
 小川はあと半月で流れなくなる。
 彼女は事実を告げた。告げられた男は去って行った。
 男は成すべきことを成すだろう。だから彼女も己の
意思で成すべきことを成す。たとけ僅かであっても、
機が熟せばそれは意味を持つはずだ。
 やっと水葉は、己の成すことを見つけたのだった。
 ただ漠然とした不安を孤独の内に秘めて過ごした日
日の繰り返し。だが、それはもう終わったことだ。
 彼女はもう一度去った男の先を見やる。そしてさし
あたっての成すべきことに取り掛かった。
 大きめの桶が二つ、水を満たして取り残されていた
のだ。主紗が早瀬はやせと運んできたもの。朝餉のためには、
この水のほかにもう一度か二度、行き来しなくてはな
らないはずだ。
 さてどうするか。集落の者を呼びに行ってもよいが。
 だが、主紗と二人で話をするために、早瀬を先に集
落へ行かせた。そのあと水を汲みに来る者がないから、
人払いしたものと思われているかも知れなかった。
 朝餉の仕度が進まず、音潮がやきもきしているだろ
う。ならば余計な時をかけることもない。
 水葉は桶に向き合い、手をかざした。水の霊力ちからを具
えたその両手に応えて水が小魚が跳ねたように、たぽ
ん、と音を立てて波紋を作った。
 主紗がやっと持っていた重い桶を、水葉の細い腕が
下げ持った。砂地を歩きだす。揺れる水とその重さを
感じさせない軽い足取り。さすがに日射しを帯びて熱
を持ち始めた砂が足元に絡んで森や林の道を行くよう
にはいかないが、主紗が見れば、落ち込んだかもしれ
ない。
 水葉はそう考えて少し笑った。主紗ならばきっと気
付くはずだ。今水葉が桶二つ分の重みしか感じていな
いことに。霊力で水を浮かせて、桶と己の歩みに合わ
せて動かしているだけだ。
 否、それでも主紗は悔しがるだろう。小さなことで
悔しがるような男だから。笠耶に侮られて抜けている、
と言われたときもそうだ。海辺の郷士たちへの挨拶を
笠耶の目の前で事無く済ませた後、見直されでもした
のか、ずいぶん嬉しそうな顔をしていた。
 茅壁の居宅いおりの横をすり抜けると、女たちが火をおこ
していた。
 火切ひきりを使って火を熾すのはさほど難しいことではな
いが、焚付たきつけから炭に火を移すのはやはりこつの要る。
 舟が戻る前に炭火を落ち着かせておくために、早く
から取り掛かるのだ。
「まあ巫女さま。そんな重い物をここまで。お持ちし
ますから」
 海真みまさが気付いてそう言ったが、水葉は断った。霊力
を使っているから重くはないし、海真の手には籠があ
ったのだ。籠に盛られた、仄かに赤みを帯びた……朱
色といったほうが近い実を見た。水葉が意外そうに見
たから、海真は笑いかけた。
「初めての浜梨はまなしです。まだすっぱいでしょうけれど」
 海真は時季はずれに実る草木をたくさん知っている。
だが、それを誰にも教えない。荒らされては次の実り
を失ってしまう。皆それを知っているから、あえて誰
も訊ねたりしなかった。
 他国よそから客人が来ると、必ず海真はその秘密の草木
から実りを採ってくる。きっと、主紗のために森に分
け入ったのだろう。集落の近くの浜梨はまだ青くて小
さい。
 だから水葉は主紗のことを聞かれてもごまかしてし
まった。足の痛みが出て少し休んでいると言えば疑わ
れるはしない。
 ……どうしたものか。
 女たちは巫女さまが持てるような桶が持てないなん
て、と怪我を心配してささやきあう。特に若い娘たち
は迎えに行こうか、接骨木やまたづで薬を作ろうかとはしゃい
でいる。
 主紗は若いし顔立ちもすっきりして整っているから、
娘たちは近づいて話しかけたくて仕方ないらしかった。
 とりあえず水葉は桶を置いて、霊力を収めた。雑穀
の入った土器かわらけの鍋に早瀬がその水を注いだ。何かを言
いたそうにしていたから、つい水葉は声をかけてしま
った。
「汁粥しるがゆにするのかしら」
「……えぇ」
 互いに含みを感じ取り、話はそれで終わってしまっ
た。そんなわけで、水葉はなんと言訳ことわけるのがよいのか
わからなくなってしまった。
 朝餉の仕度の輪から外れた水葉は目に付いた日除け
の庇の下に座り込んだ。そっと息を漏らす。
 そこに見知った顔が声を掛けた。
						

