金色の輝きと空 其の六
TOP金色の輝きと空


     

 巡る。
 回る。

 動き出す。

 変わりゆく。
 移ろいゆく。

 ただその場に「ある」、その意味は。
「ここ」に、在る意味は。

 失わぬように怯え、
 変わらぬように恐れ、
 行き着く先を求めながら後退り、
 取り戻そうと足掻く、
 意味は。

 どこへ。
 どこかへ。

 どこも。
 どこへも。

「希」は、
「求」は、

 どこか。
 ……かなた、という者がある。


 山間やまあいの国のはたて、隣国たる海辺うみべの国へと続く「みち」の
関塞せきに二十名ほどの兵士と三十名の衛士えじが「防人」と
しての兵役にあった。
 衛士は集落むらから徴用された民、本来の役割は国の要
たる山間の国の首長おびと御居所いましどころを衛る。だが国の大事の
折には「防人」として関塞に送られるのが慣例ならいである。
郷士ごうしとその伴部とものべらが兵士として関塞を固めその通行いききを
司る数は平時は十名ほど、それも今は増やされていた。
 両国の関係かかわりが悪くなる中にあっても、山間の国は己
の隣国に窺見うかみを放てぬ。筆頭郷士いちのごうしが交わした約定きまりのた
めである。
 軍事いくさごと政事まつりごと外交まじわりも、窺見がなくば不利となる。他
国の様子を探る手を失うが、筆頭郷士はそれよりも水
を選んだ。
 周辺の国々は日照りから水不足に陥っている。今や
水を確かに流す川は海辺の国を流れる小川だけだとい
う。諸国はかろうじてその地下水脈や溜め池の水で生
きる分を繋いでいる。例年通りならば、まもなく雨季
になるはずなのだ。
 山間の国の首長おびとは類い稀なる霊力ちからを宿す霊力者みこだ。
「民のために生を捧ぐ一族」として広く知られ、霊力
をもって民を救う。霊力者みこの首長は数か月前、周辺の
国々、同盟つながりのある諸国にあてて伝馬つかい国書しらせを持たせた。
 ひでりに意を留めよ、と。
 そのために国々は早くから水の確保に動いた。語り
部や古老も覚えのないほど日照り、雨がないというが、
暑さに倒れ、渇き死ぬ者がこれまで少ないのは霊力者みこ
の首長のおかげと言える。
 だが、いくら水を蓄えても、雨のないままではいつ
か限界かぎりがくる。
 山間の国とその関係つながりの深い奥津おきつの国を緩やかに流れ
る大川は、この周辺で最も大きな川だというのにすで
に水を流さない。大川を成した伏流がまだわずかに井
戸に掬えるほどの水をもたらすが、それもいつまで持
つかわからない。
 また人や家畜の飲み水までは井戸から得ても、作物
までは回らない。そしてそれは翌年の飢えとなる。
 海辺の国の小川は、大川と対成してそう呼ばれるよ
うになった。大川は山間と海辺を隔てる急斜面、殆ど
崖となった斜面を滝となって落ち、海辺の国の浜辺を
流れてから海へと注ぎこむ。生活用水くらすためのみずには大川で充分、
集落むらからは離れているためにあまり用を成さなかった。
 大川が枯れた今、それでも尚、小川は流れ続けてい
る。その恩恵をこの周辺の国々は皆頼みにしている。
作物の立ち枯れぬだけの水を海辺の国に求めるのだ。
 いきおい水の値が上がる。もとは水に値などつかな
かった。本来ならば売るものでもなく、手に入れるも
の。それでも、少なくなれば、珍しくなり、値が付い
て大切にもされる。
 周辺諸国まわりの国が動く中、山間の国も水を得るために手を
講じた。筆頭郷士はその旧知である海辺の郷士と密か
に約定を交わしたのだ。
 その一つが、窺見を放たぬというもの。
 その期限かぎりは水不足が解消されるまでという極めて曖
昧なもの。それとて軍事いくさには不利になりかねぬ、と山
間の国内では非難されているが、その代わりに山間の
国に優先して水が運ばれる。例え高値であったとして
も。
 山間の国は同盟きずな盟主国あるじ、国力を落とす訳にはいか
ない。だが、水を言い訳に争い、戦を起こすこともし
ない。
 だが彼の決断は英断をはされない。水の代価として
山間の国のたからが海辺の国に運び出されることになる。
 海辺の国は満ち足りた国だ。
 広い浅瀬の湾に面し海の幸を手にし、かつての戦で
は山深くくにを広げ山の幸を得た。満ち足りたこの国は
他国のように交易あきなりに国力や財を費やさずとも自国のみ
で生きるすべがある。
 そのためか交易路たる「みち」で繋がれた同盟国くに同士
での交易にさほど熱心でない。求められて応じても、
自ら求めることはあまりない。
 山間の国ほどの広さも民の戸数も財も遠く及ばぬこ
の国は、それでも豊かな海と山に抱かれ、両国は共に
同盟きずなを支えてきたのである。
 その海辺の国に、山間の国の財が流れ出ることで国
同士の勢力ちからが大きく変わっていくことを懸念する者た
ちがいる。
 彼らは筆頭郷士があくま交易関係あきなりのつながりで事を進めようと
するのを良しとせず、国力が落ちる前に武力を見せつ
けるべきだと説いた。そしてあわよくば国境くにさかいに沿うよ
うに蛇行して流れる小川の上流を山間の国に取り込も
うというのだ。
 霊力者みこの首長は戦を好まぬ。戦のために民が欠ける
を好まぬ。「民のために生を捧ぐ」限りは許されぬこ
とだと、筆頭郷士の策をとっている。
 だがいつの間にか「戦派」と呼ばれるようになった
者たちもここで引く訳にもいかぬ。彼の国が窺見を遠
ざけたのは、のちの戦を見越してのことに違いなく、
事を有利に運ぶがためかも知れぬ。
 両派の、互いの妥協は関塞せきの増員となった。
 関塞に衛士を送り、兵士を平時の倍と成す。どちら
も国の大事にのみ採られる決がなされたのである。
						