 山の端から覗いた日の光はやがて空を紺色から薄青
へと変えていく。仄かに茜の染め色を落としたような
朝焼けを遠波とおなみは気に入っている。それを眺めながら、
少しつぶやいた。
 まいったな、今朝は釣れないボウズだ。
 一度にまとまっただけすなどる網を、遠波はあまり使わ
ない。釣りに拘っているわけではないが、せわしなく
網を手繰ることよりも、釣糸を垂れて待っていること
の方が性に合っているのだと考えている。
 網を入れるのは行商あきなりの者たちに売るためや、集落の
備えや蓄え、そして郷士への御調みつぎのための乾魚ほしいお燻魚いぶしいお
などを作るのに量が要るからだ。
 そういったものは、集落の者が総出で用意する。も
ちろん遠波も作業しごとに加わるが、網入れは手伝いもして
いない。
 遠波が釣るのは己の分と浜で待つ者たちへの余分、
だが、今朝はその分を釣ることができないでいた。
 湾の外海そとうみを見やると、幾艘かが網を引き揚げている
のが見えた。それで皆の食う分は困らないのを確かめ
た。
 さてどうするか。遠波は何も釣れていない糸を引き
上げてから、海面みなもに顔をつけた。底には海丹うに海鼠なまこが
見える。
 そのまま足を船尾から伸びる櫓にかけ、蹴るように
操って舟を進ませた。海辺の国でも幾人もできぬ技巧わざ
だ。こうすると両手が空く上に、海底うみぞこのを見ながら動
くことができる。
 遠波は幼い頃にこの海で死んだ父から教わった。今
でも舟を操ることで彼にかなう者はほとんどいない。
 海の中からの海面は白銀しろがねに光って見える。その光の
中に近付いてくる舟があったから、遠波は顔を上げた。
「よう。受取れ」
 放り投げられたのは瓢箪ひさごだった。有難く頂戴して、
栓を抜いて口を付けた。水かと思ったが違う。やられ
た、と思ったのが顔に出た。
「そんな顔するな。仕掛けを上げておいてくれ。どう
せ釣れないんだろう」
 笑ってその舟は離れていく。
 瓢箪には甘茶が入っていたのだ。甘茶は葉をもんだ
り乾かしたり、手間がかかる。この海辺の国ではあま
り作らないが、近頃では水を求める山間の国から交易あきなり
で手に入る。遠波が顔をしかめたのは決して嫌いなの
ではなく、得にくい物を寄越すからには見返りを求め
られているのに気付いたためだ。
 したたり落ちる水を首を振って切り、前髪をかきあ
げた。長いために高く括り上げている後ろ髪も濡れた
ようだ。まあいい。今朝は仕掛けを上げて、切り上げ
よう。
 先ほどの舟は外海に向かった。十になるかならない
か、子どもも一緒だ。ははん、と得心がいく。
 これまで仕掛けを上げるのはその子だったのだ。い
よいよ沖で、網を操る技を教えるのだろう。湾内で素
潜り獲るか銛で突くか、そんなことばかりしていた子
が大きくなったものだ。
 外海は流れがあって泳ぎにくい。すなどりいおの群れを
探し当てて群れを囲うように網を投げるところから始
まる。そのあと、何人かが海に潜って広げられた網の
内に獲物を追い込み逃げぬように囲い直しかずせ直し
ながら網を絞っていき、そして引き上げていく。
 潜った仲間や舟上の「かしら」とのやり取りと、魚との
駆け引き。潮の流れを読み、手早く網を手繰る。
 この海辺の国では、息の合った動きができるように
なるまでは正丁おとなとみなされない。
 舟上から潜った仲間の動きを見ながら網を絞る者は、
その漁で「頭」とされる。沖に出れば頭には逆らわな
い。漁を始めるのも引き上げるのも、頭がすべて一人
で決める。
 幸をもたらす海はまた、人を飲み込む畏れる存在な
のだ。沖に出た頭には仲間を預かる責がある。
 櫓を漕ぐ子どもの顔は張り詰めたように見えた。だ
だ父親は先に沖に出ている仲間の舟を向いて、子を構
うことはない。
 ……あんな頃が、あったな。
 初めて外海に出たときに父親の背中がいつもよりも
大きく見えた。それを思い出して、遠波は少し切なく
なった。もう、二十度は「季節の巡り」を経た過去むかしの
ことだ。
 遠波の父親は、彼が漁に沖に出るようになってすぐ
の嵐で死んだ。だから彼の父親は正丁おとなになった遠波を
知らない。
 遠波の父親は来凪くなぎといった。優れた頭でよく潮を読
み群れを見つけ、人柄もよかった。郷士たちの信頼も
厚く、おかでも皆をよくまとめたのだという。
 この海は遠波から父親を奪った。だから遠波が沖で
網入れる漁をしないのだと思っている者もいるのだが、
それは少し違っていた。
 来凪亡きあと、遠波に漁を教えたのは来凪の仲間た
ちだった。優れた頭についていた彼等は皆、厳しくも
熱心に教え込んだ。
 まだ満足に素潜りもできぬほど幼い頃から、遠波は
漁の舟に乗っていた。来凪がいつも乗せていたのだ。
そのおかげか遠目も利くし、潮もいつのまにかよく読
めるようになっていた。海鳥の動きをみて潮を見て、
時には海を覗き込んで群れを探す。気付くと皆に負け
ぬほど漁の技を身に付けていた。
 年若い者たちを束ねる頭となるように言い渡された
ことがある。遠波と年の近い者たちを連れて沖に、外
海に出るのだ。
 初めて頭として外海に出て、その日の漁は上々だっ
った。その日の夕に獲物を郷士に御調みつぎし、だがそれ以
来遠波は頭として漁していない。
 遠波もどうしてかはっきりした理由わけは思い付かない。
ただ、あの日、郷士の旦那方が本当に喜んでくれたこ
とと関わりがないわけではないのだと思う。
 来凪の死を郷士たちは惜しんでくれていた。だから
遠波が独り立ちして頭になったのを喜んだ。それを素
直に受取れなかったのかもしれない。
 それに、未だ来凪に、父親には克てないのだと思う
気持ちがある。そうすることで父親の死を悼む気持ち
を思い起こすのだ。……遠波の中の来凪が認めない限
り、頭として沖に漕ぎだせない。遠波は己の知らぬう
ちに、己の心に軛をかけていた。
 外海にでた仲間の舟は遅くなる。それに付き合う気
はなかった。遠波は舟を回していくつもある仕掛けを
一つずつ引き上げていく。空の物もあるが、海老が数
匹ずつ掛っていた。小さなものは海に返し、残りを舟
に積んである木箱に放り込む。これで甘茶のぶんの仕
事は終えた。
 浜の様子を見ようと振り返ると、集落むらから離れた辺
りに人影があった。遠波は遠目が利くのだ。
 壺を器用に頭に置いた早瀬と、桶をふらつきながら
下げているのは……揮尚きしょうだ。ふと笑みをもらす。
 揮尚を見ていると、遠波はどうしてか笑みを浮かべ
てしまうのだ。
 本当は、もっとしっかりした男なのだろうと思う。
 遠波から見た「揮尚」……主紗は、見るたびに色の
違う。年に釣り合わぬ態度をとったり、物を知らず頼
りなかったり、抜けていたり、はしゃいだりする。
 だが、どこか煮え切らず、盛り上がりに欠ける。何
かを無理に押し隠しているみたいに。定められた何か
があって、その通りに先に進むことが命じられている
かのようだった。
 それは山路みちにある轍から車が外れるのを恥じて、だ
がその事を悟られるのを恐れている子牛に似ている。
……揮尚にも、、軛が掛けられているのだ。
 見えぬ軛を感じたならば、遠波は己を重ね合わせて
見ていることになる。だから、放っておけない。
 頭を任された頃と、揮尚の年はさほど変わらないだ
ろう。遠波のあの頃も、相応ではなかった。そんな風
に重ね合わせてしまうから、揮尚はもっと、それなり
にしっかりしていて、それなりに頼りなく幼いはずな
のだと思う。
 早瀬と揮尚。……そして、巫女さま。二言三言、や
り取りがあって、早瀬が集落に歩き出した。だがどこ
か気が進まない様子だ。何かあったか。
 あまり巫女さまは集落や浜には出てこない。それに
いつもなら笠耶が傍についているのに。郷士の旦那方
と話すなら、小川を超えて行くだろう。どこか珍しい
出来事のように感じて、遠波は眺めていた。
 巫女さまは揮尚と向き合って、何事か話している。
真剣な表情かお、それに揮尚の様子も少し改まっているよ
うに思えた。
 揮尚が、巫女さまに片膝で跪いて礼をとった。踵を
返して小川に沿った道から森に入っていく。ふと気付
いたように振り返す。……海を、見たのだ。
 あぁ、行くのか。
 遠波はそれが分かった。揮尚はきっと返る場所があ
る。だから、行くのだ。
 理由わけなど、考えない。それが海辺の民だ。
 多くの者がここに来て、去る。
 あるいは生まれて、死ぬ。
 海に抱えられたこの場所にはいろいろなものが流れ
着くのだ。
 人も、その想いも。
						