 その国のはたては、ひるの鍛練が終わり、和やかなひと
ときである。午の最中にはわずかにおとなしかった蝉
は再び大きな音を響かせる。この時期の蝉は、季節の
終わりに鳴くものよりもけたたましい。一匹が鳴き始
めると示し合わせたように一斉に声を張り上げる。そ
の鳴き始めの不思議さを味わいたくて山裾の林に分け
入った幼い頃を思い出した。ふと腰までもない幼木おさなぎの
小枝に空蝉ぬけがらを見つけてしゃがみ込む。
 背中に編んだ長い髪が揺れた。腰に届くほどの長さ
があるがざっくりと編まれて、毛先は革紐で乱雑に括
られている。大きめの瞳とその目元、口元が陽気な印
象を与えるためか、実際の年齢としよりも幼く見られがち
だった。だが細身であってもよく鍛えられ引締まった
体躯は年相応かそれ以上、間違いなく兵士ものもだ。
 彼の名を、見楢みははそという。山間の郷士の庶子むすこに生まれ
て兵士となった。母は他郷の伴部とものべひめだったから、年
こそは年長だがさと総領このかみを継ぐような立場にもならず
郷邑むらおさにも収まらず、それでも武芸の心得を修めた
ために兵士として首長に仕えている。おそらくは郷の
総領は異母弟ことはらのおとひとのうちの誰かが継ぐことになるだろう
から、そのあたりに関しては気楽なものだ。
 彼は今、胸当むねあて脛当すねあて手甲こうといった小具足こぐそく姿だった。
鍛練の最中には皮甲よろいを身に付け弓持っていたのだが、
この昼日中に体を動かせば蒸れて仕方がない。鍛練が
終わってすぐに脱いで皮甲に風通しをして、中身は木
陰を求めて関塞せきの裏手の林に入ったのだ。それでもさ
すがに腰には太刀を佩いていた。
 彼は大刀を好まない。この太刀は普通のもの、見楢
の体格に合わせるだろう大きさよりも小ぶりに造らせ
たものだ。弓射るよりも間近に相対した時に、動きや
すいことに重きを置いた造りとなっていた。そうでは
あっても、彼にはそれよりも己に合った得手があった。
だから、太刀に頼った組み手は決してしない。
 しゃがみ込んだ彼は、蝉の大声を耳にしながら、脛
当の小紐を括り直した。……腰から垂れた鎖が、じゃ
らりと音立てた。
 瞬時、見楢は受け身を取った。転がりながら己の得
手とする得物を構え、膝ついて半身を起こし見まわし
た。
 空蝉の幼木の元、彼がいた場所には刀子とうすが刺さって
いた。
 背後の気配を察して迎え撃つ。鈍い金属音かねのおとはひとつ、
互いの刃の立てたもの。そしてじゃらりと鎖が揺れて
音鳴らす。
 合った目は鋭く、布の頬当ほおあて表情かおは見えない。
 黒橡色くろつるばみ肩衣かたぎぬ、両の手足に堅く巻かれた麻布。山野
を音立てず歩くための毛綱貫つなぬきくつ。良く鍛練の積まれ
たその動きは、だが兵士つわもののそれではない。
 互いが相手の間合いを嫌い押し合っていた刃を弾い
て離れるその一瞬の隙。見楢は相手の利き腕、短剣つるぎを
握る腕に鎖を絡ませて動きを止める。
 そのまま組み伏せようとしたところを、だが鎖を握
られて引かれ体勢を崩した。
 相手がみぞおちを狙って膝蹴るのを見て取って、崩
れた体勢ながらも得物を手放した両腕で防ごうとする。
 だが相手は膝蹴りではなく、護った腕ごと、見楢の
体を蹴り飛ばした。飛ばされた見楢は背後の幹に、背
したたかに打って、呻いた。
 その幹、顔の近いところに己の得物が突き刺さり、
見楢は身動きを無くす。投げた相手を凝視した。頬当
をはずして鼻で笑い、歩み寄ってくるその顔。
「お前は詰めが甘い、見楢」
 側にしゃがんで見楢の顔を覗き込んだ。
「鎖に頼りすぎる。徒手むてに弱い」
 ……数年ぶりに会ったその顔。櫨丈はじたけだ。文句を言い
たいが、見楢はその痛みに声が出ない。
 近頃の櫨丈はあまり領内くにうちにいない。見楢は太刀佩く
頃までは、この十も年の離れた従兄に徒手の技を教わ
っていたのだが、兵士となって軍衙ぐんがに出仕するように
なってからはめっきりと顔を合わすことが減っていた。
「……いつ、戻った」
 絞り出した苦しい声は掠れた。だが要件を訊ねる意
図は伝わったようだ。この母方の従兄は、ただ様子を
見に会いに来るような暇はない。必ず、何かある。
 見楢の考えの通り、櫨丈は無言でふみを差出した。
 痛む腕で広げた文にざっと目を通して大意をつかむ
と、見楢は眉根を寄せた。
「面倒事だな」
 委細を知っているらしい櫨丈も頷いた。だが下命の
遂行だけが彼の大事で、口を挟む気がないらしく、立
ち上がって背を向ける。
 次は太刀の腕前を見せてくれ、と言い置いて、櫨丈
は山裾の林を抜けていった。関塞の者たちに姿を見ら
れぬように離れてから路に出るつもりなのだろう。
 徒手で名の知られた櫨丈には、太刀ではもっと敵わ
ない。幹に刺さったままの己の得物の柄を掴んだ。己
の背丈ほどの鎖を連ねた鎌は、櫨丈が仕込んでくれた
徒手の技を使う見楢にとっては太刀よりも使い勝手が
よい。鎖の鎌を使いやすくするために、わざわざ太刀
を小ぶりにしているのだ。
 その鎖の鎌で敵わぬうちは、その小ぶりの太刀の刃
が櫨丈に届くはずがない。次も見楢は鎖の鎌を構える
だろう。
 見楢は文にもう一度目を通した。木札が添えられて
いるのを確めた。そろそろ関塞内の小館に戻らねばな
らぬだろうが、この文は皆の前で読むわけにいかない。
 昼下がりの頃のことである。
						