 水葉に声を掛けたのは、遠波だった。
 経った今、戻ってきたのだという。日に焼けた笑顔
は快活な印象を受ける。長い髪は漁のためか、濡れて
いた。
 今朝は釣れなくてボウズのせいで、笠耶に魚を持っていけないのだ
と、申し訳なさそうに言う。水葉の朝夕の御膳にのる
魚はこの遠波が釣ってくるのだ。気にしなくてもいい
と水葉は隣を指した。己が巫女だから、日除けに入る
のを遠慮しているのだと思ったから。
 周りを女たちや手伝う子どもが行き交う。少し慌た
だしくなってきたようだ。遠波は一度は平気だと断っ
たが、通りかかった女に赤子の子守を託されて日除け
の下に入った。
 眼の大きなふくふくした赤子。橡色つるばみの布にくるまれ
て時折手足をもぞもぞと動かす。女の子だ。水葉は目
を細めた。赤子はどんな子でも可愛い。あるいは可愛
らしいと思わせることが生き延びるための知恵なのか
もしれない。
「抱いてみますか」
 受け渡されたそれは、とても温かい。急に手足を伸
ばしてばたつかせたから、水葉は背中を砂地に付けて
しまった。遠波が気に入られましたね、と笑う。
「巫女さまは……いつから巫女さまなんですかね?」
 その問いに、水葉は答えに困る。今まで、聞かれた
こともない。聞いてよいことでもないはずなのだ。少
なくとも今まで流れてきた巫女の類のある国では。
 ここは、本当に、時の流れも、人も、何もかも違う。
 己でさえもそうなのだから、主紗はさぞかし驚いて
がかりだったろう。
「さあ……。生まれた時、かな」
 それは偽りの応えだった。もしそうであったなら、
今ここでこんなふうにこの赤子を抱いていることはな
いだろう。
「へぇ? さぞ愛らしかったことでしょうね、あ、で
もわからないか、いくらなんでも」
「きっとこの子のほうが、可愛い」
 なんでです、と遠波が聞いた。
「……私に懐いたもの」
 吹き出して大きく笑いだした遠波に、赤子が驚いた
のか、ぐずりだしてしまった。慌てて母親が寄ってき
て、水葉の手から赤子を抱いた。
「すまない、泣かせてしまった。……名を聞きたい」
 母親と赤子、どちらとは言わなかったがわかったよ
うだ。浅里あさり、とぐずる赤子に柔らかく呼び掛ける。水
葉は浅里の名を言祝ことほいだ。
「美しい白砂の遠浅がいつまでも続くような里を心に
持つ、清らかな郎女いらつめになることでしょうね、浅里」
 浅里はまだぐずり続けていたが、母親は礼を言って
集落むらの外れへ向かった。泣き声を気にしたのだろうが、
嬉しそうにあやしながら。
「あんな頃が、皆にある……」
「えぇ、こんな俺にもあったんですよ、こんなに厳つ
くても」
 そうだろう。そして誰もそれを覚えてはいられない。
 水葉は忘れてしまっていた方が幸せでいられるだろ
うことを知っていた。だから浅里は言祝ことほぎを覚えていら
れないし、そのほうがいい。
「浅里は覚えていますよ、きっと。巫女さまが言祝い
だんですから」
 遠波は水葉の気持ちを透かし見たような物言いをし
た。それで水葉はそうかもしれない、と思えた。遠波
はそれでもいいのだと教えたのだ。
 炭火に炙られた、よい匂いがふうわりと潮風に乗る。
戻りの遅い沖合の舟を待たずに、浜にいるものだけで
の朝餉になりそうだ。
 隣からつぶやくような音が聞こえて、水葉は遠波を
振り返った。目が合った遠波はだが、なんでもないと
いうように首を振った。
「……揮尚は、行ったんですね」
 見えていましたよ、と明るく笑う。何と返してよい
ものか、水葉は迷った。
「そんな顔しなくていいんです。揮尚が行った、それ
だけなんですよ?」
 あぁ、海辺の民を見くびっていた。彼らは海辺の民
だ。受入れ見送る、海辺の民だ。
 多くの者がここに来て去って行った。ある者は留ま
ったし、ある者は行くのだ。それはただ、それだけの
ことなのだ。……ここはそういう所だ、この集落むらは、
この国は。
 想いは海に残る。抱え込み沈み込ませ、時に渦巻き、
海はすべてを湛えてここに在る。
 水葉は海が苦手だ。
 海の想いは……ここに残ったすべての想いは、水葉
の手のひらには余る。
 身の内に流れ込むものが激しく切なく、せめぎ合っ
ってどうしようもなく、重くなる。
 寄せる波がまるで己を責めたてるかに感じて、苦し
いのだ。
 だけど、今は。
 岩場の彼方。朝焼けの海が輝いている。そんな風に、
思えた。
 遠波が立ち上がる。朝餉の仕度を進める女たちに、
大きな声で呼びかける。
 揮尚は、行きやがった。
 女たちと、浜に戻っていた男たちも、遠波を見返し
た。
 遠波は振り返って、にかりと水葉に笑ってみせた。
それで、皆を引き受けてくれたのだと気付いた。そっ
と裾についた砂を払い、集落むらの裏へ向かう。小川へ行
くのだ。
 ふと思う。……遠波が言いかけて、だが言わなかっ
たこと。それはカサヤ、という音に似ていた。
 揮尚が……主紗が去ったことで、遠波は笠耶が気に
なったのだろう。笠耶の生まれた場所のものという、
その「名」を遠波は知っているのだ。
 客人まろうどは行った。だが、笠耶の揮尚は……去ったのだ。
 この国の海が見せてくれたことを、水葉は思い出し
た。たくさんの想いのうちの、それは僅かなことでし
かない。だが。
 ……確かに遠波は、来凪に似ているのだ。
						

 みちには関塞せきがある。関は路の国境くにさかい、少なくともこの
近隣、同盟きずなを結んだ国同士をつなぐ路には必ず設けら
れている。
 「公路みち」から関塞を抜ければ国内くにうち、関塞から公路へ
出れば国外くにそと、関塞はその国のはたてとも言えた。
 旅人が関塞を抜けるには通行証てがたとなる旅旌たびふだがいる。
その出自も身元もあらわす札は、山賊やまだちを取り締まるときに
用いられるから、誰でも国外に向かうときには携える
のが慣行ならいだった。
 地を耕さずに生きる工人たくみ技芸人わざひと俳優わざおぎ行商人あきなりのひとは
もちろん馳使はせつかいのような国使つかいとその伴人、そして杣人そまひと猟人さつお労役えだちのために国外へ向かう奴人おやつこまで、旅旌を持
たぬ者は関塞を超えない。
 関塞はただの門ではない。路を塞ぐように柵や築地
を造り、その内には門衛ら衛士えじなどの兵が国境を固め
ている。
 彼らのための小館たちいおが立ち並び、そして物見櫓が
ある。
 駅家えきと呼ばれる御舎みやしろは国使のためのもので、替馬かえうまが
世話されていた。馬は多く馳使のための駅馬はゆまを兼ねる。
馳使が受け継ぎ繋ぎ渡していく駅鈴すずを次の駅馬に付け
替えるのも関塞の衛士の役目の一つだった。
 通行いききを検めその荷も確かめる。関塞内に行商あきなりのため
の市を開く。轍や側溝みぞを整える。貴人あてひとの留りや先触れ
も務めのうちだし、もちろん近くの見張りもしている。
 そういった役目の合間には鍛練を行い、関塞内では
畑を耕している。夜には篝火を焚いて不寝番ねずのみはり。
 国の果では戦が続いているようなものだ。己の国を
その矜持と武具もののぐで護る「防人」が愛しい者を想い、夜
明けを待つのだ。
 采斗さいともそんな山間の関塞、国境を護る一人である。
 山間と海辺も結ぶ山路みちの関塞である。
 朝日が木々から木漏れて柔らかな光を足元に落とす。
鶏が先ほどから皆を起こすように声を張り上げていた。
臥宅ふしいおとして使っている小館の辺りはざわめき出してい
る。すでに夜の間焚かれていた篝火は膳夫かしわでの手で炊屋
に移されて、朝餉の仕度に使われているのだろう。
「采斗。またそこにいるのか」
 名を呼ぶ声は、彼の真下から聞こえてくる。その声
の主が見楢みははそだとすぐにわかる。
「いつかうたた寝て、落ちても知らんぞ」
 もたれていた背を起こして、采斗は見下ろした。見
楢は采斗よりも二つ三つ年上で、そのためか采斗の面
倒を見たがるのだ。
「不寝番ねずのものが何故、うたた寝る。そう思うならば早く代
われ」
 見楢の姿はまだ昨夜見たまま、皮甲よろいどころか靫負ゆげいて
もなく弓持たない。さすがに太刀を手に下げてはいた
が、まだ佩いていなかった。それに、采斗は太刀が見
楢の得手ではないのを知っている。
 まあいい、と見楢は苦く笑った。
「『落ちない』に賭けたからな。五日の間はうたた寝
ることがないようにしてくれ」
 なんだそれは、と問いかけると賭物は瑪瑙めのうのついた
歩揺かんざし、先の市で行商あきなりが玉にひびが入って曇ったものを
置いていったのだという。
 くだらん、と采斗は吐き捨てた。女の装飾かざりなど得て
も役に立たない。せいぜいが御宮みあらか従婢まかたちを喜ばせるく
らいのものだろう。
 時折、行商人あきなりのひとが置いていく珍品うずものを皆が手に入れたが
るのは馴染みの女たちの気を引くためだ。長い時は三
月にもなる関塞での役目つとめ、その間に心移りした女を寄
り戻すには野に咲く花よりも新しい染衣しめころもよりも、装飾かざり
がいちばんなのだ。
 だが、そこで采斗は気付いた。行きかけた見楢を身
を乗り出すようにして呼びとめる。
「待て。五日だと? 俺はしばらく不寝番はないぞ」
 見楢は僅かに振り仰いで、皆が一日ずつ譲ったから、
有難くそこせ過ごせ、と手をひらひら振って行ってし
まった。采斗は頭を抱える。勝手なことを。
 たしかに「ここ」を采斗は気に入っていた。
 関塞内の物見櫓よりも高い栃木とちのき。……その太い枝に
板を簀子のように組んで括りつけた床。
 櫓は「矢倉」、本来は敵襲に備え射手いてが楯を巡らせ
た内から遠方を窺い、寄せる敵方を射狙ねらう。
 だが采斗は大栃とちに床板を組んで狙撃台たかやぐらを作った。楯
を置かずとも、敵方の征箭そやは枝が防ぐ。縄梯はしごを上げて
しまえば、誰もここにはすぐには登れない。櫓よりも
身二つは高いために遠くを見ることもできた。ところ
がこの狙台ゆかには手摺のようなものは何もないのだった。
 この狙台そだいの拠り所はその大栃だけ、広さは正丁おとなが寝
そべるのにはゆとりがあるが、ここで不寝番ひとばんを過ごそ
うとする者など采斗のほかにない。何かあれば、例え
ばうたた寝でもしたならば。
 危難を察して忌避しようとすることは生きとし生け
る者として正しい感覚といえるだろう。だが「人」と
して「兵」としては、身の内に至らぬものを抱えてい
ることになるのだ。
 日頃の考えを再び巡らせ、采斗は切れ長いその目を
さらに細めて眉根を寄せた。賭事にされたことよりも
賭物が女の装飾かざりだということよりも、不寝番の割当を
己の預かり知らぬとことで変えられてしまったことよ
りも、……もちろんそのことも気に入らないのだが、
事前ことのまえの割当で決まった不寝番の役回りを「賭」ごとき
に動かされて変えられたこと自体が、彼を不快にさせ
ていた。
 「不寝番ねずのみはり」という役目を嫌うわけではない。課せら
れた役目を果たせぬことなど、この山間の国の女首長
殿に仕える者としてあるはずもない。ましてその役目
を厭うなどと。
 采斗は身を起こし、狙台に立った。傍らの櫨弓はじゆみを左
手に持ち。
 床がぎしり、と軋んだ音をあげた。
 幾重にも太い幹と枝に縄がかけられてこの狙台を支
えていた。その縄には上差して征箭そや盛ったゆぎがかけて
ある。だが采斗は征箭持たぬまま弓を構えた。そして
右手で弓弦ゆづるを引く。箭をつがえるのと同じように。
 強弓こわゆみに張られた弦が弾かれる。大気が震えた。
 大栃を寝床としていた小鳥が数羽、朝の空へと慌て
て飛び出す。梢が揺れる。木の葉が落ちる。
 余韻を残さず聞いてしまってから、彼は構えを解き、
目を開けた。
 ふわりと、風が頬を撫でたように思った。それで、
風の霊力者姫みこひめ様が弓弦の音を聞いたのだと思った。
 風に乗った音をどのようにお聞きになるのか知らな
い。本当に聞いておられるのかどうかも。
 だが朝早くに鳴らす弓弦は大事な役目だ。
 大きく一度の音は平生のまま、何も変わらぬことを
報せる。二度続けたなら、貴人あてひとのお越しや行商人あきなりのひとなど、
人の来訪おとないを報せる。三度のそれは火急のこと、ただな
らぬ変事を民に悟られぬように狼煙を使わずに女首長めおびと
殿に伝えるための音。采斗は未だそれを鳴らせたこと
はない。
 今朝の音は一度。
 その音は国境くにさかいの関塞を護る衛士や兵士にも届く。何
事もなく一日が始まることを確める、安堵の響き。
 これで不寝番の役目は終り、斜め下にある物見櫓に
は交替かわりの衛士たちが集まりだしている。ひる過ぎの鍛練
までは寝ていられる。采斗は傍らの枝にかけていた縄
梯を下ろした。
 西の空には、有明の下弦の月が薄く残っている。
						