 
 岩場に女がいた。
 湾を形作る岬のように貼り出た岩場のその端、女が
一人たたずんでいた。
 巌がいくつも積み重なったこの岩場の向こう側を、
この海辺の国では外海そとうみと呼んだ。その先は異国とつくにへと続
く海である。
 釣糸を垂れれば大物のかかる場所であるが、今は他
に誰の姿もなく、だから女はただ海と空の境を見てい
た。
 何かを思い巡らそうとしていたかも知れぬ。思い返
そうとしていたかも知れぬ。それとも何も思いたくな
いのかも知れぬ。もうそれすらもわからなくなって、
だから海と空の境を見ているのだろうと思う。
 皆、何かを抱えて生きている。生きている限りは。
 笠耶かさやも、その一人だ。……まだ、生きているから。
 海辺の国の集落むらは、いつもと変わりがなかった。こ
こ数日の客人まろうどが通り過ぎるように去ったが、それはい
つものことで、女たちは乾魚ほしいおを天日に並べ、男たちは
夕方のすなどりのために網を繕う。
 笠耶がその輪に加わらないのも、いつものことだ。
 手の空いているときなど、たまたま居合わせたとき
の他は笠耶は作業に加わらないものだった。そして誰
も、敢えて強いることは殆どない。だから彼女は己が
望むならばいつまででも海と空の境を見続けることが
できた。
 彼女の立つその場所は安定した巌の上、それも平ら
に削られ、黒く煤けていた。篝火かがりの痕である。
 平時は焚かれぬ篝火を、笠耶は一度だけ海上から見
たことがある。おそれくは、己はそれを思い返そうと
していたのだろう、だがそれは靄の先の何かに阻まれ
ているようで、思い煩うことすらできないでいるのだ。
 ふと背後に気配を感じだが振り返らなかった。前を、
海を見ていたかった。波が足元の巌にあたり、こぽこ
ぽと音立てた。
「笠耶は……海を見ているのではないのね」
 声で、それが巫女様だと分かった。巫女のないこの
国に来た旅の巫女様。年端のいかぬ、ちょうど客人の
男くらいの若い御方ではあるが長老おきな方のような者の見
かたをなさる、不思議な御方だった。
 海を見ているのではない。
 確かにそうなのかも知れなくて、笠耶は何も返すこ
とができなかった。
「見ているのは、『この海』ではない……違う?」
 頷いた。
「この海を、見ている人もいる」
 ……今度は頷くことができなかった。
 この国に生きる者は、この国の海を見ていて、だか
らこの海で生きている。己の生きるここは皆の海だが、
己の海ではない……皆と違って。
「運丁はこびよほろが出るとか」
 運丁とは運脚の労役えだちだ。他国への御調みつきや関塞への荷
を運ぶ人夫はさとの者ではなく、集落むらに課されている。
近頃では運丁と言えば水を他国へ売りに行くことだっ
た。
「……山間の国だと聞いた」
 それは隣国のことだ。奥津や深見ふかみの国への道程みちのりを思
えば、これほど近い国はない。重い水樽を幾つも引い
ても、四・五日で戻ることのできる運丁である。
 だが笠耶の脳裏に浮かんだのはそのようなことでは
なかった。その国の名は、彼女に幾つもの複雑な想い
を呼び起こすのだ。その想いを語ったことはない。そ
れでもこの年若い巫女は彼女の想うその何かに想い当
たるような口振りで話した。
 それで笠耶は、ああ、この御方はやはり巫女様なの
だと思った。語らずともよいのなら、その方が今は心
地よかった。
「遠波とおなみ揮尚きしょうに会うかもしれない」
 笠耶は振り返った。
 揮尚とは笠耶が客人の男につけた名だった。今朝方、
見送ったばかりの男は本当は主紗かずさと言って、山間の国
から誤って国境くにざかいを越えた間抜けな、だが気のいい男。
 彼は山間の国に戻っていった。ならば遠波が運丁に
言って会うことのないとは言えなかった。だがその言
葉は違う意味を持って笠耶の胸に響いて早鐘を打った。
 遠波が、揮尚に会う……。
 向かい合った巫女様の表情かおには何もなかった。から
かいも侮蔑もなく、いたわりも優しさもない。それは
言葉の意味のとおりの他に、違う意味がないからだ。
……少なくとも、この年若い旅の巫女にとっては。
 振り切るように笠耶は巫女の横をすり抜けた。足場
の悪い岩場を、絡みつく裳裾をたくしあげて足早にな
った。集落に戻れば遠波がいる。……今は顔を合わせ
たくない。
 あまり集落の者が来ることのない小川の向こう、郷
士らの邸宅やしきの並ぶ郷の道を笠耶は歩いた。途中すれ違
った誰かは郷の邑人むらひと随従つかいひとだったような気もするが、
今は会釈が精一杯で、それが誰だったのか気に留める
ことはできなかった。
 このまま行けば山路みちに出てしまうというところで、
道を逸れて林に入った。
 海辺の国はいつもと変わらぬ平生だった。ただ、女
が一人、少しうち沈んだようすを見せていることに気
付いてはいたが、敢えて触れようとする者はない。
 日の傾く前のことである。
						