 今、彼女の意識は山間の国の女首長めおびとと重なっていた。
否、繋がっているのか。それは彼女自身にもあいまい
になっていたから誰かに訊ねられても答えられない。
 ただ彼女の身の内に「明日香」という「名」の意思
を宿しているのは確かで、だがそれが己の意思とどの
ように違うのか、本来はまったく異なるはずなのに、
その違いを己の意識の上では分けられぬのだ。
 このような霊力ちからの使い方はそうはないこと、必要と
しても「ひと」の声や意思を己に成すことはしない。
そのほかの何か、であるならばはっきりと己との境目
を意識できるのだが「ひと」のそれは彼女を惑わせる。
まして今、彼女の身の内にあるのは霊力者みこの意思だ。
 明日香の意思には風の意思が入り込む。明日香が霊
力を使わずとも風が話しかけ、霊力を注ぐ。
 それは水の霊力者である彼女としても同じことでは
あったが、彼女に入り込む水と風は、彼女と明日香の
意思のようには身に馴染むことがない。
 ……水が、それとも風が、あるいは互いが、拒んで
いるのだろう。
 それでも今、風の声は聞こえるし、水の声も分かる。
その気になればおそらく風の霊力でこの御簾を巻き上
げたり衝立を倒したり円座をずらしたり燭台に灯され
ている火を消したり、そのくらいのことはできるだろ
う。……それ以上のことも。
 もし、水と風とを使う霊力者であったなら、こうい
った様に感じているのだろうか。
 さきの女首長様は風と水と、火も使う霊力者であられ
た。この様に、こんな風に感じておられたのだろうか。
それとも己が水の霊力者だからこの様に感じられるの
だろうか。
 多分に儀礼的な朝の御勤つとめを女首長に代って行いなが
ら、那智はそう思った。
 内宮うちつみや神殿かむどの、その御簾の内に設けられた祭壇まつりのばに向か
って座し、素焼きの瓦笥かわらけの水盤に向き合う。この水で
平生の朝を見るのが御勤なのだ。
 那智には水をそのまま使って水を通して「国見」す
ることができるのだが、今彼女は「明日香」としてこ
こに在る。それで風が「いつものように」波紋を起こ
すのを見届けなくてはならない。
 風の霊力が不意に引き出されるのを感じた。水が湧
き起こるようにその央から波紋を広げていく。那智の
耳には確かに風が音を伝えた。波紋が水盤の縁に達し
て、だがそれを超えて波が己の内に届いたように思っ
た。突然、見えたものがある。
 有明の月と、大きな栃。その枝に敷いた床台。兵士
が立ち上がり、弓弦を大きく弾く。……一度。
 そして物見櫓。兵士が空仰ぎ、弓弦を弾く。また矢
倉門でこちらも見据えて弾く。
 三人の兵士が弾いた弓弦が、水盤に一度ずつ波紋を
作ったのだ。
 山間の国の最果て、三つある関塞はそれぞれの平生
と安寧を報せてきた。
 御簾の向こうに控えた男にそれを伝えて、朝の御勤
を終える。男は役目を恭しく仰せつかい、退出して御
宮の正門脇の詰め所と門殿に白瓷しらしの杯を届ける。平生
を現す一杯である。
 詰め所と門殿の兵士が鳴らした一度の弓弦の音が遠
から聞こえてきた頃、女官まかたちが衝立の影に控えた。おそ
らく芹月だろう。
「芹月。楓にはもう休むようにと。暇だったというの
に早起きをさせてしまったから」
 ようやく慣れてきたのだろう御宮の作法で軽く衝立
を押しやるしぐさをとってから膝をずらして見せた顔
はやはり芹月だった。那智は芹月をよくは知らない。
 久し振りに訪れた生国の御宮には、見慣れぬ者も増
えていた。
「先ほどすでに房室へやへ戻られました。しばらくは何事
も起こさぬように申し上げますわ」
「それは楓を起こさぬように、ということか?」
 二人、ひとしきりの笑いの後で、芹月は朝餉を整え
るために退がっていった。本当ならこの隙に、客人まろうどの
御館へ一度戻って奥津の国からの伴人を召そうかと考
えていたのだが。
 伴った者は二人、山間の国にも明るく頼りになる。
那智は身の回りのことは御宮の者、客人付きの従婢まかたちに
まかせて、伴人にはそれとなく山間の国の様子を探る
ように命じていた。
 二人は郷士たちとも顔を合わせたことがあり、郷士
の伴人らとも通じているからうまくやるだろう。とも
かくも今までのところを聞いておこうと思っていた。
「……主紗殿が、いない……」
 ふとつぶやいた声が己のものだと気付いて、那智は
慌てて見渡したが誰も控えてはいなかったようでほっ
とする。
 居るはずの、御仁がいない。
 那智がこの生国に戻れば必ず顔を出してくれる、女
首長の側近の従者。
 こうしてこの場にあれば、その姿は御簾の向こう、
衝立の影にあるだろうその人がいない。
 初めは明日香の傍らにいるのだと思った。だが、今、
その明日香に代った那智の傍にない。
 ならば本当の明日香の傍にいつものように控えてい
るのだろうか。
 そう考えることは那智にとってはあまりおもしろい
ことではなかった。仮にも今ここにあるのは、主紗の
主人あるじたるこの国の女首長の意を受けた変わり身が故。
まして己は水の名を受けた霊力者みこ、さらにはこの御宮
を取り仕切る身とあらば客人を先んじて尽くすように
取り計らい、真っ先に礼を取るのは当然のこと。それ
もないとは何という手落ちだろう。
 だがそれを明日香に申し立てるのも口惜しい。彼に
とってのいちばんは彼の主人、その当人に向かって何
をいっても筋違いになるばかりだ。
 正直にいえば、那智が伴人の二人に聞きたいのは山
間の国のことなど口実だった。なぜ主紗の姿がないの
か、どこにいるのかを聞きたくて堪らないのだ。
 明日香に直にどこにいるかを尋ねるのは、居所がわ
かったとしても、呼んでくれたとしても、ちっとも嬉
しい気持ちにはなれないだろう。
 明日香が彼を正しく知っていて、召し出せば彼はす
ぐに参る、それを目の当たりにするだけなのだから。
 那智は明日香に悟られたくはなかった。
 久し振りの訪問おとないは、王書ふみを携えた国使つかいとしての役目つとめ
で、奥津の国の巫女として、また山間の国の霊力者と
してのものでもある。
 だがそれとは別に、主紗に会うことを心待ちにして
いて出立までの数日も、いつにない強行いそぎの旅も苦にな
らず、返って嬉しくて、本当なら重い責のある訪問だ
というのに、その喜びを押し隠してやってきたのだ。
那智はそれを明日香に知られるのが嫌だった。
 那智の身の内には明日香の意思がある。だから明日
香ならどう思うか、何を言うか、今の彼女にはわかっ
てしまう。
 ……那智は主紗が気に入りだからな。主紗、せっか
くなのだから、手でも握ってやるといい。
 そして風で御簾を巻き上げて、耳まで赤くなった那
智の顔を主紗に見せようとするのだ。主紗は気を遣っ
て、否、客人の、奥津王の名代として来訪した貴人へ
の礼節として傍らにある衝立を引き寄せ、貴人の御顔
を直に見ぬようにするに違いない。
 己の内に成した明日香の意思に、那智は主紗もいな
いのに顔を赤らめた。何故このくらいのことで、照れ
ることがある、それがまた口惜しい。
 ……だが主紗はきっと苦く笑う。その笑みだけは那
智に向けられるもの。それを思って少しだけ、それも
いい、と思い直した。
 そこに折敷おしきに膳を整えた芹月が戻ってきて慌てた声
をあげた。
「霊力者姫みこひめ様、いかがなさいました、御顔が赤うござ
いますっ。御熱がございますのっ」
 芹月は折敷を置いて身をひるがえした。しまった。
水は姿形みめや意思、しぐさ、声も映せるが、那智が己の
仄かな想いに惑い赤らめた顔色までは映せない。
 芹月は楓を呼ぶつもりだ。彼女が頼るのはいつもうから総領媛このかみのひめなのだ。だが楓は再び寝付いた頃合いだろう、
こう度々呼び立てるのでは暇とはいえまい。
 那智の身の内にある明日香の意思が叫んだ。
「芹月、それには及ばない!」
 頼りない女官は呼びとめられて裾をさばけずにつん
のめるようにして膝をつき、見返した。
「ですが、御身のご様子、ただなりませんっ。霊力者
姫様の御身を傍から見るうちに心配りいたしますこと
も女官の役目にございますっ」
 よい郎女いらつめなのだ。これを御宮に推したのはどの者で
あったか。だが、事を大きくさせられぬ。
「楓への言い渡しは許さぬ。采配は芹月に任せる。客
人ある今、浮足だって事の大きくするは得るものがな
い」
 他に頼るを禁じられた女官はしおしおとしおたれる
様子を見せたが、「霊力者姫」の是非を許さぬを見て
理由わけのあるを感じて居ずまいを正した。
「では、同じく女官の藍和あいなに伝えるをお許しください。
ただ今薬湯くすりゆをお持ち致します。朝餉も御身に障りのあ
らぬを改めて整えましょう」
 いくぶん心許無げな表情かおではあったが、己の成すべ
きことを定めたか。芹月は一度巻き上げた御簾を再び
下ろし、霊力者姫に上掛けを羽織らせて掖月わきづきを引き寄
せ楽にさせてから、折敷を持って退いた。
 那智は息を吐いた。薬湯を飲むことになってしまっ
たが、大事になるよりはいい。己はその意思を成した
変わり身で、ただそれだけのことだ。
 これで芹月も楓に頼り切るようなことはなくなるだ
ろう。明日香の意思もそのことをずいぶんと気に掛け
ていた。
 主紗殿に伝わるだろうか。
 藍和は彼のさと伴部とものべひめなのだと「明日香」の意思
で知る。……伝わるだろうか。
 そして身体からだの様子がよくないのは女首長ではなく、
那智なのだと知ってくれるだろうか。
 己の身勝手な感情きもちに少し恥じて、那智は掖月を抱え
込んだ。
						