 それはきっと白昼夢ひるゆめだった。
 何も考えられないのはそのせいで、何も覚えていな
いのもそのせいだ。
 堅く、柔らかく、眩しく、暗い。
 それは、誰だったろう。問いかけることすらなかっ
た。問いかけることすら知らなかった。
 ただそのように振る舞うことを望まれて求められて、
そのように振る舞ったら、喜ばれて褒められた。
 そのように振る舞うことだけを教えられていたから、
そのように振る舞わなかったら、酷い仕打ちを受けた
ように思う。
 なのに、ときどきちゃんと振る舞っていたのに、酷
いことをされたような気がする。でも、もしかしたら、
酷いことでもなかったのかも知れなかった。
 何故、覚えていないのだろう。
 その後に起こった出来事が、強く刻み込まれて胸を
叩くから、そのせいなのだろう、きっとそうだ。
 夢から覚めて、何も思い返すことができなくなった。
 夢はきっと、貘とかいう生き物が喰らって、だから
もう思い出すことはない。
 白昼夢ひるゆめはもう見ない。
 あれからもう、見ない。
 だけど、もしかしたら今ここに在るすべてが夢で、
そうだとしたら、夢から醒めてしまいたい。強く胸を
打つ早鐘だけが、醒めた後にあるといい。
 そんな夢を、見ている。
						

 幾度目かの倒木をまたぎ越した。
 足元は轍の跡すらない、いやそもそも車や輿の通る
ほどの幅もない。獣道のように続く道である。
 小川に沿うように、ときには離れながら、だが付か
ず離れず道は上流へと続いていく。急ではないが僅か
な段差が小さな滝を形作っているのを見て、それで確
かに己は山間の国へと向かっているのだと思う。
 森の木々から日射しの木洩れる、荒れた道である。
場にふさわしくない、身なりの良い男が歩いていた。
 縹色はなだの袍は本来盤領まるくびだが、えりを内側に折って垂領たりくびに
して着ているのは山歩きのために動きやすく着崩して
いるからだ。筒袴つつばかまには足結あゆいをつけ、膝下は脛巾はばきの代わ
りに長い布を巻き付けている。否、左足首の布は薬を
貼って固く巻いてある。歩き方はどこか痛みを堪えて
左足を庇っているようである。腰にはとうの蓋付の籠、
そして鞘。その大きさから収まっているのは短剣つるぎだろ
う。
 時々、その短剣を抜いて行く手を阻む頭上から垂れ
たた蔓をもどかしそうに薙ぐ。
 彼は急いでいた。
 だが行く先の見えぬ初めての道、痛む左の足首。気
は急くばかり、いくらも進んだように思えない。
 早朝、日が昇ってからこの道に入り、一度も休まず
歩いてきた。時を確かめようにも、茂る木の葉に遮ら
れて陽の位置はあやふやだった。だかおそらくひるをす
でに越えているだろう。
 彼には今すぐにでも伺候すべき主があった。
 長く国を空けたことについてはただ詫びるほかない。
 それでも無為に時を費やしたつもりはない。
 己が些細な過ちから隣国に入り込んだことは、今は
それなりの意味があったと思える。そうだきっと、己
は「そのこと」を知るがために国境を越えたのだ。
 だが、知ったことを己の主にすぐにでも伝えなくて
はならぬというのに。
 今、己は道を作りながら歩いているのだと己に言い
聞かせた。……道は己の後ろに、己の来た道ができて
いるはずだ。
 だが彼には振り返る勇気がなかった。確める勇気が
なかった。
 彼には護るべき人がいる。何に代えても護るべき人。
 だから、そのために行く手を拒むものを薙ぐ。振り
払う。それはこの道の先にあるもの、起こることのよ
うに感じて、そして己の短剣を抜いて切り払う。
 そのように進むのは、今の己にはきっとちょうどよ
いのだと思った。
 彼は不安を拭うように、そして後に続く誰かを守る
かのように背の高い草を掻き分けた。だが、振り返る
ことをしない。
 彼の名を主紗かずさという。山間の国の筆頭郷士いちのごうし嗣子むすこで
ある。
 山間の国に数あるさとの中でも広く、肥沃な耕地を抱
えた郷を本拠地よりどころとして育ち、いずれは郷の総領このかみとなる
立場ではあったが、今のところ伝来の郷を父に任せた
まま己は国の首長おびとたる霊力者みこ様の従者ずさとして仕えてい
た。
 耳に蝉の鳴き声が響く。蝉は何をきっかけにするの
か、いっせいに声を張り上げるのだ。
 数日前、馬を引いてこの森に入ったときはまださほ
ど蝉の声はなかった。それを思い出して、時の経った
のを思う。そして少し不思議に思う。
 ……少し、時季が早くはないか。
 例年ならばひと月に足らぬ程の雨季が明けると同時
に鳴き出すのだ。
 暦を考えるならば雨季に入ってもおかしくない頃合
である。年によって遅れることはあるのだが、季節が
遅れているなら、蝉が鳴き出すのは、早い。
 季節の巡りが、狂っている。
 大地の巡りは些細なことで崩れていく。
 その軋みは、こういうことか。見えぬようにだがゆ
るりと、大地の生きるための巡りが死に向かう。
 霊力者は、大地の狂いを糺すという。
 だが主紗はもう、大地を糺すことができぬことを知
ってしまった。
 その発端おこりを見つけてしまったような気持ちになり、
耳を塞ぎたくなったが、それは意味のないことだ。
 彼にできることは限られていた。己の知ったことを、
いちはやく己の主に伝えること、そして確めること。
 彼の主は風を使う霊力者、まったくその予兆きざしを感じ
ずに日々の御勤つとめをこなしているとは考えにくい。それ
とも風は……何も応えぬというのか。
 彼に大地の狂いを教えたのは海辺の国に在る旅の巫
女……霊力者様だった。彼女には水の霊力ちからがあり、水
を「使う」。
 それは山間の国の霊力者の女首長めおびとが使う風の霊力と
見劣りしない。彼女がその霊力で知り得たという大地
巡りの狂いは……水が彼女に教えたこと。では、風は。
 ……水は、おそらく風も火も、彼等の意思は大地の
意思に従うから。
 すべてが大地の意思に従うならば、風もまたその意
思のままに死に行こうとする。風はそれを霊力者に感
じ取らせぬうちに、死に向かおうというのか。それと
も己の主はすでに察していて、口にすることをためら
っているのか。
 大地は生きようとはしないかもしれぬ。だが主紗に
はまだすべきことが、できることがある。
 彼は己の主、近隣にその名を知らしめる「民のため
に生を捧ぐ一族」の霊力者みこ姫、明日香あすかのもとへ帰らね
ばならぬ。
 幾度目かの蔓を薙ぎ払った。
 まだ日の傾く前のことである。
						

 小川の河口から道を遡り林に入り、小道は八十足やそあしば
かり歩くと見える御館みたちがある。
 四棟が連なり、高床の各棟は階段きざはしを降りずとも移る
ことのできるようその打竹さきたけの縁を渡り廊が繋ぎ、欄干おばしま
が巡っている。これを渡殿わたどの御館みたちと呼んでいる。
 郷士の邸宅やしきにある殿舎みやしろ御館みたちに劣らぬ造りだが、こ
こに平生から住まう者はない。
 今、旅の巫女がここを仮の神殿かむどのとして借り受けてい
た。
 巫女は水の霊力を持つ霊力者、水葉みなはという。だが彼
女をその名で呼ぶ者はこの国にない。
 ここ海辺の国には巫女の類はいなかったから、巫女
の名の意味も所以もそれ故の重みも畏れも元よりない。
霊力を持った霊力者と声を聞く巫女の違いも、この国
では必要ではないものであるから、彼女は巫女様、と
呼ばれた。
 ……霊力者とは山間の国の首長の一族うからに生を受ける
者。だが多くの者は意を留めず、またそれほど厳しい
意味を考えない。
 彼女は生国を離れてから、旅の技芸人わざひと俳優わざおぎの一行
に交じり育った。国を、路を流れながら年を重ねて、
十二の頃に霊力を操れるようになった。そして一行を
出たのだ。
 彼女の養父母やしないおやはまだ彼女が幼いうちに霊力を自在に
できず抑える術もなく使ってしまうを見て類稀なるを
知った。それでも一行の他の子どもたちと分け隔てる
ことなく育てたが、霊力が操れるようになった彼女に
一行を出るように言った。
 巫女様を一行に留め置くことは致しませぬ、と。
 彼女自身もどこかでいつかここを出ていくのだろう
と漠然と思い、そしてそれは霊力を、水を「使う」こ
とができるようになってからだろうと思ってきた。
 養父母を恨むようなことはない。彼らはよくしてく
れた。それから彼女は一人で旅を続けている。
 一か所ひとつところに留まることはなかった。生国を持たない彼
女はただ流れるより他にない。巫女だというだけで、
どこにその宿を求めても待遇もてなしはよい。それでも邑長むらおさや
郷士らが事を大きくする前にその地を去った。己の身
は地に在るのではなく、流れの中にあるのだと思って
いた。
 だが、この海辺の国ですでに二月を過ごしている。
 ここに在らねばならぬ理由を自ら作り出してしまっ
たことは本分に外れること、それでも成し遂げること
を決めた。
 霊力者は大地の狂いを糺す。
 彼女にはもう果たせぬことである。それでも成すべ
きことがあるのは心地よい。ただ流れるのではなく。
 ここで彼女は巫女様と呼ばれる。ならばいっそ巫女
様の役目を果たすのもよい。そのように考えられるよ
うになった己に、少しだけゆとりを感じて笑った。
 過去むかしの己を、今、笑う。
 彼女は今、石垣に腰掛けていた。
 渡殿の御館に程近い石垣は彼女の背丈を一回り越え
る高さがあるが、御館の側、海から見て反対側からは
補強や支えのため盛り土されて土手となり、膝下ほど
の高さに抱える大きさの石が積まれている。
その石垣の石の一つに腰掛けて海側に足を下ろすと、
彼女の後ろ、御館のある辺りが周りよりも段高くなっ
ているのがよく分かる。
 この石垣を水城みずきと呼ぶ。造作されてからすでに久し
く、詳しいことは伝わらない。盛り土された上の木々
は樹齢としふり重ねて太く、植えられてからの時を思わせる。
 水城は海と山を隔てるように領内くにうちを横切っていた。
 ここに腰掛けても海は林を成す木々に遮られて見え
ない。海から離れていることがこの水城にとって重き
こと、それを水葉は知っていた。
 二月前、この国に来た頃、この国の海の水をその両
手で掬った。その瞬間またたきに海は彼女の意思に入り込み、
「海の見ていたこの国」を見せつけ叩きつけるように
意識の中に刷り込ませた。
 語り部も古老も知らない、海の出来事。この国、こ
の土地のすべて。すでに起こってしまい、起こりきっ
てしまい、まったく手のくだしようのない。誰のせい
でもなく仕方のない、過去むかし群像むれ。
 だが、それらは関わりのないはずの水葉の意思に迫
り来て責め立て、苛むのだ。……海は、この国は。あ
まりにも多くの想いを抱え込みすぎていると水葉は思
った。
 この水城は幾年もかけて何代もかけて役夫よほろたちが築
いた。山肌に生えた木々を倒し、山を切り崩し、土を
籠に盛り車を押して、舟で下り、また車に移し籠に盛
り、運ばれた土を築き上げて槌で突き固める。大石を
崩れぬように重ね上げて土を塞き止めて砦のように塁
成した。
 少なくない数の怪我人と犠牲を出して、それでもこ
の水城は皆に求められ続けて、造作と補修を繰り返さ
れて今にある。
 これほどまで強い願いと想いを掛けられた造作が疎
ましく、同時に恐ろしい。
 苦難の行く末にその土に埋もれた想いが忘れ去られ
て、受ける恩恵だけを頼みにされて有難がられている。
 もちろんその恩恵を受けるために造られたものだと
いうのに、水葉は過去むかしの苦しみを身の内に抱えてしま
い、恐ろしいのだ。
 何故、誰もこの強く重苦しい想いを受け止めずにい
られる。何故、この恐ろしさに気付かない、無視でき
る。
 水葉はきゅ、と目を閉じた。
 膝の上の拳を握り、首を振った。……考えてはなら
ぬ。考えてしまえば、きっと何もできなくなる。
 今は、こんな卑小な己であっても成し遂げるべき事
があるのだ。
 成すべきことがあるそのことは、彼女をやっと彼女
たらしめていた。
 生国に捨てられ、流されてここまで生きてきてから
やっと。
						