 山間の国の大川は流れ緩やかな川だった。葦茂り、
水鳥が集まり、魚群れなす。堤と堰を設けて水路が田
圃を潤すようになったのはさほど古いことではない。
 それまでは大川で浮稲を育てて、湿地を開墾しひらいて、
籾を直播じかまきした。
 だが浮稲は収量が少なく、山間の国には湿地が少な
い。水路を造ってからは収量の多い水稲を田に水引い
て育てるようになり、直播くことも減って、近頃では
苗代を仕立てる。
 大川に沿った道は国の礎だった。国外くにそとから道を辿る
と山深い大川の上流を通って領内くにうちに至る。
 国の往来いききも、日頃の農作も魚捕りも、この道が始ま
りだった。多くの民が郷士が歩いた。馬も牛も。
 この道に市が立つようになったのは当たり前の成行
きだったろう。渡来わたり行商人あきなりのひとは人通り多い場所に市を
立てるものだ。
 市の賑わいは今も変わらないが、その場所は変わっ
た。国を繋ぐ「路」が造られ、それは集落むらの中ほどに
まで続いている。山間の国の路の末端すえは市立つ集落むらの
広場だ。
 いきおい、道を行く者は減った。
 田圃や狩猟の行き来も路を通る。それでも魚を捕る
には大川へ向かうこの道を行くが、今その大川は水を
流さぬ。
 朝早い道を行く者は他になかった。
 己と我が君。この国の女首長である霊力者様。それ
から乗騎である二頭。
 明日香をこの道に誘ったのは笙木だった。今、この
朝に野駆けて遠駆けるのにこの道ほどふさわしい場所
を思いつかなかった。
 笙木はこの道を通るたびに歯を食いしばった。だが
今朝は穏やかに馬の歩みを進めていた。
「……遠駆けなど、久し振りだ」
 明日香の言葉に笙木は顔を上げた。毎朝丘に野駆け
て時にはそのまま国見と称して領内を回るのを嗣子かずさか
ら聞いていたから、おかしく思った。
「笙木と遠駆けたのは、ずいぶん前のことだろう」
 あの頃のままの悪戯な笑みを含んだ表情かおを向けた明
日香に、ついつい小言くさくなる。
「前を御向きください、危ないでしょう」
「……やはり主紗と同じことを言う」
 笙木は面喰った。
 白夜なら私を落とさぬ、と明日香は足を速めた。笙
木も馬を小走りに追いかける。あの頃のように。
 時が流れた。
 あの頃はまだ、白夜は仔馬だったのだ。
 明日香の遠駆けに、いつの頃からか主紗が付き従う
ようになり、それも今や伴はなく白夜だけとなった。
 ……それだけの時が流れた。
 ならが己に長くのしかかっていたこの重い枷が外れ
ていくのもうなずける。
 明日香が笙木に笑いかける。関塞は今朝も平生のま
ま、風に弓弦が一度鳴るのを聞いたのだと。今朝も平
生なのだと。
 平生とはその実、常に変わりゆくものなのだ。変わ
らぬものこそ、危ぶまれる。それを笙木は知っていた。
 変わらぬ想いが残されても、それは過ぎ去った物事。
今思い悩むも、僅かの瞬間またたき過去むかしのこととなる。未だ
来ぬ先の憂いなど、言葉の上のことでしかない。時は
流れるのだ。
 変わりゆく平生を皆、駆け抜けていくのだ。
 国を憂うならば、そこから始めなければならぬのだ。
崩れゆくものと生みだされるものがあるのだと。
 笙木がこの国に求めたのは、安寧だった。崩れるこ
とのない安寧を渇望し腐心することを平生としたが、
失うを恐れた。過ぎ去るはずのすべてを、己の枷とし
てしまった。
 過ぎ去ることに逆らっていては、思い残すを枷とし
たままでは、変わりゆくことはできぬ。それでは平生
と呼べない……。

 掛けられた軛を、
 掛けられた枷を、

 掛けられたままでは行けぬ道がある。

 道は変わりゆくがために。
 道を紡ぎ出すがために。
 
 道を歩き出すがために。


 憂いを残したままでは行けぬ道がある。

 求めたために失うものがある。


 失わぬよう、
 傷つけぬよう、
 守り通すよう、求めたとしても。


 すべて道が変わり行くのならば。



 ……何も失わずに守れる道など、ありはしない。




                  【 続 】