 夢を見ている。夢の中で、夢を見ている。だから夢
を現実うつつと思い、真実まこと現実うつつを忘れている。
 名を呼ばれた。己は……己の名は何だったか?
あぁ、名を……忘れていた。
 そのようなことがあるか、と言われても、あるのだ
ろう、としか答えられない。忘れていたのだ。いや、
名を……捨てたのだったか。そんな夢を見ていたのだ。
 ……把栩はく。次は忘れまい。己の名だ。
 銀色のきらめきを幾つも越えて、渡っていく。穏や
かに、緩やかに。それはいつもあることではなく、と
ても得をした気分になる。きらめきを足元に見ながら
瞳を閉じた。頬に受ける風は凪いでいる。こんな時を
いったいどれだけ過ごした来た。
 再び呼ばれて振り向いた。
 誰だ……いや、いい。そうだ。分かっている。ここ
は己の場所だ。分からぬはずがないだろう。
 ここは……この場所は、なんと気難しい恋人いもだろう。
この、ウミという名の愛しいいも。
 波が舳先へさきに次々と当たって崩れては航跡うしろへ抜けてい
く。同じ繰り返しだが、一つとして同じ波はない。
 これがウミだ。もう忘れることはない。
 貴女あなたも覚えておくといい。
 ウミは現実うつつだ。
 輝ききらめく、現実うつつだ。
 だが……何故現実うつつがこれほどまでに美しい。匂いや
かに、麗しいほどに、この影は濃い……。
 己はそれを知っている。知っているはずではなかっ
たか。何故だ。
 夢を見ている。現実うつつの夢を見ている。
 それは忘れ得ぬ白昼夢ひるゆめ

 御宮みあらかには今、客人まろうどがある。
 山間の国の御宮、客人の御館みたちに迎えられた彼女は、
奥津おきつの国の王書ふみを携えた国使つかい、だがまだ年端のゆかぬ
少女である。
 流れる黒髪はきれいに切り揃えられ背を覆う。小柄
なその身を大袖の白い衣と貫首衣くびぬき帛衣きぬ、茜色の裳に
包んだ少女は、容姿に目立ったところはないが、紅を
薄く唇にのせて眉墨を引いただけという化粧けわいが却って
好もしく、愛らしい。
 両国の礼節に則った行事おこないは一通り滞りなく進められ、
形式かたち通りのやり取りを無難にこなし終えた。
 きらびやかな、だが嫌みのなく気の利いた室礼しつらいの奥
に掛けられた垂布たれぬのの影で、少女はそっと息を吐く。礼
節やしきたりだらけの公の行事おこないでの立ち居振る舞いは、
ただの一つも気が抜けない。やっと張り詰めていたも
のを解いてよいこの御館に戻り、座り込んだまま動け
なくなってしまった。あぁこうして掖月わきづきを抱え込んだ
まま、眠り込んでしまいそうだ。
 彼女の身の周りにつけられた御館の従婢まかたちはなく、奥
津から伴った二人がそっと控えているだけである。そ
れが眠気に逆らう気持ちにならぬ言い訳だ。少なくと
も、煩わしい応対こたえの要らぬ。
 彼女はこの国で生まれた。だが父の国元である奥津
で育った。この山間の国に彼女の所領よりどころはない。だがこ
の国は彼女にもっと大切なものを与えた。……水を使
う霊力者みことしての霊力ちからを。
「那智なち様」
 伴人ともびとが彼女の名を呼んだ。眠りに落ちていくのを妨
げられて那智はわざと少し機嫌を損ねたような声で応
えた。
「何事なの? 煩わしいことには応えないから」
「暗見聞姫くらみのきこえひめ様ともあろう方が、そのような口の利きよ
うをなさいませぬよう」
 那智よりも一回りは年齢としの離れた伴人は眉をひそめ
てたしなめた。那智が奥津に身を移すときに送迎使むかえのつかいを
務めてからずっ彼女に仕える伴人で、玖足くたりという。
 那智の父方の母、つまり祖母が出自とするうからと近し
い友族ともがらの女で、「ひめ」扱いはされずに側仕そばつかえとして召さ
れたらしい。それ以上は那智もしらない。
 男勝りな女傑じょうぶで、女物の衣裳きぬも襦裙ふたもは身に付けず、
盤領袍おとこものを着て筒袴に足結までしている姿はほれぼれす
るほど男らしい。那智も日頃から頼りにしているのだ
が、時折思い込みの激しさと気の強さに手を焼く。着
飾れば美しいと分かる凛とした容貌から、手痛い思い
をした者も多いらしい。
 もう一人は羽珠はねず、こちらは大人しく穏やかな男で、
口数も少ないのだが思慮深い。色白で後ろにひとつに
した髪は艶やかに長く、年齢の近い異母姉くたりと面立ちも
似ているために、中身が異なって育った、と言われて
いた。
「ここでは暗見聞姫くらみのきこえひめではないのだもの…」
 那智は奥津の国での尊称よばれなである。他にも御闇分皇女みくらわけひめ暗見知姫くらみしるひめ御聞皇女きこえひめ御聞大君きこえきみ暗見大君くらみきみ、今までに
使われた、呼ばれた名はたくさんあった。だが、那智
はそのすべてを覚えていない。
 奥津は巫女の国である。巫女は名を死ぬまで証明あかさ
ない。名の知られたときは、巫女を辞める。否、辞め
るときに名を初めて名乗る。元より名のあらぬ者さえ
もあった。
 名は、巫女にとって要らぬものである。巫女は「ほ
かの何物か」の声を聞く。ほかの何物かの声を身内みのうちに
成すために、己の意思を自ら捨てて忘我する。ために、
名は邪魔でしかない。
 だが、那智は違った。彼女はこの近隣に名を知らし
める山間の国の霊力者みこの一族、その霊力ちからを水に受けて
生まれた。彼女には生れ名と通り名、そして霊力者みこと
しての受け名があった。それらの名はこの国を去って
から要らぬものとなった。……彼女は巫女となるため
に、奥津に向かったのだ。
 那智の父は奥津の有力な交易人あきなりひとである。奥津王の年
齢の離れた同母弟いろとで名を那杞なこ 王族 おうのうからとして政務まつりをよく
補助たすけている。
 前王さきのおうみめ多く、那杞に異母兄弟ことはらのえとは両手に余る。前王
がなくなった頃はまだ太刀佩かぬ子どもだった上に、
王嗣ひつぎの皇子、太子には同母兄あにがついていた。那杞の兄
がそのまま玉座に即位ついたために、嗣君ひつぎのきみの一人に名を連
ねた。まだ太子を設けぬために、身辺はややこしい。
 嗣君である那杞が他国の姫を妻問つまどいしたのは理由があ
る。
 まだ戦の収まらぬ頃、奥津の国はその国家資源くにつたからたる
鉱山かねのやまを狙われ続けて疲弊していた。背後を突かれぬよ
う、近隣の大国と手を結ぶ必要があった。また山間の
国としてもその鉱山が産み出すたからは魅力的だった。
 両国の思惑が重なり、那智は生れた。
 奥津の国は巫女の国、巫女の御社みやしろを束ねる御社君やしろのきみは
王族の皇女ひめと決まっていた。そのとき王族の未通女おとめの
うち大姉おおえであったのが那智である。まだ名受けもせぬ
霊力者みこを他国の巫女と成すのにも反発があったが、前
の女首長めおびとはそれよりも国の関係つながりを保つことに心を砕い
た。
 那智が「水」の名を受けたのはそれより五年ののち、
まだ十を数えた頃である。
 山間の霊力者であり、奥津の巫女である彼女の名を、
水の受け名を呼ぶ者はほとんどない。だから側仕の二
人にはそれを求め、この生国にある間は、奥津での尊
称を厭う。
 もし霊力を持たぬただの巫女であったなら、名など
要らぬ。王族故の尊称で呼ばれることを格別に感じる
こともあるのかも知れない。
 だが彼女は霊力者であり巫女なのだった。
 ときどき、霊力を持たぬことを夢見る。霊力などな
くとも、己は山間と奥津の両国を生きることになった
だろう。そして、霊力があっても雨を呼べぬなら、今、
両国のどちらも生きていることにもならない。
 まして、霊力があってもなくとも、御社の奥であの
人を想い募らせて胸を高鳴らせているのだろう。
 何が違うだろう。
 前世さきのよの霊力者が残したわずかな霊力では雨を呼べぬ
と、我が身を憂うことがなくなるのだろうか。
 否、両国を生きる者として、霊力及ばぬは耐えられ
ぬという危うきを知りながら、山間の女首長の霊力者
様に霊力を合わせて雨を呼ぶことを推すようなことを
せずにすむのだ。
 那智には分かっているのだ。霊力を合わせれば、間
違いなく己の身は耐えられずに果てる。……だから、
雨雲を呼びましょうなどと言えば、女首長は必ず首を
振るだろうことを。
 それでも、なんども彼女はそう繰り返し、女首長に
言い続けている。言いようのない安堵を己が得たいが
ために。
 霊力なくば、そんなやりとりをせずにすむのだ。
						

 玖足はもう一度、主の「名」を呼びかけた。ただの
巫女ならば在り得ぬことである。ときどきこれは本当
にこの御方の名であるのか疑念を持つこともないでは
ないのだが、少なくとも主はそのように呼ばれるのを
好んでいるのを知っている。
「……手短に言って」
 那智様は今にもまぶたを落としそうな様子で、それ
でも仕方なくといったように身を起こして居ずまいを
直した。
 異母弟ことはらのおとである羽珠が少しだけ膝を進めて言う。
「接見されたし、とのことです」
 相も変わらず、言葉が少ないにも程がある。確かに
手短ではあるのだが。もちろんのこと聞き直されて、
羽珠は細かく付け加えることとなった。
 かえで殿が、お会いしたいと申されている。
 楓殿はこの御宮の女官だ。だが取り次いできたのは
この御宮の者ではないようだった。彼女の郷の伴部とものべだ
ろう。それはつまり、郷の総領媛このかみのひめとしての訪問おとないである、
ということだ。
 玖足は何事かを察して勘ぐった。彼女の郷の総領このかみ殿
のことを思えば無理からぬことである。
「いかがなさいます」
「……眠たいし。先ほど会ったし。明日にしてくれな
いかって答えておいて」
 那智は夕餉まで昼寝うたたねするつもりだ。裳を緩めて奥に
ある御簾の向こう、臥処ふしどに膝を進めようとする。
 だが、それを玖足は遮った。
「明日までに事態ことが変わっていたらいかがなさるので
す、とお尋ねしたのです」
 確かに朝、那智は楓と会っている。だがそれは女官
としての役目にあった楓であって、那智は水の霊力を
纏って女首長の姿を映していたのだ。楓は那智に会っ
たとは思いもよらないだろう。
 この国に着いたとき、門殿もんでんから首長に謁見するため
の礼会殿らいかいでんへ移る先導を務めたのは楓だった。
 楓はまだ年若い女首長の頼みとする女官で、側近もとこの
一人だ。もう一人の側近の従者、主紗と並び称されて、
女従者めのずさ殿、などと呼ばれるほどに。
 だが楓は暇をとっていた。郷に帰らずにこの御宮で
過ごしているのはこのためかと、玖足は思っている。
 明日に引きのばして、その間に何を仕掛けられぬと
限らない。事態というものはときには一気に大きく動
くものであることを、玖足は知っている。
「羽珠はどう思っている」
 那智は玖足がすぐに会え、と言うのに気が乗らない。
それでも己の伴人の顔を立てることくらいはしてもい
いと思ったのだろう、羽珠に言葉を求めた。ただ昼寝うたたね
がしたいだけで、会わぬわけにいかないことは分かっ
ているのだ。
「取り次ぎの者は要件を申しませんでした。だがあれ
は家人けにんでしょう」
 ふうん、と那智はやはり気の乗らない声を出して、
目配せをした。異母姉弟は那智の意をあやまたずに捉
える。
 玖足が那智の座を作ったので、仕方なくそこへ膝行いざ
った。奥の上座ではなく。
 上座にあたる五重いつつえ真菰まこもの畳を下りて迎え、郷の総
領媛に上座を譲り、媛はそれを固辞して両者が同じ座
を作って相対する、というのが型どおりの礼節なのだ。
 まだ掖月を手放すのは惜しいのだが、館内を整える
伴人がそれを上座の畳に置いたため、仕方なく那智は
背筋を伸ばして姿勢いずまいをただした。
 羽珠が館内にないのは取り次ぎの者に伝えに行った
のだろう。それにしては階段きざはしを降りる軋んだ音がなか
った。
 郷の総領媛はややしばらくの後に、薄青の乱れ模様
も匂いやかに美しい、倭文しつり染衣しめころもに淡い花葉色の領巾ひれ
を肩掛けた姿で階段を軋ませた。
 二人は型どおりのやりとりのあと、向かい合う。
「ご挨拶の遅れましたこと、お詫び申し上げますわ、
那智の姫様。御宮に御勤おつとめの持ちます身では、なかなか
このようにお会いするのは礼を失います故、ご遠慮申
し上げておりました」
 やはり女官としてここに来たわけではないのだと、
二人の伴人は確かめあって互いに目線で合図をした。
 二人はしとみを開け放して御簾下ろした打竹さきたけの縁、ち
ょうど衝立や几帳の影になるあたりに控えていた。
楓の連れた取り次ぎの家人も階段の下にあるため、客
人の御館には那智と楓しかない。
「義叔母おば君は暇あり、と聞いておりましたから、郷に
おりますものと思っておりました。お話することはで
きないと思いましたのに、お訪ねくださいますとは」
 楓も少し笑って、義叔母などと仰られると、急に老
けこんだような心地がするなどと続ける。……那智が
わざとそのように呼んだことに気付いて余裕で返して
みせた。さすが御宮に長い女官は女の言い合いに強い。
 そして、そうでなくば、早くに妻問を受けて郷に帰
るだろう。那智は素直にそれだけは感心している。
 だが楓にしてみれば、己の半分にも満たぬ少女に口
で言い負かされるはずもない。そこは意地がある。
 ほほほ、と二人の笑む声に不穏なものを感じて、羽
珠は顔を引きつらせた。玖足を見やると、同じように
顔をしかめている。……おそらく、取り次ぎの家人も
同じだろう。
 日の傾くのはまだ先のことである。

  





                  【 続 】